日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書30 54章1~17節 「無償の愛」

2024年07月23日 | Weblog
   イザヤ書30 54章1~17節 「無償の愛」
 はじめに:54章は、「あなたの天幕を広げよ」という題名で語られています。前回、私たちは、この書のクライマックスとも言える部分を見てきました。主の選ばれたしもべは、苦難のしもべでした。主は、私たちの背きの罪のため刺し通され、咎のため砕かれたのです。彼への懲らしめが私たちに、平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたのです。その結果が、この54章に描かれています。それは、「回復の約束」です。主に一時的に見捨てられたイスラエルが、回復して捕囚の地(バビロン)から帰還するのです。イスラエルは、神の恵みによって、再建されます。主は、どのようにしてイスラエルを回復するのでしょうか。それがこの章に描かれています。1,あなたの天幕の場所を広げよ(54:1~3)。2,あなたは恥を見ない(54:4~6)。3,永久に変わらぬ愛(54:7~10)。4,無償の愛(54:11~17)。です。
54章「『子を産まない不妊の子よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる(54:1)」。主は回復後のイスラエルに語ります。彼らは、もはや、不妊や産みの苦しみ(罪)から解放された民です。主は、彼らに喜び、歌えと叫びます。「夫に捨てられた女の子供」とは、これも、イスラエルのことです。イスラエルは主が約束してくださった子孫の繁栄を一時的に失います。アッシリヤによって北イスラエルは滅亡し、南ユダはバビロンによって捕囚の民となります。イスラエルの地は廃墟となります。しかし、イスラエルは回復します。主の代理人であるイスパニヤのクロス王によって復活します。イスラエルは、アブラハム契約によってその増大繁栄は保障されています。民の数は、契約以前よりも、さらに、増え広がることが、イザヤによって預言されています。
「『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り延ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ(54:2)』。「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し荒れ果てた町々を人の住むところにするからだ(54:3)」。天幕とは、神と人がともに住む住居を指します。主はイスラエルの民に、その子々孫々に、大地を与え、増大繁栄の約束を与えています。イスラエルは、国をつくり、今、その居住地は広がり開拓によって、荒れ地は、町となります。その町を強固にし、外敵から国を守れと、主は、命じます。神の民が「増え広がる」ことが預言されています。
「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出さない(54:4)」。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている(54:5)」。「主は、あなたを、夫に捨てられた。心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる(54:6)」。若かったころの恥とは豪華絢爛を誇ったダビデ、ソロモンの時代ではなく、分裂後のイスラエルの恥を指します。アッシリヤによる北イスラエルの滅亡であり、やもめの時代の謗りとはバビロンの捕囚を指します。彼らは、言葉を失い、文化も失い、自由に自分の神を礼拝することもできませんでした。勿論、神殿も失いました。それは、まさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。このように、イスラエルは、長期にわたり外敵の支配下にあり、惨めな思いをしてきました。しかし、クロス王を道具とした主の働きにより、その思いから解放されます。彼らは、もはや、恐れることも、恥を見ることもなくなったのです。そこには主によるイスラエルに対する優しい愛があります。ここで、神は、自分のことを、「あなたの夫」と言っています。神とイスラエルは、夫婦関係にあります。愛と真実に基づく契約関係です。しかし、この関係が破られるのです。姦淫が行われたのです。偶像崇拝です。神は怒り一時的にイスラエルを捨てられたのです。しかし、神はイスラエルの悔い改めを見てこれを救われます。「若い時の妻」をお救いになるのです。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める(54:7)」。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる(54:8)」。主がほんのしばらくの間イスラエルを見捨て、イスラエルの前から姿を隠したのは、アッシリヤやバビロンのイスラエルへの侵攻を赦したことを指します。主は、この二つの大国を使って自分に従わないイスラエルを懲らしめたのです。しかし、主は、憐みをもって、また、永遠の変わらぬ愛をもって、契約の民をお救いになるのです。主は、愛のむちをおふるいになられたのです。
「『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う(54:9)』。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる(54:10)」。「ノアの方舟」は、旧約聖書「創世記」(6~9章)に登場する、大洪水にまつわる、物語を指します。このとき、地は堕落に満ち、主の怒りを買います。主は、洪水をおこし、地上の人々と、すべての生物を、滅ぼすことを決意します。信仰深きノアに「方舟」の建設を命じます。ノアは、それを達成します。方舟には、ノアの家族と、すべての動物の一つがいを乗せます。そこには、種を絶やさないための配慮がありました。怒りの洪水は40日、40夜、続き、地上の生物をすべて滅び尽くします。主は、洪水によって全地に裁きを下されましたが、方舟から出てきたノアが捧げた全焼のいけにえの煙の臭いをかがれたとき、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことをすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことをすまい」。あなたを怒らず、あなたを攻めない。その証として、主は、虹を天に掲げたのです。そして言います。いかなる天変地異が起ころうとも、わたしのイスラエルに対する愛は変わらない、と。この愛は、ギリシャ語で「アガペー」と言います。この虹は、十字架に例えられます。神は、十字架をご覧になるとき、主(キリスト)を信じる者は、決して裁かないと約束(契約)しています。十字架は、その契約のしるしです。あなたが、イエスを自分の救い主として信じるならば、神の怒りがあなたに臨むことは、決してないのです。キリストが、その裁きのすべてを一身に背負って死んでくださったからです。
『苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め(54:11)、』「あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする(54:12)」。苦しめられ、もてあそばれ、慰められなかった女とは、大国に虐げられていたエルサレムを指します。そのエルサレムが、主によって選ばれ、天に挙げられ、神の国になることが、イザヤによって預言されています。天のエルサレムは、宝石の輝きを持つ都です。それを、苦界において、男に弄ばれた女が、見受けされ、回復し、宝石で身を飾る姿になぞらえています。
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある(54:13)」。私たちに真の平安を与えるものは、主の教えです。これ守ることによって、イスラエルの子々孫々の増大繁栄は、保障されるのです。ここには、アブラハム契約があります。その彼方には、神のご計画があり、神の国があります。
「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない(54:14)」。イスラエルの民は、王なるメシアから直接、教えと導きを受ける者となり、主の祝福を受ける者となります。主の守りによって「、神の都エルサレム」は守られ、しいたげをもくろむ者は近づけなくなります。だから、恐れるな、と主は言います。宝石の輝きを持つ「神の都エルサレム」の、その美しさと、栄光と、安定は、義という土台の上に、堅く立てられるのです。これは、天に挙げられたエルサレムの姿です。イザヤの預言です。
「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される(54:15)」。アッシリヤにしてもバビロンにしても、それは、イスラエルの罪を裁くために主が遣わした道具でした。けれども、今や、主は、イスラエルを懲らしめようとは考えていません。逆に、イスラエルをあわれむことを考えています。どんな強力な敵が攻め寄せても、それに打ち勝つ力を、主は、イスラエルにお与えになっています。
「見よ。炭火を吹き起こし武器を造り出す職人を創造したのはわたしである。それを壊してしまう破壊者を創造したのもわたしである(54:16)」。主は、主権者です。創造も破壊も自由です。「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――(54:17)」。戦いとは、武器によるものだけでなく、情報(舌)戦もあります。神を信じる者は、信じないもの(偶像崇拝者)に対して、その双方(武器と情報)に勝つ必要があります。
「見よ。わたしはすぐ来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるためにわたしの報いを携えてくる。わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22章12~13節)」。
ここには、主の神聖さと、永遠性が描かれています。主は、完璧なのです。
「私は、この書の預言の言葉を聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書の言葉をすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22章18~19節)」。
この書とは聖書を指します。聖書の完璧さが描かれています。この書には、取り除くものもなければ、付け加えるものもないのです。完璧なのです。同時に、聖書にみ言葉を啓示された、主の完璧さも表しています。
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イザヤ書30 54章1~17節

