日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書19 42章 地に公義を打ち立てるしもべ

2023年10月14日 | Weblog
 イザヤ書XIX 42章 地に公義を打ち立てるしもべ 
はじめに:この章(42章)で、主は、主のしもべが、神とイスラエルの間で結んだ契約を確かなものにすることによって、それに接ぎ木させる異邦人の民たちの救いも確かなものにすることが述べられています。神は、ご自身が選んだしもべに対して直接話しかけます。「天を造りだし、これを引き述べ、地と産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主は、こう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り。あなたの民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。神と人とのかかわりが描かれています。このかかわりは主がそのしもべをして「神の契約」とし「国々の光」とするためです。
 42章:主の言うメシアとは、イエス・キリストとその弟子たちです。そのお方の出現を主は預言します。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、私の心の喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす(42:1)」。わたしのしもべとは、イエス・キリスです。主は、この方に聖霊を授けます。その聖霊の力によって、この方は公の仕事(公義)を始められます。異邦伝道の仕事です。父なる神のみ心を行う忠実なしもべとして、主はイエス・キリストの存在を喜ばれているのです。イエスはもろもろの国々に道をさし示します。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない(42;2)』イエスは謙虚な方です。自分を大げさに宣伝することを好みません。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(42:3)」。いたんだ葦、くすぶる燈心とは、汚され、消えかけている神の律法を指します。その律法を神のしもべであるイエス。キリスト(メシア)が再び燃え立たせます。イエスは言います「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです(マタイ5;17)」と。このみ言葉を、正しく理解し、律法を否定するのではなく、その存在を認める必要があります。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む(42:4)」。イエスはさまざまな困難に打ち勝ち、衰えず、くじけず、宣教に努めます。その弟子たちは、世界宣教に努めます。彼らは、諸国に住む人々に霊と息を与え、神のしもべとされるのです。それを島々の民は待ち望んでいます。「神の国」が預言されています。旧約聖書に「国々」「諸国」「島々」『地の果て』と言う言葉が出てきたとき、それは、異邦、異教の国々を意味します。
 「天を造りだし、これを引き述べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた聖なる主は、こう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守りあなたを民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。天を創造し。万物、万象を造り出した神は、人をも造り、これに、霊を授けて、しもべとされます。メシアです。そのメシアの手を握り、見守られます。主はその民と契約を結び永遠の命を与えられます。そして、それを通して、異邦人の国々にも光と
なられます。彼らも主の教えを待ち望むようになるのです。「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す(42~7)」。主は、罪のしがらみに苦しむ者を解放するのです。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない(42:8)」他の者とは異教の人。刻んだ像とは偶像を指します。神の栄光と栄誉は、神を信じる者の、ものなのです。「先のことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう(42:9)」。預言とは何かが語られています。新しい預言とは、キリスト・イエスの初臨で在り、再臨です。そのことが起こる前に、あなたがたに、そのことを預言しよう、と主は仰せられます。
 「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山の頂から声高らかに叫べ(42:10~11)」。この歌(教え)は地の果てまで海を渡って遥か彼方にある島々にまで届きます。新しい歌とはイエス・キリストの生誕に対する賛歌です。その教えが全国津々浦々まで伝わるのです。世界宣教が、語られています。それを、喜びをもって賛美せよと主は仰せられます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)」と。
 「主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。主は勇士のようにいで立ち戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。(42:12~13)」。ここには、キリストの福音が語られています。敵対する者にも新しい歌を歌うように召しておられるのです。これは終わりの時の徴です。主は優しいお姿で、真実をもって人々を自分に引き寄せたのち、再び来られる時(再臨)は、戦士として敵に対峙されます。ハルマゲドンの戦いが預言されています。
 「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を抑えていた。今は子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ(42:14)」。主は民の罪と罪悪に対して静かに耐えておられました。しかし、子を産む女のように産みの苦しみを体験します。うめき、あえぎます。主は選びの民を裁かなければならないのです。それには痛みを伴います。しかし、子を産むと言うことは、苦しみがあると同時に、新しい時代の到来をも意味します。キリストの初臨であり再臨です。そのための準備が必要です。「わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし沢をからす。(42:15)主には、新しい時代を前にして、罪に満ちた自然をリセットする必要があるのです。「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。(42:16)」。主は、救いの御業を行われます。暗闇の中にいて真理が見えず、理解出来なかった人々(盲人)が真理を知るようになり、その真理によって、主への道は、まっすぐにされます。「彫像により頼み、彫像に『あなたがたこそ、私たちの神々』と言う者は、退けられて、恥を見る(42:17)」。偶像崇拝をする者は、退けられて、裁かれます。恥を見るのです。彼らは、決して神の国の栄光に預かることは出来ないのです。ここまで、神とイスラエルの民との良好な関係が預言されました。いまだ、実現されてはいません これ以後、イスラエルの民の、実際の姿が語られます。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしが送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか(42:18~19)」。このしもべとは、異教の民ではありません。イスラエルの民です。主に買い取られた契約の民にも拘らず、彼らは、見ようとせず、聞こうともしないのです。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。主はご自分の義のために、み教えを広め、これを輝かすことを望まれた(42:20~21)」のです。イスラエルの民は敵(バビロン)との戦いに敗れ各地に散らされました。彼らは、その地に定着し、家族を持ち、子をもうけます。そして、異教の神を信じるようになります。真の神を信じるには差別と迫害に耐えなければなりません。それゆえに、主の道に歩まず、そのみ教えには聞き従わなかったのです。主は、自分の義のために、イスラエルの民が悔い改め、神に立ち返ることを望まれました。彼らがみ教えを広め、これを輝かすことを望まれたのです。神のイスラエルに対する深い御心が示唆されています。「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、罠にかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、だれが後々のために注意して聞くだろうか(42:22~23)」。ここには、「バビロンの捕囚」と、その悲惨さが語られています。「だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず自分に燃えついても、心に留めなかった。(42:24~25)」。奪い取るものとは、アッシリヤやバビロンを指します。彼らは神の御手です。それにも拘らず、イスラエルの民は、主の道を歩まず、偶像を求めたのです。彼らは、主の激しい燃える怒りに接しても、その真意を悟ることはなく、偶像に頼ります。旧約聖書の段階では、神とイスラエルの和解はありません。彼らの救いは、イエス・キリストの出現まで、待たねばなりません(42:1~4参照)。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会




イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな

2023年10月01日 | Weblog
  イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな
 はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
 神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼ら(周辺諸国)に見せつけ、だれがクロス王を使って異教の国々を滅ぼしたかと、自分の正しさを強調します。それゆえ、我に従えと訴えます。それに対して異教を信じる国々は、異教を信じる国々を統合して、共通の偶像を造って敵に抵抗することが、敵に勝つ最良の方法だと反論します。神か、偶像かの争いです。しかし、主は言います。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。 神に優るものは存在しません。
 41章を要約すると次の3つに分類されます。
 1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が呼びかけられ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
 2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
 3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
 41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と彼らに勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。この日より、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、預言的未来には預言と言う言葉がついているように必ず実現するのです。
 「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄(クロス王)を指します。島々の民は、その地獄が近づく(滅び)のを恐れたのです。
 「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って共通の偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全かつ強力な力になると考えたのです。これが法廷闘争における周辺諸国の立場です。しかし、この方法が、誤りであることは後に、明らかになります(41:29参照)。
