【56~57ページ】《資本論》使用価値または財は、抽象的に人間的な労働がその中に対象化されている、あるいは受肉しているからこそ価値を持つ。
マルクスは、「受肉している」という言い方をしています。これはまさにキリスト教的なものの言い方です。そもそも「受肉」とは、神の子であるキリストが、人間という肉体を持った存在として地上に生まれた、ということを意味します。「目に見えない本質が、形をとって現われる」という意味です。
~。ここに受肉という言葉を使うことによって、キリスト教社会の人たちは、「ああ、それだけ貴重な尊いものが商品の中には含まれているんだな」ということがわかる。キリスト
を常識として子どものころから学んでいないと、こういう言い方ってなかなかわかりにくいよね。
【67ページ】そうすると、たとえば布を織っている人から布を買うには、「どのぐらいの稲と交換できるの?」と聞くことになります。大昔の日本語では、稲を「ネ」と発音していました。そうすると、「この布はどれぐらいのネと交換できるかな?」、「この魚はどれぐらいのネと交換できるかな?」、「これはどれぐらいのネ?」と言っているうちに、値段の値(ネ)という言葉が生まれました。私たちが値段のことをネと言うのは、昔、稲が交換手段として使われていたからだということがわかるんです。
[ken] 『資本論』の難解さになっているキリスト教的な表現について、その元になっている言葉の意味を知っておくが大事ということですね。67ページには「値段」の語源が、マルクス経済学の「貨幣論」と関連づけて述べられており、とても参考になりました。(つづく)
マルクスは、「受肉している」という言い方をしています。これはまさにキリスト教的なものの言い方です。そもそも「受肉」とは、神の子であるキリストが、人間という肉体を持った存在として地上に生まれた、ということを意味します。「目に見えない本質が、形をとって現われる」という意味です。
~。ここに受肉という言葉を使うことによって、キリスト教社会の人たちは、「ああ、それだけ貴重な尊いものが商品の中には含まれているんだな」ということがわかる。キリスト
を常識として子どものころから学んでいないと、こういう言い方ってなかなかわかりにくいよね。
【67ページ】そうすると、たとえば布を織っている人から布を買うには、「どのぐらいの稲と交換できるの?」と聞くことになります。大昔の日本語では、稲を「ネ」と発音していました。そうすると、「この布はどれぐらいのネと交換できるかな?」、「この魚はどれぐらいのネと交換できるかな?」、「これはどれぐらいのネ?」と言っているうちに、値段の値(ネ)という言葉が生まれました。私たちが値段のことをネと言うのは、昔、稲が交換手段として使われていたからだということがわかるんです。
[ken] 『資本論』の難解さになっているキリスト教的な表現について、その元になっている言葉の意味を知っておくが大事ということですね。67ページには「値段」の語源が、マルクス経済学の「貨幣論」と関連づけて述べられており、とても参考になりました。(つづく)