2024年07月23日 | Weblog

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イザヤ書27 51章1~23節 救われる主

2024年07月09日 | Weblog
 イザヤ書27 51章 1~23節 救われる主
はじめに:51章では、神が、主のしもべの声を聞き、義を追い求めるイスラエル人への救いの約束が描かれています。「義」とは、主ご自身が、父なる神のみ言葉を聞き、それを遂行されることです。具体的には、罪ある者、疲れた者をお救いになることです。そして、心に励ましを与え、罪びとであるイスラエル人や異邦人の立ち直りを図ることです。このように、義と救いは同義語です。救いとは、不義の世界のただなかにあって、義を求めることであり、神なる主のみが、義の本源であると知らねばならないのです。イザヤは、イザヤ書において「義」と言う言葉を多用しています(32回)。それだけ「義」と言う言葉には重要な意味があります。「義を追い求める者は命に到り、悪を追い求める者は死に至る(箴言11:19)」。「主は悪者の行いを忌み嫌い、義を追い求める者を愛する(15:9)」。日野教会では、その月の第一週の日曜日に「聖餐式」を行うことになりました。聖餐式とは何か。それはパンとぶどう酒(ジュース)を、食し、飲むことによってキリストを体感することです。それは、主と一つになる信仰の交わりを通してです。信仰とは義を追い求めて救われることです。聖餐式によって、神と人との間の契約関係が確認されます。しかし、牧師は言います。「三位一体の神」聖霊の救いを知らない者、無関心な者、神を信じない者は、分からないものは、聖餐式には、参加しないで欲しいと。聖餐式とは、主といのちを共有して生かされることだからです。
51章:「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ(51:1)」。義を追い求める者は、主を尋ね求める者です。義の追求とは、主を尋ね求めることです。切り出された岩、掘り出された穴とは、自分たちのルーツを指します。そのルーツを追求せよと、主は仰せられるのです。そのルーツとはなにか、
「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを(51:2)」。父アブラハムとその妻サラの間には、イサクが生まれました。サラは、このとき90歳でした。この恵みは、神のご計画の一部でした。この三人の家族が、イスラエルの民を産んだルーツです。イスラエルの民は、その初めから、主の召しがあり、主によって形づくられ、その後に民族になりました。イスラエルの民は、主によって切り出された岩であり、ほりだされた穴なのです。アブラハム契約が、それを示しています。彼らが全きものなら、その増大繁栄を、主は、保証したのです。 「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある(51:3)」。御声を聞いて、義を求める人には、慰めの約束があります。この慰めは、自分たちのルーツ基づくものです。主は、「神の国」を預言しています。そこには、楽しみと喜び、感謝と歌声が、満ちています。
「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め国々の民の光とする(51:4)」。これまでと同じく、これからも、主の祝福のご計画が、語られていきます。「わたしの民」とは、イスラエルの民です。「わたしの国」とは異教の国です。イスラエルを含め、世界中の国々に、主は、語りかけます。わたしに従えと。なぜなら、すべての教えは、わたしから出て、わたしが公義を定め、それを、国々の民の光とするからです。主は、彼らの進むべき道をさし示します。
「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕により頼む(51:5)」。異邦人に対する主の救いの御手が延ばされています。異邦人は、偶像崇拝によって、主に逆らう者としではなく、主の、福音伝道の力によって、偶像を排し、主を信じ、喜んで、主に従う者になるのです。このように、神の御手は、エルサレムを基にして全国へと広がっていくのです。ここのにも、神のご計画を見ることができます。
「目を天にあげよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。(51:6)」。たとえ、天変地異が起こり天地(この世)が滅び去るようなことがあっても、主のことば(義)は、永遠に続くのです。
「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(51:7)」。「しみが彼らの衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ(51:8)」。ここには、イラエルの「残りの者」に対する励ましの言葉が描かれています。迫害者を恐れるなと、主は言います。しみや虫は、迫害者に対する蔑称です。その迫害が、どんなに厳しくても、いつかは、終わりが来ます。一時的です。それに反して、主の義と救いは永遠です。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の、み腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか(51:9)」。さめよ、さめよ、と言う呼びかけは、だれがだれに呼びかけているのでしょうか。イスラエルの「残された者」が、主に向かって呼びかけているのです。万軍の主、神は、イスラエルの呼びかけに対して沈黙を守っています。イスラエルの民の大部分は、神に不従順です。このとき、神の対応には二つあります。一つは、罰を与えることであり、もう一つは、沈黙です。神には、神の時があります。その時とは、われわれの時とは違います。イスラエルの民は、それを理解できません。沈黙を守る神に対してイスラエルの「残りの者」が、さめよ、さめよ、眠りからさめよ、と呼びかけたのです。これは、主への祈りであり、目を覚まして、力をまとい、その力強い御腕を、いかんなく発揮してくださいと、叫んだのです。しかし、神は、決して、眠っていたわけではありません。時が来るのを待っていたのです。その時とは、イスラエルの悔い改めです。「ラハブ」とは海に住む巨獣の名です。比喩的に「出エジプト」のエジプトを指しています。「竜」とはエジプトの背後で働く悪魔をうかがわせます。「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか(51:10)」神の命令によって。紅海が割れ、イスラエルの民が救われたことを指しています(出エジプトを見よ)。このように、強大な敵(バビロン)に対して「残りの者」たちは、神のその力の行使を願ったのです。それには神は応えます。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入りその頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る(51:11)」。「神のなさることは、すべてときにかなって美しいのです」。多くのイスラエルの民が、捕囚の地に残りました。しかし、「主に贖われた者たち(残りの者)」は、シオン(エルサレム)に帰還します。彼らには、とこしえの恵みと喜びがあり、悲しみと嘆きはありません。神を敬う者を、神は祝福します。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは(51:12)」。「天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか(51:13)」。これまで見てきたように、主はイスラエルの民に「このわたしが、あなたがたを慰める」と、救いの御手を伸ばされています。真に彼らを慰めることのできるのは、神であって、ほかには存在していません。それにも拘らず、「なぜ死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるのか」と、主の救いの御業を忘れ、まるで自分たちが滅びの民であるかのように、おそれ、おののいている彼らに対して、主は、「わたしを信ぜよ、それ以外にみちはない」と叱責します。
「捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない(51:14)」。神は、眠っていたわけではありません。時を得て、捕囚の民を解放し、死から救い、パンの心配を取り除き、経済的安定も与えたのです。
「わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主(51:15)」。「わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う(51:16)」。主は「万軍の主」です。偉大な御業を行うことのできるお方です。主は、シオン(エルサレム)に言います。「あなたは、わたしの民だ」と、主はイスラエルの守り神であり、救い主です。
「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した(51:17)」。9節では、主に対して、エルサレムが「さめよ、さめよ」と叫びましたが、今回は、主ご自身が、エルサレムに対して叫びます。「さめよ、さめよ」と、おまえたちこそ、目を覚まし、「悔い改めて、主に立ち返れ」と、怒りを露わにしています。神に目を覚ませというのなら、まず、自分自身が目を覚まさねばならないのです。「怒りの杯」、「よろめかす大杯」とは、主の懲らしめ杯を、指します。具体的には「バビロンの捕囚」です。彼らは主に背を向け、自分勝手の道に向かって進んでいたので、主は彼らを懲らしめるために「バビロン」と言う国を興して、捕囚の民としたのです。エルサレムは、自分たちの置かれている状況を理解していなかったのです。
その結果、「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導くものがなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取るものがない(51:18)」。彼女とは「エルサレム」です。その子らも、その子らの子たちも、子々孫々その犯した罪ゆえに、彼女(エルサレム)を救うことができないのです。
「これら二つのことが、あなたを見舞う。だれが、あなたのために嘆くだろうか。滅亡と破滅、ききんと剣――わたしはどのようにしてあなたを慰めようか(51:19)」。「あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている(51:20)」。主は言います。わたしの怒りと、咎に満ちた、あなた(エルサレム)のために、だれが嘆くだろうか、と。彼らもまた、網にかかった大かもしかのように、気を失っていたからです。信仰から離れていたからです。これが、罪に満ちていたエルサレムが受けねばならなかった、主の怒りです。主は、私たちを子として扱っておられるので、私たちを訓練するために、こうした怒りを現されるのです。それは、平安な義の実を結ぶためです。私たちを愛しておられるからです。彼らは、敵(バビロン)の虐げのなかで恐れと、悲しみの中で、生き続けていました。恐れの根本原因は、不信仰です。恐れを克服する道は、信仰によって主を見上げることです。ここには、エルサレムの不信仰(偶像崇拝)に対する主の憤りと咎めがあります。しかし、主は、どのようにしてあなたを慰めようかと、慰めの御業を考えておられます。主は、どんなに、その罪に憤りを現しても、契約の民を滅ぼしたりはしません。お救いになります。
「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ(51:21)」。信仰(神)か、不信仰(偶像)で悩んでいる者に、酔ってはいても酒のせいではない者に、主は、次のように、宣告しています。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない(51:22)』」と。主は、私たちを弁護してくださる方です。しかも、完全な弁護士です。私たちを贖ってくださり、私たちをお救いになる、お方です。それゆえ、私たちは、二度と神の怒りの杯を飲むことはないのです。本来「杯」は、友好的な交わり、祝福を象徴しています。それを、ここでは、よろめかす「杯」、怒りの「杯」と否定的に使われています。神の正義の怒りを象徴しています。
「わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らは、かつてあなたに、『ひれ伏せ。我々は乗り越えて行こう』と言ったので、あなたの背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた(51:23)」。あなたは、バビロンの言葉に答えて、あなたの背中を地面のようにし、歩道のようにして。彼らが乗り越えて行くに任せたのです。彼らの蹂躙にまかせたのです。これは、エルサレムの罪に対する主の怒りでした。しかし、主はどんなに怒っても、エルサレムの味方です。契約の民を滅ぼしません、怒りの杯(これ)をバビロン(悩ます者)に加え、これを滅ぼすのです。主は、その怒りを必ず取り去ってくださいます。それだけでなく、自分を攻撃していた相手に、その目を、向けられます。私たちの味方となり、防御してくださるのです。主は、何をするにしても、自分の手を汚しません。必ず代わりを探し出します。エルサレムを罰するにときには、バビロンを使い、用済みになれば、クロス王を使って、これを滅ぼします。主は、万能なお方です。その罪に打ちしおれている者を、主は立ち返らせ、悔い改めさせ、お救いになります。
パウロはコリント人の第二の手紙、冒頭(1章3~6節)で次のように言います。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父すべての慰めの神がほめたたえられますように。神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めが、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」。全知全能の神である主が、どのようにして私たちを、ご自分のもとに引き寄せられるのか。それは、この方が選ばれた一人のしもべを通してです。ここには、神の偉大さが描かれています。
令和6年7月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会