 次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
 「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。彼等は、強制ではなく、自らの意思でその地の神を信じます。これ等、様々な理由によって、散らされた民の多くは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。彼らの生活は、苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ち続けます。それゆえの差別と迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、自らの意思で、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に、多くの障害を乗り越えて、努めます。そのため、神殿再建には長い時間がかかりました。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。それゆえに、「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
 「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。これが、イザヤ書の後半部分の特色です。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」と、それは、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
 「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
 「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
 あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。偶像の選びは、忌まわしいのです。
 「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は、選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
この章は、神か、偶像かの法廷での争いをテーマとしています。偶像を信仰するものは、この世には多くいます。しかし神である主は言います。「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。ここには法廷闘争の神の勝利が語られています。

令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな

2023年09月26日 | Weblog
イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな
 はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
 神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼らに見せつけ、我に従えと訴えます。しかし、彼らは、それに抵抗して異教の島々を統合し偶像を造り敵に抵抗します。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。 
 41章を要約すると次の3つに分類されます。
 1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が描かれ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
 2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
 3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
 41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。
「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。このときから、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、必ず実現するのです。
 「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄を指します。島々の民は、その地獄(クロス王)が近づく(滅び)のを恐れたのです。
 「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全な力になると考えたのです。しかし、この方法が、誤りであることは明らかになります。
 次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
 「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。これ等、様々な原因によって彼らは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ちます。それゆえの迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に努めます。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
 「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
 「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
 「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
 あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。
 「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ

2023年09月08日 | Weblog
イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ
 はじめに:これから後半(40~66章)に入ります。前半(1~39章)では、イスラエルに対する神のさばきが語られました。後半部分では神による慰めと将来への希望が語られます。前半ではイザヤが生きていた時代、すなわち、ヒゼキヤ王の時代を背景にして語られましたが、後半では、イザヤの時代より100年も先に起こるバビロンの捕囚からの解放と言う出来事が背景にあります。もちろん、イザヤもヒゼキヤ王もこの世には存在していません。それで後半はイザヤとは別人の作と言う説が有力です。しかし、ヨハネはその著「黙示録」の中で今よりはるかかなたにある「神の国」を預言しています。預言者は、神託を語る人です。預言者イザヤもその神託を語ったのです。神の言葉は、時と所を超えて、永遠、無限に真実です。それゆえ、後半部分もイザヤの作と見做すべきでしょう。
 紀元前586年にエルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ、捕囚の憂き目を見ます。やがてペルシャの王クロスが登場して、ユダの民を捕囚から解放します。ここでは主ご自身の民、すなわち、ユダヤ人に対する主の熱い思いが語られるだけでなく、その熱い思いがどのように実現するか、その担い手としてのメシアが初めて登場します。そこには、単なるバビロンの捕囚からの解放を超えた、神の壮大な終末的救いのご計画が預言されています。主がイスラエルの神となり、イスラエルは「神の選びの民」となるのです。こうして、イスラエルは、人類の祝福の基(源)となり「世界に献身した民族」になるのです。
 40章:預言者イザヤは言います「『慰めよ。慰めよ。私の民を』と、あなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けたと。』」。神の宣言は、懲らしめから慰めに代わります。「慰めよ」と言う言葉は、神への反逆へのさばきとして、一切のものを奪われ、捕囚の中におかれていたユダの民に対する神の手による赦しと解放の宣言です。一方的な恵みの宣言、福音を指します。その言葉はユダの民にとっては「慰め」となるのです。しかし、実際にユダの民を捕囚から解放したのは、ペルシャのクロス王です。クロス王は、神の御手と見做されています。主はユダの民をその罪ゆえに裁きました。しかしその裁きは、決して自己目的ではなかったのです。その罪を悔い改め、自分に立ち返るための手段としたのです。「その労苦は終わり、その労苦は償われ」て、いるのです。そして「そのすべての罪に引き換え、二倍ものものを主の手から受けたのです。
ここには、メシア(イエス・キリスト)による贖いの死があります。キリストは我々の罪を一身に背負って、十字架にかけられたのです。私たちの罪を贖い、回復し、祝福まで注いでくださったのです。二倍以上の恵みを我々は受け取っているのです。
 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒れ地で私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ』(40:3~5)」。バビロンから解放してくださった主が、ユダヤ人の罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。ここには福音伝道の働きが語られています。主の道を整えよと、「荒野で呼ばわる声」がします。荒野、荒れ地とは、いまだ主の恵みが及ばない異邦かつ異教人の地を指します。その地に、主の道を整えよと「呼ばわる声」がするのです。いわゆる異邦伝道です。それ妨げる障害物(山や川や谷)は取り除かれ主の道は整えられていきます。主の御口が語られたからです。主が、お命じになったからです。実際の道を整えよというよりも、神の民(イスラエル)が、神の前にへりくだって悔い改め、主を受け入れ、主と共に歩めと言っているのです。この声は、バプテスマのヨハネではないかといわれています。「私は預言者イザヤが言っているように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です(ヨハネ1:33)」。と、ヨハネは言っています。
「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『なんと呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人々は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは、永遠に立つ。』(40:4~8)」。形あるものは、どんなに華やかで力に満ちていてもいつかは滅びます。しかし形を持たない神の声は、永遠に立つのです。
 「シオンに良い知らせを伝えるものよ。高い山に上れ。エルサレムに良い知らせを伝えるものよ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』(40:9)」。良い知らせ(福音):救い主の到来、神の義の実現を意味します。見よ。あなたがたの神を:キリストの再臨を意味します。「神の国」が、近づいています。
「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主と共にある。その報酬は主の前にある(40:10)」。「福音」は神の国の到来を告げ知らせます。神の支配は真の平和をもたらします。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に小羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く(40:11)」。ここには「神の国」の持つ優しい姿が描かれています。主の力強く統べ治められる御腕は、同時に小羊を引き寄せ抱きしめ、お導きになる腕です。小羊とは、勿論、主を信じ敬う「神の子」たちです。
 これから神は、ご自分の偉大さ、威厳、威光、その超越した姿を描いていきます。そして、ご自分と偶像の神々との対比を行い、イスラエルの神がいかに優れているかを語ります。
