昨日の命日は、穏やかな一日でした。
一年ぶりに来てくれた息子の同級生が「丁度、同じに
なったね」と言うので、「何が?」と聞くと、
「山ちゃんが生きた年数と亡くなってからの年数が」と…
そうか、そんなに経ったのか、亡くなった翌月の
月命日の時に、一ヶ月も創に会ってないと
号泣していたのに…
姿かたちを追い求めて、悲しみを深くしていきましたが
その思いが断ち切れた時、創の存在を近しく
感じるようになったのです。
ここまで何年かかったことか…
初女先生は、息子さんが亡くなった瞬間から
一緒にいると感じたと言われていました。
すごいな~
昨日は、夕方来てくれる友人と夕食を一緒にしようと
思っていたら、コンロが壊れて卓上コンロで料理と
なりました。
私が「昔の人って偉いよね、コンロ1つでやって
いたんだから」と言うと、主人が「早い時間から
支度していたんだよ」と
そうかと思い、早くから支度を始めると、ゆっくりゆっくり
時間が流れていくのです。
その時、イスキアの時間の中にいると感じたのです。
そう思ったとき、イスキアは特別なことを
しているのではない
丁寧に時間をかけて、一つ一つのことをしているのだ。
それが、イスキアの時間になっていく…
イスキアに行かなくても日常の生活の中でも
イスキアの時の流れを作っていけるんだと、思ったの
です。
丁寧に生きることが、ゆっくり時を刻み穏やかな時間と
なっていくことに、初めて気がつきました。
この命日の気づきは、息子からのプレゼントかも
しれません…」