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イザヤ書29 53章1~12

2024年06月30日 | Weblog
 イザヤ書29 53章1~12節
はじめに代えて「私の救いの証し」:私の家族はクリスチャンではない。しかし、なぜか、文語訳の新約聖書が我が家には有った。聖書は、世紀のベストセラーである。その関係で我が家にもあるのかもしれない。
 教会との出会い(1)、浪人時代に通っていた「英語学校」がロゴスと言う名の教会の付属であった。英語の勉強の「ついでに」教会にも出る。牧師の話が面白かったので、大学合格まで教会にも参加する。
 神との最初の出会いは、「富士登山」の時である。8合目で「ご来光」を迎える。その神々しさに「神」を感じる。「自然神」である。そこに集まっていたすべての人が拍手でこれを迎えた。勿論、私も拍手した。そこに、私は万物万象の創造の神を見た。
 教会との出会い(2)、それから学生時代、職場時代と、長い時を重ね、次に教会と出合ったのが「日野教会」であった。これも「ついで」である。教会で「ゴスペル」の会員を募集していたのでそれに応募した。その関係で教会の礼拝にも参加した。神を信じたからではない。あくまでも「ついで」である。その時の牧師は加藤牧師だった。
 それまで「神」とは全く無関係であったが、ある時「洗礼を受けよ」という啓示が、私に下った。それで洗礼を受けた。2013年8月4日(日)のことである。加藤牧師からは、「良く決心した」と言われたが、私が決心したのではない。神が決めたのである。洗礼を受けるとすべての罪が浄化され、気持ちよくなると言われていたが、実際には、浴槽に沈められたとき、耳の中に水が入り気持ち良くなるどころか、その日いっぱい気持ちの悪い思いをした。神は、私を拒否したのか。それとも「待て」と言われたのか。洗礼後「神を信じますか」と問われたが、「信じます」とは言ったが、それはあくまでも表向きの事であって、いまだに神を信じているかどうかはわからない。こんな私でも、神を求めに求めてはいる。しかし、求め得ない。その実感がない。私は、神によって救われるのだろうか。
 今、聖書の勉強をしているが、信仰から出ているというより、知的興味のような気がする。聖書には多くの矛盾がある。書かれた年代、場所、環境、の違いがあるので、実際には矛盾があるのは仕方がないとは思う。しかし、聖書は、神の書である。その観点からは、矛盾があってはならないのである。
 神を知るとは、人(自分)を知ることである。知的にどんなに深く聖書を学んでも、神を知ることは出来ない。神を知るとは神を敬い、信じることである。だから、私は、死を前にしたとき、目の前に現れた神にOh my Godと叫んで死にたい、と思う。現れるかどうかは分からないが。現れると信じたい。
イザヤ書53章:「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたか(53:1)」。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない(53:2)」。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった(53:3)」。主のしもべに対する人々の反応が語られています。「私たちの聞いたこと」の私たちとは、預言者イザヤと主の言葉を信じた者(残りの者)を指します。主とはイエス・キリストのことです。聞いたこととは、神の救いの力です。イエスは「主の御腕は誰に現れたか」と、人々の前で多くのしるしを「証し」されましたが、彼らは、イエスを信じなかったのです。人々にとってイエスは、ローマからの解放者ではなく、堕ちた偶像だったからです。イエスは聖霊と聖処女マリアの間に生まれた若枝だったのです。「若枝」とは、救い主を意味します。そのイエスは砂漠の中でサタンの試練に会います。その試練に打ち勝ちます。砂漠とは罪に満ちたイスラエルの地を指します。イエスは、その不毛の砂漠に咲いた一輪の花だったのです。それを「オアシス」にまで広げます。しかしその姿は想像に反して醜かったのです。「見とれるような姿がなく」、「輝きがなく」「人が慕うような見ばえがなかった」のです。しかし、これはあくまでも人の価値観であって、主の価値観は違います。主は外観でなく心を見ます。「わたしは、人が見るようには見ない」と断言しています。我々の見る、厳かで美しいイエスの姿は、主の心の反映といって良いでしょう。3節には「さげすまれ」という言葉が、2度使われています。人々から完全に見放されており弟子たちも彼を尊ばなかったのです。その証拠にキリストが十字架に架かったとき彼らは連座を恐れて逃げ去っております。彼らが主に立ち返ったのは、キリストの「初臨」以降のことです。
 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと(53:4)」。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは、いやされた(53:5)」。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた(53:6)」。「病」とは罪を表します。ここには主の贖いの救いが、語られています。主は、自ら、主体的に人々の罪を負い、贖ったのです。それは、十字架刑に現わされています。しかし、人々は、そうとは思わず、彼に神からの懲罰的苦難が下ったと考えたのです。主の贖いの死は、人々が、罪から離れて、義のために生きるためでした。キリストの打ち傷ゆえに私たちはいやされるのです。主のしもべの苦難は彼自身から出たものではなく、「私たちのそむきの罪及び咎」を贖う身代わりの苦難であり、そのために、主のしもべは、「刺し通され」「砕かれた」のです。彼への懲らしめが人々に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、人々はいやされるのです。人々は、主に従わず、羊のようにさまよいます。これらの罪を主はしもべの罪に帰したのです。しもべは、これを主体的に受け止めます。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(53:7)」。「しいたげとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを(53:8)」。「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが(53:9)」。4~6節において主のしもべの(キリスト)の代償的苦難が示されましたが、7~9節において、再度、そのテーマが語られます。主の苦難と死とは、イエスの苦難と死の預言です。十字架刑は、死に至る刑の中で最も残酷な刑と言われています。神のしもべは、痛みつけられ、苦しめられましたが、その刑を黙して甘受したのです。それをイザヤは「口を開かない」という言葉で表現しています。そこには、しもべの主体的に苦難を受ける姿があります。それが、われわれの罪を贖う「代償的刑罰」であったことを、その時代の者たちには、理解不能なことでした。彼は「生ける者の地から絶たれた」のです。生ける者の地とは、この世です。この世から絶たれても、彼には、永遠の命が保障されています。それが預言されています。悪者どもとは、イエスと共に十字架刑に架かった2人の囚人です。そしてイエスは金持ちヨセフの墓に葬られたのです。彼は、神の前に義なる存在でしたが、主の反応は意外なものでした。次の節に続きます。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる(53:10)」。「彼を砕いて痛めること」とは、主の贖いの死を意味します。それは神の御心であり、喜び、だったのです。もし、彼が自分のいのちをイスラエルの民の罪過に対する生贄としてささげるならば、この民の増大繁栄は保障され、主の御心(ご計画)は彼によって成し遂げられるのです。ここに「アブラハム契約」を見ることができます。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう(53:11)」。「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする(53:12)」。主のしもべ(イエス・キリスト)の、贖いの死が語られています。イスラエルの罪を、咎を、主のしもべが贖ったのです。神は、その独り子を生贄(十字架刑)に捧げられて、罪びとを義なるものに変えられます。お救いになるのです。代償的苦難(身代わりの死)です。それほどに強い愛を神は、われわれ罪びとにお与えになったのです。その知識とは、信仰を指します。しもべの正しい信仰によって多くの罪びとを義に導き、彼らの咎をになうのです。代償的苦難は、民を救います。それは、主のしもべにとっては、望外の喜びであり、満足だったのです。神は、現在も、私たちを救い、あらゆる拘束から自由な神の民として、導いておられます。「強者たち」とは、義と認められた者です。いわゆる「残りの者」です。彼らの子孫は、神の子とされた者たちです。彼らは、キリストとの共同相続人です。「神の御国」をキリストとともに統治する者たちです。主のしもべが苦しみの結果見たものは何か。それは主の恵みです。イザヤは、それを、子を産んだ母のイメージに例えています。産前の苦しみは、産後の喜びをもたらします。
令和6年9月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

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イザヤ書24 48章1~22節 ヤコブへの呼びかけ

2024年03月02日 | Weblog
イザヤ書24 48章 1~22節 ヤコブへの呼びかけ
はじめに:イザヤは47章ではバビロンについて語り、この48章では、「ヤコブの家」について語ります。イザヤ書の後半部分、40章からの「慰めよ、慰めよ」という呼びかけから始まった、主からの慰めの言葉は、48章をもって一応、区切りがつきます。その区切りとは、バビロンの地に捕囚の民として住むユダヤ人が、ペルシャ王クロスによって解放され、多くのものが帰国を拒否した中にあって、神に」選ばれた残りの者が祖国へ戻されたことです。その良き知らせに対するユダヤ人の反応が、この48章です。
預言者イザヤの最優先課題は、イスラエルに関することです。これが、福音の根幹をなし、福音はイスラエルから全世界へ発信され、「地の果てにまで響き渡る」ことになります。その先には神の国が予定されています。そこに主のご計画を見ることが出来ます。その点では主イエスも同じです。イエスはその十字架の死によって、その目的は途中で挫折しますが、その遺志を継いだ弟子たちの福音伝播の活躍には目覚ましいものがあります。12人の弟子のうち1人(ヨハネ)を除いて、みな殉死しています。預言者はヤコブとイスラエルを使い分けます。ヤコブは、世俗を、イスラエルは、霊の世界を象徴しいています。ヤコブは、アブラハムの孫として波乱万丈の生涯を送ります。彼は主に対してひたむきな面を持つと同時に、その若き日の生き方には、兄から長子権を奪うなど、自己中心的な面も持ち合わせていました。しかし、主は、このヤコブを聖別し、イスラエルと言う名を与えました。その意味は「神の民」です。ヤコブの子らが形成した民族は、ヤコブに与えられた「イスラエル」を名のるようになります。しかし、彼らは神の民でありながら、ヤコブの否定面も背負っています。主に対して「誠実をもってせず、また正義をもってしない」のです。当然、主は怒ります。主は、バビロンを使って彼らを「捕囚の民」とします。イスラエルは、聖俗併せ持つ民族です。
しかし、「主がイスラエルの民を、かわいた地を通らせたときも、彼らは乾かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた(48:21)」。主は自らの契約の民を決して滅ぼすことをしません。どんなに辛い目に合わせても、最終的には、「命の水」をほとばしり出して、お救いになるのです。「イスラエル」は、神のご計画の根幹をなす、民だからです。主が、イスラエルに与えた特権には数々あります。「イスラエル(神の民)」と言う名、神の選び、神との契約、神を呼び求める権利等々」です。
48章:「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない(48:1)」。ヤコブは、ユダヤ人の肉的な面を強調する呼び名です。イスラエルは神の民と言う霊的な面を強調する名誉ある雅名です。創世記で語られているようにイスラエルは、契約の民(アブラハム契約)です。子々孫々の増大繁栄が保障されています。このように、イスラエルは本来、神に見守られ。保護されている民です。イスラエルと言う名前は、神と相撲を取ったヤコブに神が与えた雅名です。しかし、ここでは、ユダヤ人の肉的な面(ヤコブ)が強調され、霊的な面(イスラエル)は後退しています。彼らは、神を呼び求めてはいても、真実をもってせず、正義をもってしないのです。それが、ヤコブの家の実態なのです。神は怒り、彼らを捕囚の民としたのです。誠実とは、人の神に対する偽りのない真実を意味し、正義とは、神との正しいかかわりと、そこから出てくる行為を指します。
「確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている(48:2)」。ユダの民の信仰は、その名は誠実に見えても実質を伴わず、本質が見失われ、形骸化していました。神に寄りかかっているにい過ぎないのです。ここにユダの民に対する神の叱責があります。彼らの信仰はあいまいであり、確かなものではありませんでした。そこに、捕囚の地バビロンで、異教の神、偶像の付け入る隙がありました。バビロンは、多神教の世界であり、神話の世界です。多くの神が集う場所があり、彼らは、お互いに競い合い、協力し合っています。それゆえ信教の自由があり、複数の神が存在しています。ユダの民にとっては、神か偶像かであり、偶像の選択もあり得たのです。辛うじて、神に寄りかかっていたのです。
「先に起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した(48:3)。先に起こったこととは、クロス王によるバビロンへの侵攻です。このことを主は、過去にすでに預言し、語っていたのです。クロスは主の思いを体現し、バビロンを滅ぼしたのです。
「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので(48:4)」、ヤコブの家の実体がかたくなであるということは、首筋は鉄の腱、額は青銅と表現されています。鉄の腱とはうなじが怖いを意味し、額は青銅とは、厚顔無恥を意味します。共に偶像を象徴することばです。
「わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ(預言)。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像が、これをを命じた』とか、あなたが言わないためだ(48:5)」。主は言います。わたしの御業は、わたしの御業であって、あなたたちの偶像の行いではない、あなたの偶像は私にとって代わることは出来ない。と。預言は、神の専売特許なのです。
「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう(48:6)」。これらとは異教徒クロス王を主が用いてユダヤ人を救われたことを指します。これは今までイスラエルの民が経験したことのない新しいことであり、神のみの知る秘め事だったのです。ユダヤ人の救いは、このように、主から来るのです。
「それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とかあなたが言わないためだ(48:7)」。このような主による救いは、今まで起こったことはなく、ユダヤ人にとっては聞いたことも知ることもなかった事なのです。
「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしはあなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむくものと呼ばれていることを、知っていたからだ(48:8)」。主は、イスラエルの民が背くことをその母の胎内にいる時から、知っていたのです。ずっと前とは、イスラエルの民が生まれる以前を指します。まさに「原罪」です。
「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを抑えてあなたを断ち滅ぼさなかった(48:9)」主は、自らの選びの民を 滅ぼすことは、ありません。ユダヤ人救われる動機を主は述べています。 罪を重ねるユダヤ人を滅ぼす ことは、彼らを 「選び民」とした、自分の名誉が汚されてしまうからです。 自分のために救われるのです。その名と栄誉のために、怒りを遅らせ、彼らの悔い改めと神への立ち帰りを願って彼らを断ち滅ぼさなかったのです。
神は褒め称えられなければならないのです。
「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた(48:10)」。あなたとはイスラエルの民を指し、その魂は、神にとって大切なものです。銀はレアメタルの一種で、この世では、貴重な金属です。その鍛錬(精製)の方法は互いに違います。天と、この世の大切な物の違いが語られています。主は悩みの炉を使ってイスラエルの民を試みたのです。主は、彼らが、神を忘れて、霊か、物かで、悩むことの愚かしさを語ります。偶像礼拝や安逸に浸ることを戒めています。
「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない(48:11)」。主は、自分の
ためにユダヤ人を救われるのです。わたしのためとは、「ご自分のご計画」の遂行のためです。ユダヤ人は、そのご計画の基(根幹)になる存在です。主は、契約の民イスラエル以外には、栄光を与えることはありません。これの出来るものは、主以外には存在しません。
「わたしに聞け。ヤコブよ、わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである(48:12)」。主は、イスラエルを呼び出して言います。『わたしは、万物万象の支配者だ』と。「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる(48:13)」。主は、自分が万物・万象の支配者であることを明らかにし、さらに創造の御業を語り、その御業を広げられるとき、すべての者が、こぞって立ちあがり主を賛美するのです。
「あながた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれることをバビロンに仕向ける。主の御腕はカルデヤ人に向かう(48:14)」。「わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる(48:15)」。アッシリヤ帝国が崩壊し、前625年に新バビロニヤ(カルデヤ)がメソポタミアに成立すると、バビロンは再び都となります。その最盛期の、前6世紀に、ネブカドネザル2世はエルサレムのユダ王国を滅ぼし、ヘブライ人をバビロンに連行しました。バビロンの捕囚です。このバビロンを、主は、ペルシャのクロス王を使って滅ぼすのです。それが預言されています。
「わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた(48:16)」。主は、捕囚の民イスラエルに言います。『わたしに近づいて、これを聞け』と、これとは捕囚からの解放を意味します。本来、神の姿は秘められていて、人には見ることは出来ません。隠された存在です。それが、その姿を現し、イスラエルの民が解放されたとき、主はバビロンにいたのです。私とはクロス王です。主は、彼をその御霊とともにバビロンを滅ぼすために遣わされたのです。
「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く(48:17)」。ユダヤ人に主が望まれたことはご自分の教えを聞き、ご自分の導きに従うことでした。その教えと導きは、必ず、彼らにとって益になるものなのです。主は、イスラエルの民ユダヤ人を信じています。それゆえ、彼らが自分に反逆し、他の神、偶像を信じても、お赦しになります。最終的には、悔い改め、自分に立ち返ると確信しているからです。しかし、その確信は、常に裏切られます。
18,19節には、自分に従うことをしないユダヤ人に対する主の嘆きが語られています。「こうすれば、あなたにこんなにも素晴らしい恵みが与えられるのに」と、主は自分が授けようとしている恵みを受けようとしないイスラエルの民の頑なさや、鈍さに失望し、叱責しています。「あなたが私の命令に耳を傾けさえすれば、あなたの幸せは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに(48:18)」。主は、幸せを、川の流れに、正義を、海の波に、例えています。その性質は異なるものの、共に水です。水は命の源です。この源である水を神が支配しています。これに従っていれば、主の恵みに授かることが出来ます。「川のように流れる」とは、いつも、絶え間なく、継続的に、平和が流れゆくことを意味し、「「正義は海の波となる」とは、押し寄せてくる波です。神の恵みによる賜物としての正義です。
しかし、イスラエルは主に従うことを、潔しと、しません。主は嘆きます。
「あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに(48:19)」。砂、真砂は、浜辺を覆う細かい砂です。無限かつ永遠を象徴します。子々孫々の繋がりを現します。イスラエルの名は、神の前から断たれることも滅ぼされることもないのです。まさに「神の子」です。このように主を信じることは、その栄光を授かることを意味します。しかし、イスラエルは、これも拒否します。何故か。このときのイスラエルの民は、捕囚の民だったのです。その地の神、偶像崇拝に捉われていたのです。
主は、この事態を憂慮します。イスラエルに命じます。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ」喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。「主がそのしもべヤコブを贖われた」と言え(48:20)」。主は、クロスを使って捕囚の民が、祖国に帰還することを奨励します。しかしその期間が長期に渡ったので、同化政策もあって、定着した者が多かったのです。祖国に戻ってもその地は他民族に占領されています。土地争いが起こります。今頃、帰って来て何を言うかです。いまのイスラエルとパレスチナの争いの原型が、そこにあります。そのリスクを犯してまで帰国をする気になるかです。しかし、主は、そのリスクを犯しても祖国へもどれと命令します。出て行く者(残りの者)に約束されているものは喜びです。贖いの喜びです。主は、その贖いの喜びを「地の果てにまで響き渡らせよ」と命じます。地の果ての先には「神の国」があります。
「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは乾かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた(48:21)」。主の恵みにより出エジプトを果たしたイスラエル人たちは、モーセに連れられて約束の地カナンに到るまでの40年間を、その罪により砂漠の中をさ迷い歩きます。その間の彼らの命を支えた物が、主から与えられたマナと水でした。ここには、主による、罪びとユダヤ民族に対する救済が語られています。
「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる(48:22)」。悪者どもとは、バビロンを指します。この地はクロス王によって滅ぼされます。当然、平安はありません。逆に、イスラエルの民は、捕囚から解放され、平安を回復します。