 「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか(40:12)」。主は、ご自分を天地の創造者であり、支配者であることを明らかにします。この地のすべてのものは、主の手のひらにあり、転がされているのです。
 「だれが、主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主は誰と相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(40:13~14)」ここに書かれていることはすべて反語です。だれがは、だれも、です。主は万能です。だれも主に優って、教えたり授けたりは出来ないのです。ここには偶像批判があります。神の上に神を置いてはならないのです。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか(40:18)」。ここには偶像批判があります。「すべてこの世のものは、主の前では無いに等しく、主にとっては、むなしく形もないものとみなされるのです(40:15~17参照)」。
 神は、人類の最初の人アダムとエバを自分の似姿として造られました。しかし、彼らは、その罪により楽園を追われることによって、似姿であることをやめます。その末であるイスラエルの民も偶像を信じ、神に逆らい似姿にはなれなかったのです。人が似姿を回復するには、イエス・キリストの登場まで待たねばならないのです。イエスは聖処女マリヤと聖霊との間に生まれた永遠の祭司です。イエスは十字架の死を経験しますが、3日目に蘇り、今も生きており、我々に寄り添っています。永遠かつ無限の存在です。まさに神の似姿です。更に、イエスの贖いの死によって、人もその罪を赦されて「神の似姿」を回復します。
 ここに旧約聖書と新約聖書の違いを見ることができます。旧約聖書は裁きの書であり、新約聖書は救いの書であると言われています。 主は、永遠かつ無限の存在です。神とはあくまでも霊的な存在であって、その姿を見ることも触ることもできない隠れた存在です。聖書は言います。「神は自分の似姿として、人を造られた」と。しかし、神は姿をもたない霊的な存在です。そこで、人は逆に人の姿の中に神を見ます。その結果、「人の似姿が神」となります。恐れ多いことです。ここに「偶像」を生み出す基礎があります。偶像の作者たちは、具体的に自分のイメージに基づいて、想像上の「神」を、目に見える形(物)に造りあげます。しかし、形あるものはどんなに豪華絢爛、堅牢であっても、必ず滅びます。有限かつ儚い存在です(40:18~20参照)」。そこに偶像(物)と、神(霊)との決定的な違いがあります。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ(40:8)」。のです。草や花は「物=偶像」です。しかし、言葉は形を持たない「霊=神」です。
 次にイザヤは、神とは何かとその存在を明らかにしていきます。
 「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋のうえに住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる(40:21~22)」「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさを虚しいものにされる(40:23)」。ここには主の創造性が語られています。主は天地の創造者です。それ以外のものは、君主も裁き司も主によって造られその支配下にあります。主は、天に住まわれ、そこより地にある人を見守っておられるのです。
 「かれらが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす(40;24)。」金銀財宝を使って。やっと造られた偶像は、神の前には太刀打ちできません。すべて滅ぼされ、嵐の前の藁のように散らされます。
 「『それなのに、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか』と聖なる方は仰せられる(40:25)」。反逆する偶像を滅ぼされる主は、自分に較べうる偶像は存在しないと威厳を示し、無比性を明らかにします。イスラエルの神に優る神は存在しないのです。ここには偶像を造ることの愚かしさが語られています。「神の似姿」とは、あくまでも精霊であって、物であってはならないのです。
 「目を高く上げ、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つその名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも洩れるものはない(40:26)」。だれが星の数ほどある万象を数えて呼び出し、その膨大なものの一つ一つを造り、数えて、名をつけて呼ばれているかとイザヤは問うています。それはもちろん、神である主です。このように、この方は精力に満ち、その力は強く、なされることに洩れることはないのです。ここには神の至高性と全能性が語られています。
 「ヤコブよ。なぜ言うのか、イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と(40:27)」。イスラエルは、アッシリヤ、バビロンに侵攻され、捕らわれ、捕囚と、災厄に犯され続けています。イスラエルの民は言います「我々の神なら、なぜ我々を助けようとしないのか」と。しかし、イスラエルの民は、神に選ばれた契約の民です。神がイスラエルの民を見捨てるわけはないのです。
 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力の無い者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない(40:26~31)」。ここには、神の永遠性、創造性、万能性が語られています。イスラエルの民は、当然救われてしかるべきなのです。と言うことは、イスラエルの受けた災厄の原因は、主の側にではなく、イスラエルの側にあることを示しています。神は決して選ばれた民を見捨てません。主はイスラエルに手を差し伸べているのです。「主を待ち望む者は新しく力を得る」のです。しかし、イスラエルの民は、偶像を信じ、主の差し伸べる手を拒否したのです。災厄からの救いは、イスラエルの民の悔い改めと、神に立ち返ることにあるのです。神はお優しい方です。自分を信じ、敬う者には、鷲のように翼をかって上ることを赦し、走ってもたゆまず疲れることのない体を、お与えになるのです。神は自分を信じる者を堅くお守りになるのです。その彼方に「神の国」を見ています。神の国の住人は、勿論、回復した「神の似姿」です。
令和5年10月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

  











イザヤ書16 38~39章

2023年07月30日 | Weblog
 イザヤ書XVI 38~39章
 はじめに;イザヤ書は39章をもって、前半部分を終わります。イザヤはこの部分で祭儀偏重の宗教や社会の不義を糾弾し、強大国アッシリヤやエジプトへのヒゼキヤ王の迎合政策を批判しました。その預言を集めたものが、この前半部分です。神、主のさばきが語られています。後のキリスト教において、彼の預言したメシア(理想の王)の到来は、イエス・キリストの到来と結びつけられました。後半部分は2つに分けられます。2部(40~54章)においてはバビロンに捕囚されたユダヤ人に解放を告げ、第3部(55~66章)では解放後の神殿復興が語られています。前半部分とは異なって、後半部分には慰めがあります。
 ヒゼキヤ王の履歴
BC715年 ヒゼキヤ王の14年
     アッシリヤの王セナケリブの来襲(1)
1, ヒゼキヤ王、貢物でアッシリヤに撤退を懇願する。
2, アッシリヤ、これに同意するも約束を破りエルサレムを包囲する。
3, ヒゼキヤ王エジプトとバビロンに支援を請う。
4, ヒゼキヤ王籠城のため地下水道(全長533m)を建設。
BC701年アッシリヤのセナケリブ王の来襲(2)
1, 将軍ラブ・シャケがエルサレムを包囲
2, ヒゼキヤ王[死に至る病]に犯される。回復のための祈り、奇蹟の回復。15年の延命。
3, アッシリヤ軍18万5千人一夜にして壊滅
4, バビロンからの使節団がエルサレムに到着。(39章)
5, ヒゼキヤ王の子マナセ(悪王)即位。(39章)
BC686年 ヒゼキヤ王の死
38章:「死に至る病」 「そのころ、ヒゼキヤは病にかかって死にかかっていた。そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。『主はこう仰せられます。あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』(38:1)」。なぜヒゼキヤ王は、「死に至る病」にかかったのでしょうか。ヒゼキヤはエルサレムがアッシリヤに囲まれたとき、神にでは無く、アッシリヤに多くの貢物を捧げ助命嘆願をしています。神は怒り、その約束をアッシリヤに破らせ、さらに「死に至る病」を与えたと言えるでしょう。自分の罪を悔い改め「そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って言った。『ああ。主よ。どうか思い出してください。私が誠を尽くし全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたが良いと思われることを行ってきたことを。』こうしてヒゼキヤは大声で泣いた(38:2~3)」。壁に向かって:神、主に集中して。真の祈り:神、主に向かうこと。神を信頼して神と共に歩むこと。ヒゼキヤは自分の信仰を強調して、ただひたすら神、主のあわれみにすがったのです。
 神はお優しいお方です。この祈りに応えられました。このときイザヤは、主の言葉を聞きます。「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。わたしはアッシリヤの手から、あなたとこの町(エルサレム)を救い出し、この町を守る。』これがあなたへの主からのしるしです。主は、約束されたこのことを成就されます。(38:5~7)」。ヒゼキヤは神の恵みにより15年、その寿命が延ばされました。ヒゼキヤの死はBC686年です。これは歴史的事実です。差し引きするとBC701年に「死に至る病」かかったことになります。このときエルサレムはアッシリヤの包囲下にありました。ヒゼキヤは病と敵の包囲という2重の災いに悩まされていたのです。このとき神の奇跡が起こります。アッシリヤは15万5千人の死者を残して撤退します。ヒゼキヤの病は癒され、15年間その命は伸ばされました。神の預言は実現し、その約束は、成就したのです。
 38章の10節から20節までには、ヒゼキヤ王が「死に至る病」に犯され、それからの回復に至るまでの苦しみと、回復の喜びが詠われています。
 その歌は3つに分けられます。
1, 命が断ち切られることの痛み(38:9~14)。
2, 命が断ち切られることの覚悟(38:15~16)。
3, 命が延ばされたことの感謝(38:17~20)。
1の9~13節までは、38章の1~2節までが対応します。イザヤから「死に至る病い」を宣告されたヒゼキヤ王は「人生の半ばで黄泉の門に入る」と、その命の儚さを嘆き、悲しみます。さらに「私は主を見ない」と、自分の罪を顧み、主が自分の前から隠れてしまったことを恥じています。そして言います「私は朝まで叫びました。主は雄獅子のように私の全ての骨を砕かれます。あなたは、昼も夜も、私を全く捨ておかれます(38:13)」それゆえ「ツバメやツルのように、私は泣き、鳩のように、呻きました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ。私は虐げられています。私の保証人になってください(38::14)」。私の保証人になる:ヒゼキヤは、死に瀕して、自分は天(神)から捨てられていると実感しています。自分が贖われ、救われるためには、天と地の間にいる仲裁者、保証人が必要なのです。その方とは、メシア(イエス・キリスト)です。その方の愛情が必要なのです。
 その後に、ヒゼキヤは、その罪を悔い改め主と共に歩む覚悟を表明しています。それは38章の3節が対応しています。
