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『世界共和国へ』 (その26)

2016年11月22日 | O60→70(オーバー70歳)
【144~145】
以上の考察から、幾つかのことが考えられます。第一に、労働者は資本家に対してたんに「隷属関係」にあるだけでないということです。労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。逆に、資本は消費者としての労働者に対して「隷属関係」にあるのです。私はここに、産業資本主義に対する闘争の鍵があると考えます。それに関しては、最後に論じます。
第二に、以上の考察は、個別資本の運動の過程だけでは剰余価値を考えることはできない、ということを意味しています。資本は最終的に生産物を売らなければ、つまり、生産物が商品として価値を獲得しないならば、剰余価値そのものを実現できない。ところが、それを買う者は、他の資本か、他の資本のもとにある労働者である。各資本は利潤を追求するとき、なるべく賃金をカットしようとする、あるいはできるだけ長時間働かせようとする。だが、すべての資本がそうすれば、剰余価値を実現できない。なぜなら、生産物を買う消費者は労働者自身だからです。

【146~147ページ】
こうした変化は、すでに、マルクスが『資本論』を書きはじめた1850年代のイギリスにあらわれています。そこでは、激しい社会主義運動が1848年に頂点に達したのちに衰退しました。それは、労働者階級が政治的な諸権利(参政権や労働組合の合法化)を得たからだけではなく、彼らがいわば「消費者」として存在しはじめたからなのです。それは、彼らが真の意味で、産業プロレタリアになったということです。イギリスではそれ以前(ヨーロッパではそれ以後も)プロレタリアと呼ばれていたのは、産業資本の下にある労働者ではなく、むしろそれによって追いつめられた職人的な労働者だったのです。(中略)
――、マルクスは、資本制経済が、労働者が生産したものを自ら買うことによって実現される自己再生的(オートポイエーシス的)なシステムであることを把握していました。産業資本主義を特徴づけるのは、たんに労働者が存在するということだけでなく、彼らが消費者となるということです。つまり、産業資本主義の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、労働者が労働力商品を再生産するために買うという、自己再生的なシステムを形成した点にある。それによって、商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹するものとなりえたのです。
~、資本総体にとっては、剰余価値はどこから来ようとかまわないからです。しかし、根本的には、資本制経済は、技術革新―労働生産性の向上という「差異化」なしに存続することはできません。

(ken)《自己再生的なシステム》《資本制経済は、技術革新――労働生産性の向上という「差異化」なしに存続することはできません》《グローバル化》といったフレーズが、今回の抜き書きのキーワードですね。後進国とよばれる国々では、輸出用の商品を生産した労働者が、その商品を買い戻すシステムになっていないわけです。改革・開放政策の成功によって、中国にみられる国内市場の消費が爆発的に拡大しているのは、まさに《自己再生的なシステム》によるものといえます。どんなに中国が「社会主義国家である」と主張しようとも、歴然とした資本主義国家なのですね。(つづく)
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