令和6年3月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
 




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いイザヤ書,23、 46~47章  「正義の神、救い主」

2024年02月25日 | Weblog
 イザヤ書 23, 46~47章 「正義の神、救い主」
はじめに;
46章、この章では、神と偶像が較べられています。神は人を造り、偶像は人が作ります。神は人を支え、偶像は人が支えます。神は永遠です。しかし偶像は、人が作ったゆえに有限です。神には救いがありますが、偶像には救いはありません。このように両者の間には決定的な差があります。それゆえに、人は神を尊び、偶像を排さなければなりません。主は「わたしに聞け」とイスラエルの民に命じます。 44章で「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(44:22)とイスラエルの民に命じた主は、45章では異邦人も含めた地の果てのすべての者に対して「わたしを仰ぎ見て救われよ。」(45:22)と語りました。そして、この章46章では、再び強情なイスラエルの民に対して「わたしに聞け」と命じます。(46:3,12)。その内容が、46章となっており、その中に46章を特徴づけるキーワードがあります。そのキーワードとは、神がイスラエルの民を「負う」、「背負う」と言う語彙です。これは神の専売特許であって、偶像には、これをなすことは出来ません。
 47章:47章は、次の言葉から始まります。「おとめバビロンの娘よ。下って塵の上に座れ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地に座れ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ(47:1)」。このようにバビロニアは「優しい上品な娘、中東の貴婦人と呼ばれ、その繁栄を誇っていました。広大な美しい領地を持ち、その首都バビロンは強固な城壁に囲まれ、さらに強大な軍事力のもと、世界を支配していました。その最盛期BC6世紀に、その王ネブカドネザル2世は、エルサレムのユダ王国を滅ぼし、ヘブライ人を捕囚としてバビロンに連行したのです。その強大な国、バビロンが、主の御手であるイスパニヤのクロス王によって滅ぼされたのです。主は、言います。「わたしは復讐する。復讐と報いは、わたしのもの」と。その滅びの現実が、47章で語られています。
 このように、46章では信仰の地イスラエルに、47章では異教の地バビロニアに神の言葉が語られています。
46章:担ってくださる方(1~4節)『ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる「彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼ら自身もとりこになっていく「わたしに聞け、ヤコブの家とイスラエルの家の全ての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお私は運ぼう。わたしは背負って、救い出そう(46:1~4)」。
 背く者たち(5~13節)ベルは、バビロンの神です。へブル語の「バアル」に対応する語彙です。人によって造られた偶像です。そしてネボはその息子です。バビロンの崩壊とともに運命を共にし、滅びました。バビロンは、ペルシャに敗れました。1節は、バビロンの民が、捕らえ移された時の話です。偶像は、金属、石、木で造られているため、かなりの重量があります。バビロンの民は、自分たちの神(偶像)を家畜と獣の背に載せて共に移動します。勿論、敵に見つかり,破壊されないように、荷物の中に隠してです。その気苦労で人は疲れ、家畜と獣は偶像の重荷で疲れ果てます。このように、ベルとネボは、バビロンの民の支えがないと機能していくことが出来ない偶像です。それに反して、イスラエルの民は、主に守られています。「残りの者」とは、主に反逆するイスラエルの民の中にあって、僅かに存在する、神を崇拝する人々です。この信仰の人ゆえに、主は、イスラエルの民の全てをお救いになります。一人でもご自分を求めるものがいる限り、主は、これをお救いになります。主は、イスラエルの民を、胎内にいる時から、白髪になるまで、担われており、彼等を背負って、お救いになるお方です。彼らの救いは、子々孫々に至るまで、契約によって保障されています。信仰とは、自分を支えてくださる主を敬うことです。奉仕とは、自分を担ってくださる方に感謝をもって応答することです。教会とは、神の素晴らしさの中にいる人々(信者)によって、祈られ、守られている場所です。
 「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれに並べて、なぞらえるのか。「袋から金を惜しげなく出し、銀を天びんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。「彼らはこれを肩に担いで運び、下において立たせる。これはその場からもう動けない。これは叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。「このことを思い出し、しっかりせよ。背く者らよ、心に思い返せ(46:5~8)」。主は、自分の他には、比べうる神(偶像)はいない、と誇ります。偶像を造る者たちは、何もしてくれない偶像のために多額の費用をつぎ込み、これを拝みます。それゆえ、これは、叫んでも答えず、悩みから救ってもくれないのです。これが、偶像の現実です。主は、先には「残りの者」に語り掛けておられましたが、ここでは「背く者」に語り掛けておられます。偶像を求めることの虚しさを指摘し、しっかりして悔い改め、自分に立ち返りなさい。救いは近いと、激励しておられるのです。
 「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。「わたしは、終わりのことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとを成就し、わたしの望む事を全て成し遂げる。』と言う。「わたしは、東から猛禽を、「遠い地から、わたしのはかりごとを行うものを呼ぶ。私が語ると、すぐそれを行い、わたしが計ると、すぐそれをする(46:9~11)」。遠い大昔のこととは、イスラエルの歴史における初期の出来事を指します。例えば、「出エジプト」の史実「過ぎ越しの救い」、「紅海の徒渉」「「荒野でのマナや水の供給」、「ヨルダン川の渡河」、「カナンへの侵入と占領」などを指します。それは神の行われた奇蹟であり、神のご計画の一環です。この世界には「イスラエルの神」以外の神はいないことを宣言しているのです。神は自らを「初めであり、終わりである」と言っています。初めのときに終わりのことを語られた永遠の神です。神は永遠の昔(創世記)から終わり(黙示録)まで人類の歴史を支配されている方です。そしてその預言と、神の希望されることのすべては、は成就されるのです。その希望とは、再生された「神の国」です。そこには悪魔の存在はありません。神はそのご計画を、自らの手では行いません。「遠い地から私のはかりごとを行うものを呼ぶ」といいます。それを猛禽と呼んでいます。その猛禽とは敏捷で、勇壮な鷲のような存在です。クロス王を指します。彼は、神のご希望を神に代わって迅速に行います。
 「わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルに私の栄光を与える(46:12~13)」。主はかたくなに主を拒否している者、イスラエルの民に言います。あなたがたは必ず救われる。だから、今、すぐに、悔い改め、神に立ち返りなさい、と。主の語られたご計画は成就すると言う視点から見るとき、イスラエルの救いは、必ず、実現するのです。それを主は保障しておられるのです。
 47章:神の復讐(Ⅰ~7節)「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上に座れ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地に座れ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。(47:1)」カルデヤとは、バビロンの雅名です。国、町、都は、ヘブル語では女性名詞です。それゆえバビロンもカルデヤもおとめ、娘と呼ばれています。おとめとは、男を知らない処女です。バビロンは、外敵に犯(侵)されたことのない処女のような美しい、強い国でした。その強国が、ペルシャのクロス王によって滅ぼされるのです。国を失ったカルデヤ人は、身分の高い上品な貴婦人からはしためにまでおとしめられるのです。これが戦いに敗れた国の運命です。「ひき臼を取って粉をひけ。おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。あなたの裸は現れ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐する。だれ一人容赦しない」。ここまでバビロンはおとしめられ辱めを受けたのです。自由も失います。何故、強国バビロンは滅びの憂き目にあったのでしょうか。主は、仰せられます。「わたしは復讐する。だれ一人容赦しない」と。主の関与が明かされます。「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。」主はクロス王を使ってその御業を行い、バビロンの罪を暴き、裁いて、滅ぼしたのです。
「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ(47:5)」。バビロンは、その栄光はなくなり再生は不可能なまでに滅びました。この後、主は、バビロンを滅ぼした理由を明らかにしていきます。「私は、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し。彼らを、あなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。」譲りの民とは、神に選ばれた民イスラエルを指します。あなたとはバビロンを指します。主は、罪に満ちたイスラエルを裁く器としてバビロンを選びました。イスラエルの悔い改めがその目的でした。そこには愛がありました。しかし、バビロンは、その選びを誇って、高慢となり、その分を超えて、イスラエルの民を「捕囚の民」として、苦しめたのです。バビロンは「いつまでも、わたしは女王でいようと考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった(47:7)。」のです。バビロンの罪は、自分たちの繁栄が永遠に続くものと誤解し、高慢となり、主の民イスラエルを思いやることなく、その優雅な生活に終わりが訪れるとは夢にも思わなかったことです。
安逸の後の破滅(8~9節)「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で,「私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ(47:8)。私だけは特別だと、安逸をむさぼる女とは、バビロニアの民を指します。彼らは、その繁栄のもと飢え渇きのない生活を送っていました。やもめになると言うことは支配者である王を失うことを意味し、子を失うとは、国土や住民を失うことを意味します。要するに、戦いに敗れることを意味します。彼らは強固な軍隊に守られ、諸国との戦いに連勝し、不敗を誇っていました。その民に、主は語ります。「子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多くの呪術を行っても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは、突然、あなたを見舞う。(47:9」。強い軍事力を誇り、不敗神話の中にあったバビロンも、主の前では、敵ではなかったのです。どんな呪術も、どんな呪文も効き目はなかったのです。バビロンは、主からの破滅の予告を「心に留めず、自分の終わりのことを思ってみなかった』だけでなく、「私だけは、特別だ。やもめにはならないし、子を失うことも知らないで済もう」と過信していたのです。この二つのことは絶対に起こらないと豪語していたのです。しかし、主は、この二つの災厄は、またたく間に訪れるであろうと預言されたのです。
「あなたは自分の悪に拠り頼み、『わたしを見る者はない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ(47:10)」「わたしを見る者がない」とは、神に対する恐れがないことを意味します。「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」。神に対する恐れの無い知恵と知識は、人を高慢にするだけです。『わたしは、特別だ』と、あなたを迷わせたのです。「しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることは出来ない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやってくる(47:11)」。神を忘れ、高慢になったあなたを主はお裁きになるのです。
「呪術への裁き」(12~15)「さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。おびえさせること事が出来るかもしれない(47:12)」。この言葉は、あくまでも反語です。神に頼って立ち上がれば済むものを、使い古しの呪文や、多くの呪術を用いても、救いには何の役にも立たないことが語られています。「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こることを知らせる者を並べ立てて、あなたを救わせて見よ(47:13)。天文学や星占いの発祥地は、ここバビロンです。ここにも反語があります。神に頼らず、多くの偶像、占い師を並びたてて助言を求めるので、あなた(バビロン人)は、疲れ果てています。「見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもない(47:14)」。切り株につけられた火は、神を現し、焼き尽くす火とは、神の裁きを現します。罪びとであるバビロン人は、神の救いに預かることは出来ません。この場合の神は、身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもありません。その罪を焼き尽くす神です。 「あなたが若い時から仕え行き来してきた者たちは、このようになる。彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救うものはひとりもいない(47:15)」。若い時から仕え、行き来した者とはバビロンの権力者(王たち)を指します。かれらは、勝手に動き、神を敬わず、呪術や呪文などの偶像に頼ったがゆえに、神の救いに預かることはなかったのです。呪いの人は、神の裁きを受けます。それゆえ、あなたを救うものは一人もいないのです。