「主が、私に語り、主が自ら行われたことに、何を私が語れましょう(38:15A参照)」と。ヒゼキヤは、主に対する全き、跪拝を表明しています。「私は私の全ての年月、私の魂の苦しみのために、静かに歩みます。(38:15B)」。ヒゼキヤは主から与えられた二つの苦難(「死に至る病」とアッシリヤの侵攻)を神からのさばきと素直に認め、悔い改めて神に帰り、神と共に静かに歩むことを誓います。「主よ。これらによって人は生きるのです。私の息の命も、すべてこれに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください(38:16)」。神、主に対する全面的な信頼が表明されています。主はお優しい方です。自分を信頼するものの願いは、必ず聞き届けてくださるのです。その後、ヒゼヤには、病の奇蹟の回復が与えられ、更に15年の命が増し加えられます。それを感謝してヒゼキヤは神を賛美します。『ああ、私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。あなたは滅びの穴から、わたしの魂を引き戻されました。あなたは私の全ての罪を、あなたの後ろに投げやられました(38:17)』。苦しみを経た人間にしか、真の平安は訪れないのです。主はそれをよくご存じなのです。「黄泉はあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません(38:18)」。「罪からくる報酬は死です』霊的な死は自分の罪ゆえに体験するものです。
それゆえ、死者は主のまことを期待することは出来ないのです。「生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のようにあなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます(38:19)」。死からの回復と15年の延命に対する主へのヒゼキヤの感謝が歌われています。「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴を奏でよう(38:20)」主に対する賛歌であり賛美が、語られています。
「イザヤは言った。『一塊の干しいちじくを持ってこさせ、腫物のうえに塗り付けなさい。そうすれば治ります』(38:21)」と。一塊の干しいちじくとは神、主のことです。腫物とは罪です。罪びとが、その罪を認めて、ひたすら神にひれ伏すとき、神は、その癒しの御業を行われるのです。「ヒゼキヤは言った『私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。』(38:22)」と。そのしるしとは、偶像に頼らず、人に頼らず、真の神に頼ることです。
 次の39章ではヒゼキヤ王は自らの罪でより大きな試練を抱え込みます。その様子が語られます。
39章:「そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが元気になった。と言うことを聞いたからである。(39:1)」。病気の回復を祝ってバビロンから使者が来ます。このころのバビロンは、まだ小国でした。しかし、力をつけている国であり、アッシリヤに代わって超大国へと変貌する片鱗を示していました。アッシリヤに反逆して、何度も戦いを挑んでいます。しかし、そのたびに退けられています。アッシリヤは、エルサレムから撤退したとはいえ滅びたわけではありません。周辺諸国に対して依然として脅威を与えていました。バビロンからの使者は単にヒゼキヤ王との間に友好関係を築くことだけが目的ではなく同盟関係を築いてアッシリヤと対抗することにあったのです。バビロンにとっては、ヒゼキヤの「死に至る病」からの回復と、アッシリヤのエルサレムからの撤退という二つの奇跡は、神の御業でしたが、異教の国バビロンには、それは彼らの理解を超えていました。ヒゼキヤ自身の力の結果と考えたのです。それで、同盟関係を結ぶにふさわしい国と見做したのです。「ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、一切の武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった(39:2)」。ヒゼキヤは神に対して罪を犯します。高慢となり神の前で謙虚になることを忘れ、自分の力と富を誇り、その富を、使者に見せびらかします。「そこで預言者イザヤがヒゼキヤのもとに来て彼に尋ねた。『あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。』ヒゼキヤは応えた。『遠い国、バビロンから、私のところに来たのです』(39:3)」。そして言います。「私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は、一つもありません。」と。おそらく国家機密に属するものまで公開したと思われます。そこにはバビロンに対する油断があったと言えるでしょう。バビロンが同盟者から進攻者に代わったとき、この知識は攻撃の武器となるのです。
 「すると、イザヤはヒゼキヤに言った。『万軍の主の言葉を聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、貯えてきたものがすべて、バビロンに運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。』(39:6~7)」と。バビロンによる略奪と、捕囚について預言しています。これは、あくまでも預言であってバビロンによるイスラエルの滅亡と捕囚のあった時代には、既にイザヤも、ヒデキヤも亡くなっていてこの世にはいません。このように、ヒゼキヤは神の前にひれ伏し信仰の人になったにも拘らず、バビロンと手を組み、エルサレムを裏切り、神をも裏切ります。滅びの原因を造ったのは彼です。当然、罰せられてしかるべきです。しかし、そのさばきは、後の世に延期されたのです。「ヒゼキヤはイザヤに言った。『あなたが告げてくれた主の言葉はありがたい。』彼は自分が生きている間は、平和で安全であろう、と思ったからである(39:8)」。事実、かれは生きている間は、神よりその罪を問われていません。ヒゼキヤは、「主の言葉はありがたい」と述べています。そこには、悔い改めと神への立ち返りがあります。40章からは後半部分に入ります。神はイスラエルに恵みを与えます。その橋渡しをしたのが、この節です。
令和5年9月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会</span>

イザヤ書⒖ 36~37章「信頼」と「救出」

2023年07月08日 | Weblog
イザヤ書XV 36~37章「信頼」と「救出」
はじめに:イスラエルの王エラの子ホセヤの第3年に、南ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となります。彼はイスラエルの神・主に信頼を寄せていました。そして、後にも先にもユダの王たちの中で彼ほどの者は、誰もいませんでした。彼は主に堅くすがって離れることがなかったのです。ヒゼキヤ王はイスラエルの危機に際して、「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は決してアッシリヤの手に渡されることはない。」と語って、イスラエルの民に、主への信仰を勧めています。アッシリヤに滅ぼされた国々は、偶像礼拝の国であり、人の手の細工、木や石に過ぎない偶像を信じ、真の神を忘れていました。このとき、神は怒り、アッシリヤを使って、これらの国を滅ぼしたのです。このとき、イスラエルの民も罪に満ちていました。しかし、彼らの中には、主に選ばれた「残りの者」がいました。主は、一人でも自分を信じる者がいる限り、その民を滅ぼすことはありません。「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしの僕ダビデのために(37~35)」。アッシリヤは、この主の力によって、エルサレムの包囲を解かざるを得ず、み使いに殺害された18万8千人の遺体を残して、この町から撤退しました。撤退したセナケブリは国に帰り、その地で、彼は暗殺されます。主は自分に反抗する罪びとを決してお赦しにならないのです。ここに神・主の正義を、私は感じました。
36及び37章を読む方は、併せてⅡ列王記18章1節~20章6節を読んでください。ほぼ同じ内容が綴られています。しかし1点だけ異なっています。Ⅱ列王記18章14~16節はイザヤ書では省略されています。イザヤ書36章の1節から2節の間に入るべき文章です。そこにはヒデキヤ王がアッシリヤに無条件降伏し、金銀財宝を、講和を求めて治めたことが記されています。しかし、アッシリヤは、この平和交渉を裏切って、エルサレムを包囲します。
36章:「ヒゼキヤの王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全ての城壁のある町々を攻めて、これを取った(36:1)」。このときヒゼキヤ王は講和を求めて貢納金を治めています。先に述べた通りです。
「アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍を付けてラキシュからエルサレムへ、(約束を破って)ヒゼキヤ王のところに送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った(36:2)」。エルサレムは包囲されたのです。1節と2節の間には12~13年の経過があったと言われています。「そこで、ヒルキヤの子である宮内庁長官エルヤキム、書記セブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った(36:3)」。「ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。『いったい、お前は何により頼んでいるのか』(36:4)』と、お前たちがより頼んでいるもの、エジプト、ヒゼキヤ王、ユダの戦力、神々のうち、だれが自分の国をアッシリヤの王セナケリブから救い出したか。全ては私にとっては、取るに足りないものだ。これらの全ては「お前たちを救い出すことは出来ない。」と、これらの「頼りにするもの」を、民の心から、引き離そうとしています。そして自分こそ救い主だと、イスラエルの民の味方を装います。「アルム語で語れと言う3人の高官の言葉に逆らってユダの言葉へブル語で語ります(36:11~12参照)」。また、「私と和を結び、わたしに降参せよ。そうすれば命と生活は保障しよう。また、移された地での快適な生活も保障しよう。(36:16~17)」と、優しさを装います。しかしそれは民の心に寄り添っているかのように見えて、これまで進攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかに偽りであり、欺瞞です。
頼りにならない者の筆頭に挙げられたものは、エジプトです。エジプトに関しては、「この国は裏切りを常とし(36:6参照)」おり、「おまえは戦車と騎兵のことでエジプトにより頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来の一人の総督をさえ撃退することは出来ないのだ(36:9)」と、これを貶め、自分の力を誇ります。実際に、セナケリブはエジプトを滅ぼしています。
次は、ヒデキヤ王です。「王はこういわれる。ヒデキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことは出来ない(36:14)」。とラブ・シャケは、ヒゼキヤの頼りなさを列挙し、自分の力を誇示します。「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は、決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。………(36:15)」。「ヒゼキヤの言うことを聞くな………(36:16)」「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ………(36:16A)」。このように、ヒゼキヤ王の言葉は、あくまでもポジティブであり、肯定的で希望に満ち、信頼に足るものであるのに対して、それに続くラブ・シャケの言葉はネガティブであり、否定的であり罪に、満ちています。これは、主が彼(ヒゼキヤ)と共にあり、明日の祝福を暗示しているのです。ここには、天なる神と地なる悪魔の対比があります。
最後に神についてです。アッシリヤは多神教の国です。それが一つの神のみを信仰するユダは、霊的に赦せないのです。彼らにとっては、自分たちの神々を無視し、唯一の神を祀り、「我々の神、主により頼め」と言って、他の神々を排除し、『この祭壇の前で拝め』と言うのは、自分たちの神に対する冒涜なのです(36:7参照)。それで、アッシリヤは、主を信じる国(イスラエル)を、その神と共に滅ぼそうと決心したのです。
