『河明かり』(昭和14年4月)
【245ページ】
私はよくも見つけ当てたというよりは、何だか当然のような気がした。望みというものは、意固地になって詰め寄りさえしなければ、現実はいつか応じて来るものだ。私が水辺に家を探し始めてから二ヶ月半かかっている。
【255ページ】
少しの間、窮屈な空気が漂っていたが、娘は何も感じないらしく、「みなさん、こちらに面白そうなことを少し話してあげて下さい」というにつれ、私も、「どうぞ」と寛いだ様子を出来るだけ示したので、女たちは、「じや、まず、一ぷくさせて頂いて----」と袂(たもと)からキルクロの莨を出して、煙を内端(うちわ)に吹きながら話した。
【264ページ】
観念が思想に悪いように、予定は芸術に悪い。まして計劃設備は生むことに何の力もない。それは恋愛によく似ている。では----私はどうしたらいいであろうと途方にくれるのであった。だが、私は創作上こういう取り止めない状態に堪えていて苦しい経験の末に教えられたことも度々ある。
【274ページ】
樽廻船は船も新型で、運賃も廉くしたので、菱垣船は大打撃を蒙った。話のうちにも老主人は時々神経痛を宥(なだ)める妙な臭いの巻煙草を喫った。
【276ページ】
老父は右手の薬煙草をぷるぷるふるわして、左の手に移し、煙草盆に差込むと、開いた右の手でどこへ向けても判らず、拝むような手つきをした。
【336ページ】
そして彼は巻莨を取り出して、おもむろに喫っていたが、やがて、私から少し離れて腰をおろして口を切り出した。
【344ページ】
「嫌なものですよ。幼な心に染み込んだ女同志の争いというものは、中に入っているのが子供で何も判るまいと思うだけに、女たちはあらゆる女の醜さをさらけ出して争います。それはずーっといつまでも人間の心に沁みついて残ります。----」
[Ken] 本作は、よく湾岸を散歩する自分にとって、「なるほど!」と気づかせてくれる記述が多く、河川と東京湾が時代とともに大きく変化してきただけに、とても勉強になりました。
たばこの標記では、今ではまったく見ない「莨」となっており、年代の違いを感じますね。それに、わざわざ「巻」をつけているのは、「莨は刻みたばこのことである」という認識が残っていたからだと推測できます。それにしても、「薬煙草」と呼ばれるたばこまであったのは、史実としても面白いですね。また、「観念が思想に悪いように、予定は芸術に悪い」とか、「望みというものは、意固地になって詰め寄りさえしなければ、現実はいつか応じて来るものだ」という文章から、岡本かの子さんの生き方を物語る思想を感じました。(つづく)