令和6年2月13日(火)報告者守武 戢 楽庵会
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イザヤ書22 45章1~25節 油注がれた者

2024年01月03日 | Weblog
イザヤ書XXII、45章1~25節 油注がれた者;
はじめに:
 主は、ご自分の救いの手をイスラエルにだけに留めておかれません。諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるように呼びかけられます。しかし、思うようにはいきません。主は、天と地と人を造り、これを仕上げられたお方です。創造者です。『わたしのほかに神はいない』と高らかに宣言します。だから私を信ぜよ、と主は仰せられます。他の神は全て偽の神、偶像です。
「だから、信ぜよ」と言う言葉は、創造者としての前提条件のすべてを、正しいと考えるがゆえに、結論はストレートに導き出されます。その結論とは、神に対する信仰の、絶対性です。「独善的」な思考方法です。他の可能性は、全て否定されます。神は、神そのものです。何物にも左右されません。しかし、それは、信仰の人にはともかくとして、異邦かつ異教の人には受け入れ難いことです。選択の余地がないからです。
信仰の人は、前提条件を疑わずに、御言葉を行動として、展開します。そのため、社会は混乱します。神を信じる者と信じない者との間に対立抗争、差別迫害が起こります。
ここに、悪魔の付け込むスキがあります。悪魔は、優しい顔をして人に近づきます。そのため、人は騙され、偶像の入り込む余地が出て来ます。
45章全体は、未来に対する神の希望であり、預言です。「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」のです。素晴らしい世界が預言されていますが、その預言の実現は、イザヤ書の段階(旧約聖書)では、実現していません。その実現は、キリスト(新約聖書)の出現以後まで待たねばなりません。
「救い」の観点から見る限り、新・旧両聖書は一体化しています。
45章:「主は、油を注がれたクロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする(45:1)』「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る(45:2)」。「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶもの、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ(45:3)」言葉の説明:油をそそぐ:すべてのキリスト者は、神によって油を注がれた者であり御国の建設と言う目的を持ちます。油を注がれた者とは、神によって選ばれた者を指し、祝福、守り、力が、神によって与えられた者を言います。クロス王の活躍:油を注がれたクロス王を通じて主は、救い主としての働きを行われます。彼は、平定した諸国の武装解除を行い、城門を解放しました。主がそれを助けたのです。主は、世界制覇を試みるクロスを助け、彼の前に立ちはだかる諸国を滅ぼします。戦いに敗れた国々の隠された財宝は見つけ出され、それを主はクロスに与え、仰せられます。「わたしが主であり、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ』と。
クロスによるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、かれが、主を知らなかったことです。「私のしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える(45:4)」「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる(45:5)。あなたとは、クロス王のことです・彼は異教徒で、多神教の信者です。それにもかかわらず、主は、彼に「油を注がれた者」と言う肩書をお与えになり、力を帯びさせたのです。その理由は、自分のほかに神はいないことを世界に知らしめることにあったのです。『わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない」。主は、自分のほかに神はいないことを世界に向かって高らかに宣言します。
イスラエルから世界へ、クロスは、そのための最高かつ最良の神のしもべです。クロスはペルシャ帝國の創設者であり、初代の帝王です。彼によって東はインド、西は小アジア、南はエジプトに到る大帝国が形成されました。その背後に、主の力があったことを忘れてはなりません。『それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない(45:6)』。45章1~7節には、ペルシャ王クロスによるイスラエルの解放を告げる約束が語られていますが、6節には、その救いは、イスラエルに限られたものではなく、日の上るところから、沈むところまで、世界中の人々が知るようになると、描かれています。クロスによって神の福音の伝播が行われるのです。主は、自分の唯一性と無比性を世界に向かって高らかに宣言します。『わたしが、主である。ほかにいない』と。
 『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者(45:7)』。ここには、主の永遠性(光)と万能性が語られています。主は、光の創造者であるだけでなく、やみの創造者でもあります。また、平和だけでなく災いをも創造するお方です。毒を知らずして、命は救えないのです。ある場合には自分の目的を達成するためには、悪魔すらも利用するお方です(万能性)。
 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した(45:8)」。主は、天から正義を降らせ、地には救いを実らせます。主は、自分の正義によって、イスラエルを救い、それによって、イスラエル自身も自分を義とするのです。ここには神の国が想定されています。この国(神の国)には神の義と救いが満ち溢れています。
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造ったものに抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を造るのか』とか、『あなたの造ったものには手がついていない』などと言うであろうか(45:9)。」ここには、自分を造ったもの(神)に抗議する者に対する批判があります。粘土(神を信じる者)は決して形造る者(神)の、み言葉を疑いません。信じてこれに従います。
「ああ。自分の父に『なぜ子供を産むのか』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか』と言う者(45:10)」。父も母も自分を形造った方です。ここに出てくる父と母は、神を現します。子の出産は、喜びです。しかし、その喜びを受けるには産みの苦しみを伴います。産みの苦しみは、喜びを受けるための必要悪です。苦しみと喜びは一体化しています。キリストは、十字架の死(苦しみ)によって我々の罪を贖いました。それゆえ、私たちは罪から解放された(喜び)のです。ここには主の一方的な愛(憐み)が描かれています。
「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こることを、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか(45:11)。主は、異邦人であり異教の民に語り掛けます。これから起こることとは、「神の国」ことです。わたしの手で造ったものとは、大地や人です。これは、反語です。お前たちに「神の国」を造れるか、大地や人を支配できるか、出来ないであろう、それの出来るのは、わたしのみだと、言っているのです。そして、次の節(12節)に続きます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き述べ、その万象に命じた(45:12)。主は創造主です。天を造り、その下に大地を造り、人を創造しました。福音の幅を広げ、その御業を拡大しました。その御業を主に代わって行ったのがクロス王です。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と、万軍の主は仰せられる(45:13)」。「彼」とは、クロス王です。彼に勝利をもたらし、神の町エルサレムを再建し、捕囚の民を解放したのは、主です。それゆえ、そのための代価も、わいろも必要としなかったのです。主にとって必要なものは、自分に対する信仰のみです。
「主はこう仰せられる。『エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセパ人も、あなたの所にやって来て、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたの所にだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』(45:14)』と。クシュとはエチオピヤを指します。あなたとはクロスではなく、その息子カンビュセスと言われています。その息子がエジプト、クシュ、セパを滅ぼしたのです。亡ぼされた彼らは、彼(カンビュセス)のもとに来て祈ります。「神はあなたの所にだけおられ、ほかになく、ほかに神々はいない」と。ペルシャ王と、ユダヤ人の解放は霊的に密接に結びついているのです。
「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(45:15)」。偶像は、「自分を現す」偽の神です。それに対してイスラエルの神は、人の心の中に住む「霊的存在」です。それゆえ、人の目には見ることのできない「隠された存在」なのです。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る(45:16)。彼らは、罪びとです。裁きを受けます。それに対して、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入る。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない(45:17)」。偶像を拝む者と、イスラエルとの対比です。イスラエルは主に対して永遠に義なる存在です。「神の国」の住民にふさわしいと、主によって、救われています。それゆえ、辱めを受けることはありません。
「天を創造した方、すなわち、神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない(45:18)』と。主は聖書の中で何度も言います。『わたしは、主である。ほかにはいない』と。主は「わたしは、天地万物の唯一の創造主である、ほかにはいない。と、全ての偶像に支配された世界に向かって自分の神性を宣言しているのです。「だから、わたしを信ぜよ」と。神と偶像、その対立には厳しいものがあります。主は、自分の唯一性と無比性を強調し、偶像に対抗せざるを得なかったのです。イスラエルの神を唯一の真の神として普遍的に、世界に向かって宣伝していくことが求められているのです。
「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒れ地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよとは言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者(45:19)」。他の訳文によると「わたしを尋ねるのは無駄だ」とは言わなかった」。になっています。他の異教の書物と聖書の違いは、聖書が正しく神のみ言葉を告げていることです、そして、その語られたみ言葉はすべて成就します。
 「諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、教えもしない神に祈る者らは、何も知らない(45:20)」。諸国からの逃亡者とは、ペルシャ帝国によって滅ぼされた国々の民を指します。彼らは、真の神を知りません。それゆえ、彼らは、主が教えもしない偶像を拝んでいます。それ等の民に主は言います。「ともに集まって我がもとに集まれ」と。 「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主でなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない(45:21)」。「これ」とは、神に代わって行われたクロス王の救いの御業です。これを、偶像を信じる者は預言していたか、預言していたとするなら、その証拠を出せ、出すことは出来まい、これのできるものは、わたしのほかにはいない、と主は、偶像を信じる者に挑戦しています。イザヤが、この預言をしたのはこのときから約150年前です。このことを預言できるものは預言者イザヤ以外には、存在しません。イザヤは主に代わって預言したのです。「だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。
 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない(45:22)」。地の果てのすべての者とは、異邦かつ異教の民です。その民に主は呼びかけ言います。『わたしを仰ぎ見て救われよ』と。続いて言います。
 「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことは出来ない。すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(45:23)」、主の言葉は、真実であるがゆえに取り消されてはならないのです。偶像から発せられる言葉との対比において語られています。イザヤ書において、偶像と言う言葉は多用されています。それだけ重い言葉です。しかし、取り消(否定)されなければなりません。すべての膝は神に向かってかがみ、口から出ることばは、御言葉です。「わたしについて、 『ただ、主にだけ正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつものはみな、主のもとに来て恥じ入る(45:24)」。「主にだけ正義と力がある」と言う言葉は、偶像に向かって言う言葉です。偶像を敬う者とは、主に対していきりたつものです。彼らは主のもとに来て恥じ入るのです。このように、主は、彼らを罰し、お赦しになりません。
 「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」。主は、イスラエルの民に『悔い改めて、わたしに帰れ』と、おのれの方向に向きを変えることを求めます。イスラエルの民はそれに従います。神の救いの最終ステージである、神と人とが共に住む聖なる都「新しいエルサレム(神の国)」においては、主は『隠れた存在』をやめ、人は、神のみ顔を仰ぎ見ることが出来るようになります。そこには神の御顔を避けたアダムとエバの姿はありません。これが救いであり、救われることなのです。