「今、私(セナケリブ)がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか、主が私に『この国に攻め上ってこれを滅ぼせ』と言われたのだ(36:10)」と、エルサレムへの進攻を正当化しています。もしかしたら罪に満ちたエルサレムを罰するために、アッシリヤを神は使われたのかもしれません。
「………。これらの国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36;18)」「ハマテやアルバデの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。(36:19)」これらの国の神々は人の細工、木や石から作られた偽の神(偶像)です。いずれ、滅びる運命にあります。「………。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか(36:20)」。」と自分の力をセナケリブは、主に勝るものとし、主の上に置き、その力を誇示しています。しかし、主は滅びることのない永遠のお方です。天におわすと同時に、われわれと共におられます。アッシリヤはそのことを知りません。イスラエルに開城と降伏を勧告します。
「しかし、人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが、王の命令だったからである。(36:21)」。アッシリヤによるエルサレムの包囲と言うこの国家的危機に際して、王と民との間に揺るぎの無い信頼関係を見ることができます。それは主と民との信頼関係にと進化していきます。
さらに、神々に関しては「お前たちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出して下さると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36:18)」。「主がエルサレムを私(セナケリブ)の手から救い出すとでも言うのか(36:20B)」。と主を他の神々と同一に扱います。
3人の政府高は民の理解しないアラム語で語ってほしいとラブ・シャケに要求します。それに対して、彼は、イスラエルの民の理解できるユダの言葉へブル後で語ります。しかし、それは民の心に寄り添っているかのように見えても欺瞞と偽りに満ちています。これまで侵攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかです。だからこそ、「これを聞いた人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが王(ヒゼキヤ)の命令だったからである(36:21)」。ここに民とヒゼキヤ王、または、神との間の霊的一致を見ることができます。
37章:滅亡の危機にあったイスラエルにアッシリヤは開城と降伏を求めました。イスラエルの高官たちは、これを拒否し「自分たちの衣を引き裂いてヒデキヤのもとに行きラブ・シャケの言葉を告げた(36;22参照)」のです。「ヒデキヤ王はこれを聞いて自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った(37:1)」のです。「衣を裂く」とは、悲しみや、酷い辛さなどを表現する言葉で、「荒布を身に纏う」とは、自分の心の痛みを体で表現するときに使う言葉です。「主の宮」に入るものは、謙虚に自分の弱さを表現する必要があるからです。ヒデキヤ王が第1に訪れたところは「主の宮」でした。「主の宮」とは、主を信頼し、崇める者が、悩みを打ち明け、主の言葉を、聞くことのできる場所です。そして第2にしたことは、預言者イザヤのもとに政府の高官たちを遣わしたことです。預言者は主の言葉を預かって、それを民に伝える役割を担っています。ヒゼキヤ王はその言葉を聞きたいと願ったのです。彼らはヒゼキヤの言葉を次のようにイザヤに伝えます。「きょうは苦難と懲らしめと侮辱の日です。子供が生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです。(37;3)」と。アッシリヤに囲まれ、滅びは直前に迫っていました。その苦しみの中にあって、何もできず、脱力感に苛まれている状況が描かれています。それに反して、アッシリヤは、イスラエルの神・主を自分の下に置き、「おまえたちの神・主は私に勝つことは出来ない」と、セナケリブは神を謗り、自分の力を誇ります。イスラエルはその罪ゆえ(エジプトにより頼むなど)に罰せられていたのですが、「イスラエルにまだいる「残りの者」のために、祈りを捧げてほしい」と言う高官たちの言葉に応じて、イザヤは、神の言葉として「彼らの謗りの言葉を恐れるな」と、励まします。主は、一転して、その裁きの対象をイスラエルからアッシリヤに変え、その王セナケリブの滅亡を預言します(37:7参照)」。
ラブ・シャケはユダのヒゼキヤ王に城壁の開門と降伏を勧めます。しかし、彼はそれを拒否します。これまで沈黙を守っていたイスラエルの神が、動き始めたからです(37:7参照)」。アッシリヤの軍隊と戦う姿勢を明らかにします。ラブ・シャケは闘うという選択を避け、エルサレムの包囲を解きエルサレムを退き、リブナを攻めていたセナケリブと合流します。クシュ(エチオピヤ)の王ティルハカもアッシリヤと共にイスラエルと戦うことに同意しています。これに力を得たセナケリブは、ヒゼキヤのもとに使者を送り「おまえはお前の神に信を置き、主の守りがあるから敗れることはない」と言っているが、ごまかされてはならない」「私が、私に反逆した国々を滅ぼしたことを知らなければならない」「それらの国々が信じる神が、それぞれの国を救ったか。同様に、お前の神も、私からお前を救い出すことは出来ない」。と傲慢にも豪語し、自分を神と同等、あるいはそれ以上においています。神の最も嫌う態度です。「実るほど、首を垂れる稲穂かな」。力あるものは謙虚であらねばならないのです。
「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上っていって、それを主の前に広げた。(37:14)」。「ヒゼキヤは主に祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ、御耳を傾けて聞いてください。主よ、御目を開いてご覧ください。生ける神を謗るために言ってよこしたセナケリブの言葉をみな聞いてください。主よ、アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地の全ての王国は、あなたが主であることを知るでしょう』」(37:15~20)。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたが、アッシリヤの王セナケリブついて、私に祈ったことを、わたしは聞いた』(37:21)」と。
ケルビム:旧約聖書で神殿の奉仕者としての天使として考えられています。人間、獅子、牡牛、鷲の顔と4枚の翼を付けた姿で現わされています。
ただ、あなただけが神です:神の唯一性、至高性、無比性、永遠性を現しています。そこには滅びはありません。そこが、人の手の細工、木や石に過ぎない偽の神=偶像と異なっています。偶像はいつか滅びます。アッシリヤが滅ぼし「火に投げ込んだ」のは、この偽の神=偶像です。
ヒゼキヤの祈りの目的は、すべての国々に、主の御名があがめられることです。この当時、異国では、異教の神々があがめられていました。神の力でイスラエルが救われれば、彼の目的は達成されるのです。
「あなたが、アッシリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったことをわたしは聞いた。(37:21)」。神、主は、「信仰の人」の祈りには必ず応えてくださいます。主は、ヒゼキヤの祈りに対して、イザヤを通して答えます。「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。『彼はこの町に侵入しない。またこの町に矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いて、これを攻めることもない。(37:33)』「彼はもと来た道を引き返し、この町に入らない。――主の御告げ――わたしは、この町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」」。
「主のみ使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を撃ち殺した。人びとが翌朝早く起きてみると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは、立ち去り、帰ってニネベに住んだ(37:36~37)」。セナケリブは自分の神ニスロクの宮の前で拝んでいるとき2人の息子に殺されます。自分の神の前で殺されるとは皮肉なことです。
平成5年7月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書:⒕33~35章 世界を変える主

2023年05月30日 | Weblog
 イザヤ書⒕ 33~35章 世界を変える主
 はじめに:今回のリポートは33章から35章までです。イザヤ書前半(1章~39章)のクライマックスと言われています。その内容は、33章(1~24節)は「主の立ち上がり」であり、34章(1~27節)は「国々に対する聖絶」であり、35章(1~10節)は「主の償い」です。
 33章:「ああ。自分は踏みにじらなかったのに、人を踏みにじり。自分は裏切らなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる(33:1)」。あなたとはアッシリヤの王センケナブリを指します。アッシリヤが周辺諸国に侵攻し、これを踏みにじったのは決して防衛のためではなく、自分の欲望(略奪)のためだったのです。戦いに勝利しその戦いをやめたときに破綻します。侵略と言う罪ゆえに、神のさばきを受けるのです。しかしこれはあくまでもイザヤの預言であって、この時点では、まだユダはアッシリヤの圧政下にあります。それゆえ神に祈ります。「主よ。私たちをあわれんでください。私たちは、あなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕になり、苦難の時の私たちの救いになってください(33:2)」と。ユダの圧政からの解放をイザヤは主に求めます。預言の実現を待ち望みます。主は「神の子」の望みを必ず叶えてくださるお方だからです。
 「騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。(33:3)」。「あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる(33:4)」「主は、いと高き方で、高いところに住み、シオンを公正と正義で満たされる(33:5)」。「騒ぎ」とは、主が動くことで、周辺諸国にざわめきが生じることを現しています。彼らは災厄を恐れて祖国を捨て逃亡します。逃亡するとき。いなごが食物を食い尽くすように略奪を繰り返し、後には何も残しません。これがアッシリヤの成れの果てです。主はアッシリヤを完全に滅ぼします。アッシリヤの力を上回る力を、主は働かされるのです。主に勝る力はこの世には存在しません。
「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが救いの富である。主を恐れることが、その財産である(33:6)」。主を恐れることとは、主の存在を認め、この方を崇め、敬い、跪いて礼拝することです。あなたの時代は堅く立つ:不安と激動の時代にあって、信頼できるのは主だけであり、この主を恐れることが絶対条件であり、豊かさの源です。主は、あなたの時代を堅く支えておられるのです。飢え渇いている人はもはや存在していません。キリスト教による知識:聖書、または御霊によってあたえられた成果を現します。知恵:知識に基づいたふさわしい行動を指します。道理を判断し処理していく心の働き、筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力及び行動です。主は、聖書を通じて「救い」についてたくさんの知識を語っており、またそれにふさわしい行動、つまり「知恵」についても語っておられます。
義に飢え渇いている人にとって、それが満たされる時代がやって来ます。堅く立つ時代です。それは、「神の御国」かもしれません。主は私たちに大切な言葉を二つ与えてくださいました。一つは「知識と知恵」で、もう一つは「神を恐れる」ことです。主を敬い、恐れかしこむことです。単なる知識や知恵ではなく、主に対する畏敬の念を持っているからこそ、その「知恵や知識」が生かされるのです。「聖書」は、この二つ要素が、凝縮した書といって良いでしょう。