 >令和6年1月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会 
 
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イザヤ書22 45章1~25節 油注がれた者

2024年01月03日 | Weblog
イザヤ書XXII、45章1~25節 油注がれた者<
はじめに:
 主は、ご自分の救いの手をイスラエルにだけに留めておかれません。諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるように呼びかけられます。しかし、思うようにはいきません。主は、天と地と人を造り、これを仕上げられたお方です。創造者です。『わたしのほかに神はいない』と高らかに宣言します。だから私を信ぜよ、と主は仰せられます。他の神は全て偽の神、偶像です。
「だから、信ぜよ」と言う言葉は、創造者としての前提条件のすべてを、正しいと考えるがゆえに、結論はストレートに導き出されます。その結論とは、神に対する信仰の、絶対性です。「独善的」な思考方法です。他の可能性は、全て否定されます。神は、神そのものです。何物にも左右されません。しかし、それは、信仰の人にはともかくとして、異邦かつ異教の人には受け入れ難いことです。選択の余地がないからです。
信仰の人は、前提条件を疑わずに、御言葉を行動として、展開します。そのため、社会は混乱します。神を信じる者と信じない者との間に対立抗争、差別迫害が起こります。
ここに、悪魔の付け込むスキがあります。悪魔は、優しい顔をして人に近づきます。そのため、人は騙され、偶像の入り込む余地が出て来ます。
45章全体は、未来に対する神の希望であり、預言です。「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」のです。素晴らしい世界が預言されていますが、その預言の実現は、イザヤ書の段階(旧約聖書)では、実現していません。その実現は、キリスト(新約聖書)の出現以後まで待たねばなりません。
「救い」の観点から見る限り、新・旧両聖書は一体化しています。
45章:「主は、油を注がれたクロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする(45:1)』「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る(45:2)」。「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶもの、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ(45:3)」言葉の説明:油をそそぐ:すべてのキリスト者は、神によって油を注がれた者であり御国の建設と言う目的を持ちます。油を注がれた者とは、神によって選ばれた者を指し、祝福、守り、力が、神によって与えられた者を言います。クロス王の活躍:油を注がれたクロス王を通じて主は、救い主としての働きを行われます。彼は、平定した諸国の武装解除を行い、城門を解放しました。主がそれを助けたのです。主は、世界制覇を試みるクロスを助け、彼の前に立ちはだかる諸国を滅ぼします。戦いに敗れた国々の隠された財宝は見つけ出され、それを主はクロスに与え、仰せられます。「わたしが主であり、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ』と。
クロスによるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、かれが、主を知らなかったことです。「私のしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える(45:4)」「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる(45:5)。あなたとは、クロス王のことです・彼は異教徒で、多神教の信者です。それにもかかわらず、主は、彼に「油を注がれた者」と言う肩書をお与えになり、力を帯びさせたのです。その理由は、自分のほかに神はいないことを世界に知らしめることにあったのです。『わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない」。主は、自分のほかに神はいないことを世界に向かって高らかに宣言します。
イスラエルから世界へ、クロスは、そのための最高かつ最良の神のしもべです。クロスはペルシャ帝國の創設者であり、初代の帝王です。彼によって東はインド、西は小アジア、南はエジプトに到る大帝国が形成されました。その背後に、主の力があったことを忘れてはなりません。『それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない(45:6)』。45章1~7節には、ペルシャ王クロスによるイスラエルの解放を告げる約束が語られていますが、6節には、その救いは、イスラエルに限られたものではなく、日の上るところから、沈むところまで、世界中の人々が知るようになると、描かれています。クロスによって神の福音の伝播が行われるのです。主は、自分の唯一性と無比性を世界に向かって高らかに宣言します。『わたしが、主である。ほかにいない』と。
 『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者(45:7)』。ここには、主の永遠性(光)と万能性が語られています。主は、光の創造者であるだけでなく、やみの創造者でもあります。また、平和だけでなく災いをも創造するお方です。毒を知らずして、命は救えないのです。ある場合には自分の目的を達成するためには、悪魔すらも利用するお方です(万能性)。
 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した(45:8)」。主は、天から正義を降らせ、地には救いを実らせます。主は、自分の正義によって、イスラエルを救い、それによって、イスラエル自身も自分を義とするのです。ここには神の国が想定されています。この国(神の国)には神の義と救いが満ち溢れています。
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造ったものに抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を造るのか』とか、『あなたの造ったものには手がついていない』などと言うであろうか(45:9)。」ここには、自分を造ったもの(神)に抗議する者に対する批判があります。粘土(神を信じる者)は決して形造る者(神)の、み言葉を疑いません。信じてこれに従います。
「ああ。自分の父に『なぜ子供を産むのか』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか』と言う者(45:10)」。父も母も自分を形造った方です。ここに出てくる父と母は、神を現します。子の出産は、喜びです。しかし、その喜びを受けるには産みの苦しみを伴います。産みの苦しみは、喜びを受けるための必要悪です。苦しみと喜びは一体化しています。キリストは、十字架の死(苦しみ)によって我々の罪を贖いました。それゆえ、私たちは罪から解放された(喜び)のです。ここには主の一方的な愛(憐み)が描かれています。
「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こることを、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか(45:11)。主は、異邦人であり異教の民に語り掛けます。これから起こることとは、「神の国」ことです。わたしの手で造ったものとは、大地や人です。これは、反語です。お前たちに「神の国」を造れるか、大地や人を支配できるか、出来ないであろう、それの出来るのは、わたしのみだと、言っているのです。そして、次の節(12節)に続きます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き述べ、その万象に命じた(45:12)。主は創造主です。天を造り、その下に大地を造り、人を創造しました。福音の幅を広げ、その御業を拡大しました。その御業を主に代わって行ったのがクロス王です。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と、万軍の主は仰せられる(45:13)」。「彼」とは、クロス王です。彼に勝利をもたらし、神の町エルサレムを再建し、捕囚の民を解放したのは、主です。それゆえ、そのための代価も、わいろも必要としなかったのです。主にとって必要なものは、自分に対する信仰のみです。
「主はこう仰せられる。『エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセパ人も、あなたの所にやって来て、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたの所にだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』(45:14)』と。クシュとはエチオピヤを指します。あなたとはクロスではなく、その息子カンビュセスと言われています。その息子がエジプト、クシュ、セパを滅ぼしたのです。亡ぼされた彼らは、彼(カンビュセス)のもとに来て祈ります。「神はあなたの所にだけおられ、ほかになく、ほかに神々はいない」と。ペルシャ王と、ユダヤ人の解放は霊的に密接に結びついているのです。
「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(45:15)」。偶像は、「自分を現す」偽の神です。それに対してイスラエルの神は、人の心の中に住む「霊的存在」です。それゆえ、人の目には見ることのできない「隠された存在」なのです。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る(45:16)。彼らは、罪びとです。裁きを受けます。それに対して、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入る。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない(45:17)」。偶像を拝む者と、イスラエルとの対比です。イスラエルは主に対して永遠に義なる存在です。「神の国」の住民にふさわしいと、主によって、救われています。それゆえ、辱めを受けることはありません。
「天を創造した方、すなわち、神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない(45:18)』と。主は聖書の中で何度も言います。『わたしは、主である。ほかにはいない』と。主は「わたしは、天地万物の唯一の創造主である、ほかにはいない。と、全ての偶像に支配された世界に向かって自分の神性を宣言しているのです。「だから、わたしを信ぜよ」と。神と偶像、その対立には厳しいものがあります。主は、自分の唯一性と無比性を強調し、偶像に対抗せざるを得なかったのです。イスラエルの神を唯一の真の神として普遍的に、世界に向かって宣伝していくことが求められているのです。
「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒れ地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよとは言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者(45:19)」。他の訳文によると「わたしを尋ねるのは無駄だ」とは言わなかった」。になっています。他の異教の書物と聖書の違いは、聖書が正しく神のみ言葉を告げていることです、そして、その語られたみ言葉はすべて成就します。
 「諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、教えもしない神に祈る者らは、何も知らない(45:20)」。諸国からの逃亡者とは、ペルシャ帝国によって滅ぼされた国々の民を指します。彼らは、真の神を知りません。それゆえ、彼らは、主が教えもしない偶像を拝んでいます。それ等の民に主は言います。「ともに集まって我がもとに集まれ」と。 「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主でなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない(45:21)」。「これ」とは、神に代わって行われたクロス王の救いの御業です。これを、偶像を信じる者は預言していたか、預言していたとするなら、その証拠を出せ、出すことは出来まい、これのできるものは、わたしのほかにはいない、と主は、偶像を信じる者に挑戦しています。イザヤが、この預言をしたのはこのときから約150年前です。このことを預言できるものは預言者イザヤ以外には、存在しません。イザヤは主に代わって預言したのです。「だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。
 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない(45:22)」。地の果てのすべての者とは、異邦かつ異教の民です。その民に主は呼びかけ言います。『わたしを仰ぎ見て救われよ』と。続いて言います。
 「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことは出来ない。すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(45:23)」、主の言葉は、真実であるがゆえに取り消されてはならないのです。偶像から発せられる言葉との対比において語られています。イザヤ書において、偶像と言う言葉は多用されています。それだけ重い言葉です。しかし、取り消(否定)されなければなりません。すべての膝は神に向かってかがみ、口から出ることばは、御言葉です。「わたしについて、 『ただ、主にだけ正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつものはみな、主のもとに来て恥じ入る(45:24)」。「主にだけ正義と力がある」と言う言葉は、偶像に向かって言う言葉です。偶像を敬う者とは、主に対していきりたつものです。彼らは主のもとに来て恥じ入るのです。このように、主は、彼らを罰し、お赦しになりません。
 「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」。主は、イスラエルの民に『悔い改めて、わたしに帰れ』と、おのれの方向に向きを変えることを求めます。イスラエルの民はそれに従います。神の救いの最終ステージである、神と人とが共に住む聖なる都「新しいエルサレム(神の国)」においては、主は『隠れた存在』をやめ、人は、神のみ顔を仰ぎ見ることが出来るようになります。そこには神の御顔を避けたアダムとエバの姿はありません。これが救いであり、救われることなのです。

 >令和6年1月12日(火)  報告者守武 戢 楽庵会 
 
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井イザヤ書21 44章1~28節 唯一のお方

2023年12月06日 | Weblog
   イザヤ書 XXI, 44章1~28節 唯一のお方
 はじめ:神は、われわれ信仰の人を守り育ててくださいます。主は、自分を愛する者に恵みをお与えになります。その恩返しのために、これからは、私たちは、自分の命を大切に守り育てていく必要があります。おのれを大切に思う心が、周囲の人を大切にする行いへと転じていきます。周囲の人を大切にする行いは、人から人へと伝わり、さらに多くの人を大切に支えていく行いへと転じていきます。神は「汝の隣人を愛せよ」と言います。そしていつの日かあなたたちに、また、あなたたちの異教の民の国から世界へと、神の福音は伝播していきます。その彼方に神の国が広がっています。ここに神のご計画(初めから終わりまでの)がありま子々孫々の命を支える行為へと広がっていきます。そこには、異邦、異教の民も含まれています。そこには人種、宗教の差別はありません。イスラエルを起点としてす。
 44章:「今、聞け、私のしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを体内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ。わたしの選んだエシュルンよ(44:1~2)」言葉の説明:ヤコブ=かかとをつかむ者、押しのける者、ずる賢い者。イスラエル=神に支配された者。エシュルン=まっすぐな者、正しい者、心の直ぐな者。ヤコブ、エシュルンはイスラエルの別名です。この順番(ヤコブ、イスラエル、エシュルン)を見るとき、神のご計画を知ることができます。主は、罪びと(ヤコブ)を選びの民(イスラエル)として、神の子(エシュルン)にまで変身させるのです。主はイスラエルに「恐れるな」わたしがついていると、回復のメッセージをお与えになります。エシュルンには神の国の住民が予定されています。
 主は、この後ご自身の働きについて説明していきます。
「わたしは、潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。あるものは『私は主のもの』と言い、あるものはヤコブの名をなのり、あるものは手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。(44:3~5)」主は、イスラエルの民をその体内にいる時から支えておられ、荒野に水を湧かしたように、イスラエルに御霊を注がれたのです。水が人に命を与えるように、御霊(神)は、私たちに霊的な命を授けられます。
 主は、イスラエルをその体内にいる時から支え、御霊を注ぎ、その子々孫々に至るまでの増大繁栄を約束された方です。それゆえに、イスラエルは「私は主のもの」と、誇ります。それにもかかわらず、イスラエルは主に背き続けます。それでも主は、イスラエルを愛し、救います。彼らは、主に愛された選び(契約)の民であり、贖いの民だからです。
 「イスラエルの王である主。これを贖う方。万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない(44:6)」。この方、神は永遠に生きておられ、初めから終わりまで万物の歴史を支配しておられる方です。初めとは万物の初めであり、終わりとは、永遠に続く「神の国」を指します。ヨハネは、その福音書で次のように言います。「はじめに言葉あり、言葉は神と共のあり、言葉は神なりき、この言葉は初めに神と共にあり、萬の物これに由りて成り、成りたり物に一つとしてこれによらで成りたるは成し(ヨハネの福音書1章1~3節)」と。神は、万物に先んじて存在し、これを造られ、これを支配される尊いお方です。
 主が、アブラハムと約束されたことは、終わりのときに成就することでした。「わが前に全きものであるなら、汝の子々孫々に増大繁栄を保証しよう」と。その初めのとき(契約時)に、終わりのこと(神の国)を主は預言しておられるのです。このことを預言できる方は、主のほかには存在しません。「私以外にだれが、これを預言できるか」と、主はおおせられます(44:7参照)。しかし、イスラエルの民は、これを理解できません。自分が造った神・偶像に頼ります。終わりの日に神の選びの民イスラエルが、悔い改め、自分を造った神に立ち返り、主の贖いの御業を悟ったとき、素晴らし喜びが、彼らに訪れます。
「偶像を造るものはみな、むなしい。彼らの慕うものは、何の役にも立たない。彼らの仕える者は、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工したものが、人間に過ぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る(49:9~11)。」ここには、偶像批判があります。偶像を造ることの虚しさが語られています。今まで期待し、信頼していたことが崩れ落ち、失望落胆することを「恥を見る」と表現しています。これが、偶像を造る者の運命なのです。神は、万物をお造りになった尊いお方です。それに反して、偶像は、人によって造られた偽りの神です。人は、神がお造りになった神の作品です。神の作品(人)によって偶像は造られるのです。皮肉な現実です。そこに神と偶像の決定的な違いがあります。その結果、偶像を信じる者たちはみな、おののいて、共に恥を見るのです。
 12~20節には、偶像崇拝の虚しさ、滑稽さ、情けなさが描かれています。
 「鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう(44:12)」。神は、万物に先んじて現れ、永遠に生き続ける存在です。それに反して、偶像は、有限なる人によって造られる、有限なる偽りの神です。いつかは壊れます。人が、多くの道具と力を用いてこれを造れば、腹もすけば、喉も渇きます。それに反して、万物をお造りになった主は、その御業によって、疲れることも、たゆむこともありません。
「木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭を取り、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する(44:13)」。神は、その姿を見せません。しかし、偶像は、人によって、美しい人の姿に造られ、神殿に安置されます。人は見えない者を退け、見えるものとして偶像を造り、これを崇めます。
「彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また月桂樹を植えると、大雨が育てる(44:14)」。うばめがしとは柏の木のことです。ここには神の皮肉を感じることができます。木々を育て、大雨を降らせているのは神ご自身だからです。神が造られたものを使って、偶像を造り、それを神と呼んでいる。という矛盾です。万物は、すべて神の作品です。その一部を使って偶像を造り、これを神と呼ぶ。ここにも矛盾があります。と言うより、偶像は神の作品ともいえます。サタンは神の作品を使って偶像を造り、それに跪拝する者を求めます。以下(15~17節)は、サタンの諸業です。
「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す(44:15)」。「その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う(44:16)」。「その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたはわたしの神だから』と言う(44:17)」。サタンは、偶像を造って、あなたたちの神としてこれに祈って救いを求めよ、と命令します。「彼らは知りもせず。悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない(44:18)」。ここにもサタンの影響を見ることができます。サタンは彼らの目と心をふさいでいるのです。それゆえ、彼らは、見ることも、悟ることもできないのです。
「彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌み嫌うべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない(44;19)」。忌み嫌うべき物、木の切れ端、共に偶像を指します。偶像は何かのついでに造られています。決して聖なる者とは言えません。彼らにはその自覚があるにもかかわらず、偶像の前にひれ伏すことをやめません。そこには自己欺瞞があります。
「灰にあこがれる者の心は、欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない(44:20)」。火を燃やしたら、灰になります。彼らは、灰になり果てる汚れたものを神と拝んでいます。それは、誤りではないかとさえ言わないのです。そこには自分自身に対する欺きがあります。
 「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、私自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったからだ(44:21~22)」。主は、おのれの作品イスラエルの民を、ことのほか愛しておられます。それで、その罪を問いません。「わたしの言葉を武器として歩め、悔い改めて、わたしに帰れ」と命じます。神に立ち帰ることが出来るのは、既に罪が許されているからです。主には恵みを与える、「そのとき」があります。主は、贖いの神だからです。
「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ(44:23)」。これとは、イスラエルの民の悔い改めと神への立ち返りを指します。このとき、イスラエルは「エシュルン」と呼ばれます。このとき、自然界も共に喜びます。人と自然は一体化します。イスラエルの上に主の栄光が現わされます。神の国の出現です。
 『あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。『私は万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた(44:24)』。イスラエルは、存在する以前に、神によって形造られた存在です。これは、神とアブラハムの契約を指します。イスラエルは、アブラハムを先祖とします。神は天におられ、万物を創造されました。神の子としてキリストを地上に送り、その御業を広げました。
「わたしは自慢するものらのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵あるものを退けて、その知識を愚かにする(44:25)」。神の知恵は、この世の全ての知恵に優ります。自分の知恵を驕り、高ぶる者、占い師、学者、など、その知識、知恵を神は退けて、役の絶たないもの(愚か)にするのです。
「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画をなしとげさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う(44:26)」。神はバビロンによって各地に散らされた神のしもべイスラエルの願いをお聞きになり、エルサレムへの帰還をお赦しになります。更に、主は、バビロンによって廃墟にされたエルサレムを復興させ、人が住むことを可能にすると、預言するのです。
「淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々を枯らす』と言う(44:27)」。神は、自然の要害、ユーフラテス川を枯らすことによってバビロンの守りを崩すのです。スペイン軍の侵攻が可能になります。出エジプトを果たしたイスラエルの民の前に現れた紅海、主は、それを割りイスラエルの民は、無事にそれを渡った故事を思い出します。
「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う(44:28)』。スペインの王クロスは、神に代わって、各地に散らされた捕囚の民の帰還を命じます。それゆえ主は、彼を「わたしの牧者」と呼び、わたしの望む事をみな成し遂げる」者と見做します。エルサレムに向かっては、「再建される」、と言い。神殿ついては「その基がが据えられる」と言います。新しいエルサレム(神の国)が預言されています。