「見よ。彼らの勇士は、ちまたで叫び、平和に使者たちは激しく泣く(33:7)」。アッシリヤがユダに攻め込もうとしているとき、ユダのヒゼキヤ王は、莫大な宝石財宝を使って、これを宥めようとしました。これと戦うにはユダはあまりにも弱小だったからです。アッシリヤはこれを受け取ったにも拘らず、約束を破ってユダを包囲したのです。ユダはこの違約に驚き、怒り、悲しみ、勇士たちは怒り叫び、交渉にあたった平和の使者たちは、泣き叫んだのです。
「大路は荒れ果て、道行くものは途絶え、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない(33:8)」。大路(幹線道路)はアッシリヤによって破壊され通行不能となり、道行く者はなくなります。これが違約の結果であり、町々はユダの民によって捨てられ、避難民があふれ各地に散らされるのです。
 「国は喪に服し、しおれ、レバノンは辱めを受けて、しなび、シャロンは荒れ地のようになり、パシャンも、カルメルも葉を振り落とす(33:9)」。イザヤはイスラエル全体を花に例え、その花がしおれていくようにこの4つの美しい地域がアッシリヤによって枯れ果てて行く様子を、描いています。
 「『今、わたしは立ち上がる』と主は仰せられる。『今、わたしは自分を高め、今、崇められるようにしよう』(33:10)」。主が立ち上がられる時が来たのです。「反逆の子ら」ユダに、神の力を見せつけ、自分への信仰を促し、神に立ち返ることを求めているのです。それと同時にユダを起点(基点)にして、全世界に自分の栄光を広げることを願ってもいるのです。主は高き方であり、高き所におられて全世界を見つめておられるのです。これが神のご計画であり、その目は常に「神の国」を見つめているのです。今、神に立ち返ったユダの民に神は恵みを与えます。ユダを包囲していた1万8千人のアッシリヤの兵士が殺害されます。アッシリヤは包囲を解いて撤退します。
 「遠くの者よ。私のしたことを聞け、近くの者よ、わたしの力を知れ(33:13)」。
 遠くのもの:アッシリヤの民、異邦に住む異教の人。近くのもの:シオンの人々、ユダの民、神に反逆する人々です。主はそれらの民に「私の力を知れ」と、彼らを裁かれるのです。
 「罪びとたちは、シオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうちだれが焼き尽くす火に耐えられよう』。『私たちのうち、だれが、とこしえに燃える炉に耐えられよう』(33~14)」。罪びとたち、神を敬わない者とは、アッシリヤの侵攻を前にして、神にすがるのではなく、人の力、ここではエジプトを頼りにしたユダの民を指しています。彼らは「トフェテ」(30:33参照)に投げ入れられます。トフェテとは「焼き場」「ケヘナ」「地獄」のことです。永遠に消えることのない火の燃える深い穴です。だれもその火に耐えられない永遠の滅びの場です。
 「正義を行うもの、まっすぐに語る者、強奪による利得を避ける者、手を振って賄賂をとらない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者(33:15)」。ここには義への招きがあります。正しく生きることの見本が与えられています。
「このような人は、高いところに住み、その砦は、岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される(33:16)」。正しく生きる者は、敵から守られる高所(砦)に住み、安心、安全な場所が確保されています。日ごとの糧(パンや水)も用意されています。身の安全と生活の必要が、主にあって満たされるのです。
主が地上に再臨されて、神の国が立てられます。神の国の様子が預言されています。
「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る{33:17}」。神の国は、もはやイスラエルを超えています。世界を覆います。それを統治しているのは、麗しい王イエス・キリストです。それは「新しいエルサレム」です。「神の国」は新しく生まれ変わったのです。そこには悪魔(蛇)は存在しません。「千年王国」に隠されていた悪魔はその後、滅ぼされます。
「あなたの心は恐ろしかった事どもを思い起こす。数えた者はどこへ行ったのか。測ったものはどこに行ったのか。やぐらを数えた者はどこに行ったのか(33:18)」ここにはアッシリヤの恐怖に満ちた占領政策からの解放が語られています。その政策はどこへ行ったのか、と。神によってアッシリヤは滅ぼされたのです。アッシリヤは「神に反逆するもの」を象徴しています。
「あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばは、わかりにくい。その舌はどもって、わけが分からない(33:19)」。偶像崇拝に犯されわけのわからない言葉を発する横柄な民は、滅ぼされて、もはや存在していません。
「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄の杭はとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない(33:20)」新しいエルサレムが描かれています。麗しい王のつぎに、その王の住む祝祭の都シオンが描かれます。主を祝うことがこの都の特徴です。この都は、これまで約束された安息、安全、安定の全てを持っています。これをイザヤは「その鉄の杭はとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない」と表現しています。
「しかも、そこには威厳のある主が、私たちと共におられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船も、そこを通わず、大船もそこを通らない(33:21)」。そことは新しいエルサレムです。「神の国」です。そこは神と私たちがともに住む素敵な場所で、そこには、大きな川があり、もはや、罪に満ちた商船も軍船も、通うことはないのです。
「まことに、主は私たちを裁く方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる(33:22)」。ここには三権の分立が描かれています。「裁き」とは司法であり、「立法者」とは立法を現し、「王」とは行政です。この三権を主はまとめて統治されるのです。権力の集中です。まさに「独裁」です。しかし、この独裁の中には、麗しい「知恵」と「知識」が隠されています。主の統治に誤りはありません。主は、私たちの救済者です。
「あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は結び付けることができず、帆は張ることもできない。その時、おびただしい分捕り物や、獲物は分け取られ、足のなえた者も、獲物をかすめる(33:23)」。あなたとは「主に反逆する者」です。その体は再生が不能なほど破壊され、その場から、おびただしい分捕り物や、獲物は略奪され、弱者もその略奪に加わることができます。神の国にはもはや罪びとは存在しません。
「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される(33:24)」。ここでの「病気」とは「罪」を現し、その場所には「神に逆らうもの」は存在せず、その民は、赦されているのです。
 34章:「国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地とそれに満つる者、世界と、そこから生え出たすべての者よ、聞け(34:1)」。主は、次から始まる、すべての民が聞かねばならない大事なメッセージを語っています。主の視点は、イスラエルを超えて全世界広げられています。そこには、「神の国」が想定されています。
「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ(34:2)」。激しい神の怒りや憤りが「神に逆らう民」に向けられています。これは「千年王国」の後に来る「ハルマゲドンの戦い」を現しています。この戦いで「神に逆らう民」は完全に滅ぼされます。千年の間、眠っていた悪魔も共に滅びます。これは神による最終的な戦いであり、さばきです。
『彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。(34;;3)』。神の激しい怒りは、虐殺、放置された遺体、血にまみれた山々、と地上を恐怖に満ちた状況に変えていきます。
「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちるぶどうの木から葉が枯れ落ちるように、いちじくの木から葉が枯れ落ちるように(34:4)」。地上ばかりでなく、天においてもその裁きは現わされます。それは「黙示録」の終末の状況を思い起こさせます。イザヤは、やがて来る神の審判を幻の中に見ているのです。アダムが罪(原罪)を犯したとき以来、地は呪われたものになったのです。原罪からの解放は、神にしかできません。イザヤはイスラエルに対する神の最後の審判の中に神の正義を見ているのです。
「天では、わたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ、これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ(34:5)」。「主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊や山羊の血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主が、ボツラで生贄を屠りエドムの血で大虐殺をされるからだ(34;6)」。イザヤは、一般的な裁きから、個別な裁きエドムに対する裁きを取り上げています。エドムは神の民イスラエルに敵対するものの象徴として描かれています。ボツラは、エドムの重要な要塞都市です。それが主の報復に会い、その民は大虐殺されます。結果、エドムは壊滅して野獣の棲み家となります。エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称であり、同族でありながらイスラエルに敵対し、戦い、何度も略奪を繰り返し、イスラエルを苦しめています。主はこれに怒り、聖絶すると定められたのです。
『野牛は彼らと共に、雄牛は荒馬と共に倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える(34:7)』。牛や羊を生贄に捧げるとき、その行為は非常に血なまぐさいものですが、主は彼らが死体となって倒れていくさまを、動物の生贄に例えています。
「これは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である(34:8)」。シオン(エルサレム)は、モアブに苦しめられていました。そこで神の子を救うために主は、シオンの訴えに応えてその仇を反し、復讐されたのです。その日をイザヤは「復讐の日」と言っています。
「エドムの川はピッチ(樹脂)に、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる(34:9」。「それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって廃墟となり、だれもそこを通る者はいない。(34:10)」。エドムを流れる川はピッチになり、その土は変わって硫黄となって燃え上ります。その煙は永久に立ち上り、エドムの地は焼け野原となって荒れ廃れ、人はいなくなります。
エドムの地は廃墟となり、そこを統治していた王、首長たちは逃げ去り、宮殿や要塞は雑草におおわれ、猛禽類の棲家になります。人にいない虚無の空間が生まれ時間は止まります。これがかつて豪華を誇っていたエドムの成れの果てです。(34:11~15参照)。
「主の書物(聖書)を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠く者はいない。それは主の口が、これを命じ、主の御霊がこれを集めたからである。(34:16)」。聖書を詳しく読むとき、その預言に外れたものはないことに気づきます。聖書のみ言葉は主が語り、その言葉を御霊(精霊)が集められ、整えられたものであり、聖書として完成されたのです。