令和5年12月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

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イザヤ書20 43章主はあなたがたを贖ったお方

2023年11月07日 | Weblog
イザヤ書XX43章★主はあなたがたをを贖ったお方
はじめに:人が聖書の言葉を通して、創造主である神と出合うとき、人は、初めて自分にとっての「真の存在価値」を見出すことができます。なぜなら、人の価値は、能力、業績、財産などによって測られるのではなく「私たちがだれの作品であるか」によって決まるからです。勿論、私たちは、神である主の作品です。人がお互いに語り合うとき、「この人は、私のことをどう思っているのか」が、気になるなら、「心の中の真実」を語ることは難しくなります。しかし、あなたのことを、常に心にかけている、神の「あなたは、わたしの最高傑作だ、今日も自信をもって堂々と自分自身を思うままに生きなさい」と言う言葉に、常に、心を留めているなら、他人が自分のことを、どう思おうと「人の真価をご存じの神」の前にあって、その方に、ふさわしく、いつでも、だれに対しても、愛をもって心の真実を語ることのできる人(神の子)に、成長することができのです。彼らこそ、主の栄光を輝かす証人であり、再生されたエルサレム(神の国)の住人となることができるのです。
43章:イザヤは言います。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。(43:1)」。主はイスラエルを特別な関係で呼ばれます。「あなたを造り出した方」「あなたを形造った方」が、アブラハムを呼ばれ、召し出されて、彼からイスラエルの民族と国をお造りになられました。創世記には、アブラハムの孫にあたるヤコブがイスラエル人の祖先と記されていることから、アブラハムをイスラエルの始祖と考える説が有力です。そのイスラエルを主は贖い、お選びになって、「わたしのもの」にしたのです。それゆえ、選びの民には恐れるものは何もありません。神が共にいるからです。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない(43:2)」。主によるイスラエルの民に対する守りと保護が語られています。彼らがどんなに罪を犯しても、神によって贖われているのです。濁流も彼らを押し流さず、猛火も彼らを焼きません。
「わたしがあなたの神・主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりとする(43:3)」。クシュとはエチオピヤのことです。イスラエルには「買戻しの権利」と言う律法が定められています。親族の中の誰かが死んだとき、その人に主から割り当てられた土地や家族が、人手に渡らないように親族の中で最も近い身内の者がそれを買い取ると言う義務が律法によってきめられています。すでに人手に渡った場合、買い戻すことになります。この権利を有する者を「ゴーエール」と言います。
神は、バビロンの手に渡った民と領土の最も近い身内として、それを取り戻すことをイスラエルに約束します。そのゴーエールとしてペルシャを指名します。その買戻し金(身代金)としてエジプト、クシュ、セパを与えると、主は、バビロンを倒すために戦っているペルシャに約束します。事実、ペルシャは、その一環として紀元前525年にエジプトを征服しています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたの代わりにするのだ(43:4)」。主は、イスラエルをこよなく愛しておられます。この愛はキリストにあって、私たち(人、国民)にも注がれています。神の愛こそ高価で尊く、幅ひろく、豊かなのです。
「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。わたしは北に向かって『引き渡せ』と言い。南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形ち造り、これを造った(43:5~7)」。主は、離散しているユダヤ人を世界の各地から集め、エルサレムに戻すと約束をしてくださいました。バビロンに捕囚された人だけではなく、アッシリヤに捕らえ移され、各地に散らされていたユダヤ人も、その散らされた地がペルシャの支配下に入ったので、共に、帰還が許されたのです。
霊的には、これは、終わりのときの姿です。み使いたちは、天の果てから選びの民を集めます。「わたしの名を呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを、形造り、これを造った(43:7)」。ここには、ユダヤ人を集める神の動機が語られています。その神の動機とは、「私の栄光を輝かす」ためです。神は自分を敬い、尊ぶものを集め、自らの最終目的である「神の国」を造り、自らを輝かし、彼らと共存すことにあるのです。イスラエルの民は神ご自身の栄光のために選びだされた、神ご自身の民であり、彼らが選ばれた目的は、主の素晴らしさを証しする証人となるためでした。
「目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ(43:8)」ユダヤ人たちは、散らされた地にあって、決して神に忠実ではなかったのです。主は、これをペルシャを使って帰還させたのです。
「すべての国々を集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちだれが、このことを告げ、先のことをわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ』と言わせよ(43:9)」。傍聴席には諸国の民が座り、ユダヤ人が証言台に立っています。このこととは、ユダヤ人の帰還を意味し、わたしのように、彼らの帰還を預言したものが他の神々の中に存在したか「この証言は真実だ(本当だ)といわせよと、主は証人たちに訴えているのです。
「あなたがたはわたしの証人。―――主の御告げ―――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがそのものであることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。(42:10)」。あなたがたとは、ユダヤ人を指します。そのものとは、神を指します。更に、わたしの先にも後にも神はいない、と神は、自分の絶対性と唯一性を語ります。
「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だからあなたがたはわたしの証人。―――主の御告げ―――わたしは神だ。これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せるものはなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻し得よう(43:13)」。イスラエルの民は、神が一方的に選んだ民であり、彼らが自分を神として崇める証人であって欲しいのです。それを神は、繰り返し述べます。わたしのほかに救い主(神)が、あってはならないのです(神の唯一性)彼らはただ従うことを義務付けられています。そこにイスラエルの民は違和感を持ち、自分の造った神=偶像を信じるようになります(43:22~24節参照)。
「あなたがたを贖われた聖なる方、主はこう仰せられる『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。(14節)』と。ここには主がイスラエルに語られたバビロン陥落の預言が記されています。カルデヤは、バビロンの雅名です。バビロンは政治的な国を意味し、カルデヤはその民族性や文化を意味します。使いとはペルシャのクロス王のことです。彼はバビロンを滅ぼします。旧約聖書の預言者たちは、歴史的事実と、終わりの日に起こる出来事(御国の成就)を重ね合わせて預言します。バビロンの崩壊は神の国の到来とリンクしています。これを知るためには、神のご計画の俯瞰的視点(聖書全体の視点)を知る必要があります。バビロンの崩壊による神の民の解放と、終末における「大バビロン」の崩壊による神の民の解放とが、重ね合わせて預言されていることを知る必要があります。
「わたしは、主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」(15節)「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、(16節)「戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。(17節)」。ここには第2の出エジプトが語られています。主は、紅海を分け、通り道を設けイスラエルの民は救出しますが、その道にエジプト軍をおびき寄せ、道を閉ざして水を溢れさせます、彼らは溺れ死に、全滅します。その力強いわざを、主は、バビロンに対しても行うと宣言しています。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(18節)「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは、荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(19節)先の事ども、昔の事どもとは、イスラエルが過去に経験したことです、虐げられたこと、祝福されたことなど多くあります。しかし、主はそれに拘るなと言います。「見よ。わたしは新しいことをする。もう、それが起ころうとしている。」新しいこととは、荒野に道を、荒れ地に川を設けることです。だれもこれまでなしえなかった、新しいことです。それは、これから目指すべき「神の国」です。「だれでもキリストの内にあるものは、新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った」のです。昔の事どもは、考えてはならないのです。前に進まなければならないのです。
「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわきださせ、荒れ地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」主が荒れ野や荒れ地に泉や川を設けたことは、人に恵みを与えただけではなく野の獣たちにも恵みを与え、それゆえ、獣たちも神を崇めるようになるのです。(20節)「私のために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(21節)」。「この民」とは、主(わたし)のために造られた者たちであり、主の壮大なご計画を達成させるための手段にすぎないのです。
「しかし、ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。(43;22)」。主はイスラエルの回復を約束したにもかかわらず、イスラエルはそれに応じていません。悲しい現実があります。主は呼び求めなければ、その恵みをお与えにはなりません。
『あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえを捧げて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物の捧げもののことで、あなたに苦労させず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった(43;23)』。主は、穀物の捧げ物と乳香のことでイスラエルの民を煩わせなかったにもかかわらず、彼らは全焼の生贄の羊を、携えてきて、主に捧げ、主を崇めようともしなかったのです。
『あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪でわたしに苦労させ、
あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ(43:24)」。これは主に対するイスラエルの応答です。主は嘆いております。全焼のいけにえ、穀物の捧げもの、菖蒲、脂肪など、本来、主を喜ばすはずの捧げものを主に捧げて、彼らは、主を満足させようとはしなかったのです。「かえって、あなたの罪で、あなたの不義で、わたし、主を煩わせただけだったのです」。旧約聖書の民は、永遠の罪びとです。彼らが、その罪から解放されるためには、イエス・キリストの登場まで待つ必要があります。旧約聖書では、そのメシヤが待ち望まれています。
 25節には、そむきの罪を贖う主が出て来ます。
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(43:25)」。主は、自分自身のためにイスラエルの民の罪をぬぐい去り、これを一方的に救うのです。彼らに罪があろうとなかろうが、です。主の最終的な目的は「エデンの園(神の国)」の再生にあります。そこの住民は、清くなければならないのです。
「私に思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べ立てよ(43:26)」。自らの潔白をあなたの方からら証明せよ、と主は言います。しかし、イスラエルは、それを証明することはできません。罪深い民だからです。
『あなたの先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた(43;27)』。「それで、わたしは聖所の司たちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが罵られるようにした(43:27)」。主の期待にも拘らず、イスラエルは罪を犯し続け、神の怒りをかったのです。彼らが、その罪から解放されるためには、イエス・キリストの登場まで待たねばなりません。旧約聖書の時代にはイエスはいません。しかし、旧約聖書は、この方を、メシヤと呼んでいます。イエスの到来を預言しています。イエスは磔刑によって、われわれの罪を贖ったお方です。

令和5年11月14日(火)報告者守武 戢 楽庵会


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