「主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。(34:17)」。主は、イスラエルの民(12部族、第二世代)にカナンの地をアブラハム契約に基づいて分け与えました。彼らは、この地に住むことがとこしえに赦されたのです。ここには「神の国」が預言されています。
美しく輝く虹(恵み)は、雨(災厄)の後に現れます。しかし自分の力で輝くのではなく、太陽(神)の光を必要とします。しかし、イスラエルの民は、これを理解できません。いつまでも罪びとです。
恵みの神はその力(愛)を見せます。それが35章です。「裁きの神は」は同時に「愛の神」です。
 5章:この章でイザヤは主がこの地を完全に掌握(清めた)したのちに、ご自分のみ心にかなった世界に変えていく様子を描いています。その先には「神の国」があります。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜びサフランのように花を咲かせる。(35:1)。「盛んに花を咲かせ、喜び悦んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(35:2)」。神は、荒れ地に花を咲かせ素晴らしい広場に変えます。荒らさされていたレバノンやカルメル、シャロン(33章9節を見よ)はもとの美しい姿を回復します。ここに神の栄光と威光を見ることができます。
「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」。(35:3)。「心騒ぐ者たちに言え『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神が来てあなたがたを救われる』(35:3)」。強きものに支配されている者を神は励ましています。復讐は神にあり。あなたがたは、主に頼め。主は、自分を頼む者を必ず救われるのです。
主は自分に逆らい、神の民(イスラエル)を苦しめるものを、滅ぼします。「神の国」がうまれます。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒れ野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いの無い地は水の湧く所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる(34:5~7)」。このように、被造物は救われます。
と同時に人々も贖われます。「そこに大路があり、その道は、聖なる道と呼ばれる。汚れたものはそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む(35:8~9)」。大路とは巡礼の道であり、聖なる道です。罪びと(旅人や、愚か者)は、その道を通ることは出来ません。贖われた者たちだけに許された道です。
「主に贖われたものは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいだく。楽しみと喜びが付いて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る(35:10)」。贖われた者たちの喜びは、主を礼拝することです。それによって楽しみと喜びがついてくるのです。そこには悲しみと嘆きは存在しません。これがイザヤの預言する「神の国」です。それが、新しいエルサレム(シオン)です。
平成5年6月13日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書13 31~32章 儚いこの世の助け2

2023年05月10日 | Weblog
イザヤ書 XIII 31~32章 儚いこの世の助け2
はじめに:31章:イスラエルを救うものは神の力です。これを無視する彼らを神は裁きます。しかし、主は、彼らを滅ぼしません。これを守り助けて救われます。アッシリヤを滅ぼします。32章:主は敵を攻撃して、これを滅ぼし、自分が王となる「神の国」の姿(幻)を預言します。
31章:「ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と非常に強い騎兵隊とにより頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない(31:1)」。30章では主はイザヤを通じて、イスラエルの知恵を責めました。これに反して31章では、エジプトの力(馬、戦車、騎兵隊)を責めています。真の力とは、聖なる方の霊的な力なのです。その力とは目に見えないものです。イスラエルはこの真なる力を無視しました。
「しかし、主は知恵あるお方、災いをもたらし、みことばを取り消さない。主は悪を行うものの家と、不法を行うものを助ける者とを攻め立てられる(31:2)」。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと助ける者は躓き、助けられるものは倒れて、みな滅び果てる(31:3)」。イスラエル(北イスラエル、南ユダ、両王国を含むイスラエル民族としての)が神に助けを求めず、結果として人に過ぎないエジプトの軍事力にたよったことに対する神のさばきが、これから下されようとしています。イザヤは、このことを強い口調で表現しています。ここには目に見えるものと見えない者との対比が描かれています。肉と霊との対比です。聖書によれば、御霊に拠って天と地が造られたのであり、目に見えるものは、目に見えないものに支配され動かされているという圧倒的な力の差があります。主が御手を伸ばすと、助けるもの(エジプト)も、助けられるもの(イスラエル)も共に滅び果てるのです。主は、決して自分の手を汚しません。アッシリヤを使ってエジプトとイスラエルの連合軍を滅ぼします。
「まことに主は、こう仰せられる。『獅子、あるいは若獅子が獲物に向かって吠えるとき、牧者がみなそこに集められても、それは彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める(31:4)』」。獅子、あるいは若獅子:神なる主を指す。獅子や若獅子が獲物に向かってうなり声をあげるとき、獅子を追い払おうと多くの羊飼いが集められても、獅子は、その脅しに臆することなく、その大声にたじろぐこともない。主なる神は、まさにこの獅子のように、聖なる都(エルサレム)にあるシオンの山、その丘に下ってエルサレムに戦いを仕掛けるアッシリヤと戦われるのです。
「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救いだし、これを助けて解放する(31:5)」。万軍の主は、その翼を広げて雛鳥を守る親鳥のように、エルサレムの上にあって、これを守り、助けて、彼らを救われるのです。
「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ(31:6)」。「その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ(31:7)」。イザヤは言います。イスラエルの人々よ、あなたがたが背き続けた主に立ち返りなさい。そうすれば、その日(主の定められたさばきに日)に、自ら作り罪を犯した銀や金の偶像を捨てることになるからです、と。
「アッシリヤは人間のものでない神の剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく(31:8)」。神の剣によってアッシリヤの軍勢は滅ぼされます。多くの民は逃亡しますが、残された若者たちの多くは連れ去られて奴隷とされます。
「岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。―――シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ―――(31:9)」。
絶対に動くことがない岩ですら、神の力の前ではたじろき、恐れ、逃げ出します。そのように、アッシリヤの指導的立場にある首長たちですら、国の象徴である国旗を捨てて逃げ去るのです。完全な敗北です。主はシオンの丘に全てを焼き尽くす火を持っておられます。さらに主は、エルサレムに地上の全ての悪を焼き尽くす火を貯えたかまどを持っておられます。その火によってすべては焼き尽くされ、清められるのです。「神の国」が預言されています。
32章:32章で、主は敵(霊的、肉的)を攻撃されて、これを滅ぼし、ご自分が王となる「神の国」の幻を描きます。
32:1~8 正しい秩序 「見よ。一人の王が正義によって治め、首長たちは公義によって司る(32:1)」。正義の王とはイエス・キリストを指し、首長たちとは諸国の民を指導する人です。イエス・キリストを長として、諸国の首長たちと共に共同統治するメシア王国(千年王国)が語られています。
『彼らは皆、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、渇ききった地にある大きな岩の陰のようになる(32:2)』。神の国に約束された憩いと安心が語られています。神の国にある祝福です。
「見る者は目を堅く閉ざさず、聞くものは耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることが出来る(32:3~4)」。今まで、神を無視していた罪びとイスラエルの民が真なる神を見つめ、その声に耳を傾けるようになります。それは霊的な祝福です。今まで、霊的に閉ざされていた人も知識を得て語ることが出来るようになります。
『もはや痴れ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が、上流の人と言われることもない(32:5)』。世の中の常識は神の国では通用しません。
「なぜなら、痴れ者は恥ずべきことを語り、その心は不法を企んで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。ならず者、そのやり方は悪い。彼らはみだらなことを企み、貧しいものが正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低いものを滅ぼす。しかし高貴な人は、高貴なことを計画し、高貴なことをいつもする(32:6~8)」。ここには、この世で悪行をする者の悪しき行いが語られていますが、神に国では、それらは退けられ、正しいものが、堂々とその正しさを語り行うことが出来るのです。
32:9~14 過ぎ去る安逸(のんきな女に対する主の裁き) 今まで、「神の国」の恵みが語られていましたが、一転して過去に戻ります。あくまでも「神の国」から見て。いわゆる「大患難時代」です。バビロンの攻撃の時代です。バビロンの攻撃を前にして、ユダの取った態度を主は攻めておられます。
「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ、一年と少しの日がたつと、あなたはわななく。ぶどうの収穫はなくなり、その取入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ、おののけ。うぬぼれている女たちよ、わななけ、着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの生い茂るわたしの民のために。そしてすべての楽しい家々、おごる都のために(32:9~13)」。のんきな女:一年後に迫っているバビロンの侵攻を前にして危機意識を持たずのんきに構えているユダの民を指します。うぬぼれている女:自分を過信して安逸をむさぼっているユダの民を指します。
事実ユダの民は、その後バビロンに滅ぼされます。主は、バビロンの攻撃を前にして、その攻撃によって民は殺され、田畑の収穫はなくなり、家や都の破壊から救うために「我に帰れ」と警告を発しているのです。主は愛のお方です。自分に背き続けるイスラエルの民に恵みを注がれるのです。しかし、民はそれに応えていません。
「なぜなら、宮殿は見捨てられ町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔はいつまでも荒れ地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ(32:14)」。ユダの地は完全に滅ぼされ荒れ地になります。しかし、罪に汚れた都市は一旦完全に破壊され、リセットされなければならないのです。それが次に語られる再生のための最低条件なのです。
32章15~20節 荒廃から回復への預言(平和と安全)「しかし、ついには、上からの霊が私たちに注がれ、荒れ地が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む(32:15~16)上からの霊とは、キリストの再臨です。神の国の出現です。「義は平和をつくりだし、義はとこしえの平安と、信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む(32:17~18)」。「神の国」ではとこしえの平安と信頼が生まれ、神の民は、この国の永遠の住民となるのです。
「雹が降って、あの森を倒し、あの町は全く卑しめられる(32:19)」。あの森、あの町とは共に罪に満ちたイスラエルを指します。それらは神によって倒され、罪から解放されます。雹とは神です。「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを、放し飼いにするあなたがたは(32:20)」。これが「神の国」です。
令和5年6月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書Ⅻ29~30章 儚いこの世の助け

2023年04月25日 | Weblog
イザヤ書Ⅻ 29~30章 儚いこの世の助け
はじめに:29章で、主はユダの民を「反逆の子ら」と呼んでいます。なぜなら彼らが、神から離れてエジプトに頼ったからです。それは、恥と屈辱をもたらすに過ぎなかったのです。30章は、二つの部分に分けられます。前半(1~17)ではイスラエルの罪が裁かれ、後半(18~33)では、その罪からの解放が語られます。
29章:アリエルの呻き
「ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。わたしはアリエルを虐げるので、そこに呻きと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。わたしはあなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からの囁きのようになる。しかし、あなたの敵の群れも、細かい埃のようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶ籾殻のようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。万軍の主は、雷と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。アリエルに戦いを挑むすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これを虐げる者たちは皆、夢のようになり、夜の幻のようになる。飢えた者が、夢の中で食べ、目が覚めると、その腹は空であるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目が覚めると、なんとも疲れて、喉が干からびているように、シオンの山に戦いを挑むすべての民の群れも、そのようになる(29:1~8)」。
この箇所を読む者はイザヤ書の36章~37章も読んでください。ここに描かれていることが具体的に語られています。語彙 アリエル:エルサレムを指す。ダビデが陣を敷いた都です。アリエルは罪に満ちた都(イザヤ書29:13~14)です。わたし:神=主、あなた:エルサレムの民。
この箇所を読む人は、イザヤ書36~37章も読んでください。この箇所を具体的に説明しています。
主は、アッシリヤを使って罪に満ちたアリエルを裁きます。同時に、アッシリヤも、また罪あるものとして裁かれます。
イザヤは、アッシリヤの侵攻を前にして、当時のユダの王ヒゼキヤの願いを聞いて「私たちの願いを聞いてアリエルを助けよ」、「そうすれば、地の全ての王国はあなただけが主であることを知りましょう(37:20)」と主に祈ります。主はこれに応えて、「わたしは、この町を守ってこれを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」と。その後、アリエルを取り囲んでいたアッシリヤの陣営に、主のみ使いが出て行って18万5000人の兵士を打ち殺したのです。このため、アッシリヤの王セナケリブは敗北を認め、この地から撤退せざるを得なかったのです。シオン(エルサレムの雅名)の山に戦いを挑むすべての民の群れも、そのようになるのです。
29:9~16には、エルサレムに災いをもたらすことになった原因が記されています。その真の原因は主に対する不信です。アッシリヤの侵攻を前にして、エルサレムは、主に救いを求めず。エジプトに救いを求めたのです。そこには「霊的な麻痺」がありました。霊の目が完全に塞がれていたのです。肉的な欲の為に目が見ええなくなっていたのです。「主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目=預言者たち、を閉じ、あなたがたの頭=先賢者たち、を覆われたから(29:10)」。です。その結果、「すべての幻が封じられた書物の言葉のようになったのです」。すべての幻とは「律法」を現します。あなたがたの目が閉じられ、あなたがたの頭がおおわれたがゆえに、律法は封じられた書物になったのです。封印による盲目です。一般の民にとって、律法は重荷です。一人では抱えきれないほどの精神的負担です。彼らは心の中で律法を封印します。エルサレムの民は、封印によって真理が見えなくなります。「これを読み書きのできる者に渡して『どうぞ、これを読んでください』と言っても『これは封じられているから読めない』と言い、その書物を読み書きのできない人に渡して『どうぞこれを読んでください』と言っても『私は読み書きができない』と答えよう(29:11B~12)」。エルサレムの民にとっては、律法は幻なのです。守ることの難しい戒律なのです。この封印を開いて、重荷から自由にするものこそ、イエス・キリストの愛なのです。旧約聖書から新約聖書をつなぐものこそ、キリストの贖いの愛なのです。旧約聖書時代のエルサレムの民は、神・主、との和解は成立していません。
「そこで、主は仰せられた。『この民は口先で近づき、唇でわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことに過ぎない。それゆえ、見よ。わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵あるものの知恵は滅び、悟りあるものの悟りは隠される(29:13~14)』。神との契約の民であるエルサレムの民は、決して神の前で全きものではなかったのです。律法は封じられた幻として、彼らには理解できないものでした。様々な宗教的儀式も行われてはいたが、それは形式に堕していたのです。彼らは、神に口先で近づき、唇で崇めはするが、心のこもったものではなかったのです。霊的な感受性はそこにはなかった。神は、肉的欲望に頼み、エジプトに頼るエルサレムの指導者たちを罰します。
「ああ、あなたがたは、物を逆さまに考えている。陶器師を粘土と同じに見做してよかろうか。造られた者が、それを造った者に『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に『彼はわからずやだ』と言えようか(9~16)」。人が神を造ったのではなく、神が人を造ったのです。主客の転倒が語られています。神は万物の創造者なのです。神の助言を無視して、自分の思いや考えで国の将来を導こうとしたことは「神の民」の行いとしては逆さまなのです。神はこれを罰します。
「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森と見做されるようになる。(29:17)」。これはレバノン(アリエル。エルサレム、イスラエル等々)の回復の預言です。「もうしばらくすると」というのは、次の節の「その日」のことです。「その日」とは、この世の終わりを指します。この世の終わりにレバノンは果樹園(神の国)に変わるのです。まだ「この世の終わり」は来ていません。預言的未来完了の世界です。イザヤ書で、「見よ」とか「この日」とか言う語彙が出てきたときは、終末的出来事、つまりメシア王国(千年王国)において実現する神の民の回復がその内容であると理解することが重要です。
「その日、耳の聞こえない者が書物の言葉を聞き、目の見えない者の目が暗黒と闇からものを見る(29:18)」。「へりくだる者は、主によっていよいよ喜び、貧しいものはイスラエルの聖なる方によって楽しむ(29:19)」「横暴な者はいなくなり嘲るものは滅びてしまい、悪をしようと窺うものは皆、絶ち滅ぼされるからだ(29:20)」。神の民の回復とは次のものを指します。1,耳の聞こえなかった者が、書物(聖書)の言葉を聞くようになる。2,盲人の目が開かれる。3,へりくだる者は主によって喜ぶようになる。4,貧しい人も主によって楽しむようになる。5,横暴な者はいなくなる。『彼ら(横暴な者)は、噂話で他人を罪に陥れ、城門で裁きをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由で覆す(29:21)』。のです。それゆえ、主は終わりの日に彼らを滅ぼします。
「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家についてこう仰せられる。『今からはヤコブは、恥を見ることはない。今からは顔色を失うことがない(29:22)』」『彼らが自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手の業(神のご計画)を見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ(29:23)』」。ここには、イスラエルの民の、「神の子」としての出発が語られています。彼らは神の前で全きものになるのです。アブラハム契約がここにあります。彼らが、神を恐れ慈しみ、神と共に歩むとき、神は、イスラエルの民に大地を与え、子々孫々の増大と繁栄を約束するのです。それは神の国の約束です。ここには神の壮大なご計画があります。創世記から神の国まで俯瞰して、神は、イスラエルを神の民に選んだのです。しかし、イスラエルは神の前に決して従順な民ではなかったのです。ときには反逆し、ときには偶像礼拝に走り、神を侮ったのです。神は怒りこれを罰します。神は怒り、これを罰し、災厄を与えても、契約の民を滅ぼそうとはしませんでした。人がどんなに知恵を尽くし、心を尽くしても努力しても、神の御力を超えることは出来ないし、覆すこともできません。神により頼むときにのみ主の愛と、平和と義を学ぶことが出来るのです。「このとき主は言います。「このとき、彼らは、わたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方(キリスト)を聖としイスラエルの神を恐れることが出来るのです。この結果「心の迷っている者は、悟りを得、つぶやく者も教えを学ぶ(29:24)」。のです。「つぶやく者」とは、試練の中で、その試練を災厄と思っている人々です。試練の中にあって、主の愛と平和、義を学びます。
30章:1、恥(30:1~5) アッシリヤの侵攻を前にして、ユダがエジプトに助けを求めたことが語られています。主はこれを「反逆の子ら」と呼んでいます。求めるものは主以外にいないからです。しかしユダは主を拒否します。エジプトに助けを求めます。イザヤはこれを「罪を増し加えること」と言っています。しかし、主は彼らがエジプトに頼ることを否定はしていません。それが主の導きから出た行動ならです。彼らは神を拒否してエジプトを選びます。しかし、エジプトは決して保護にも助にもならず、ましてや、勝利など考えられないからです。その結果は敗北です。エジプトは役に立たなかったのです。あったのは恥だけでした。
2苦悩(30:6~7) エジプトに助けを求めるには代償(宝物や財宝)を必要とします。それらを、ろばや、らくだの背に載せて、危険に満ちたネゲブ砂漠を通ってエジプトに行かねばなりません。こんな苦難と苦悩の結果は敗北でした。イザヤは言います。「だから私は『何もしないラハブ』とよんでいる。」と。ラハブとはエジプトの別名です。エジプトは何の役にも立たなかったのです。イザヤはユダがエジプト頼ることの危険性を再三警告しています。ユダはこれを拒否するものの、そこには苦悩があります。葛藤が有ります。
3記憶、(30:8~11)主はユダの民が、主に逆らっていることを、御言葉を拒んでいる姿を、自分たちを裁く言葉ではなく、「私たちの気に入ることを語れ」と言い、「私たちの前からイスラエルの聖なる方(イエス・キリスト)を消せ」とまで言っていることを、書物に現わし記憶にとどめよ、と命令しています。
4、破滅(30:12~14)、主に逆らう不義に対する神のさばきは徹底したものです。それは二つの比喩的表現によって表されています。一つは、4)一瞬にしてもたらされる破滅(30:13)、であり二つ目は、土の器が打ち砕かれるような容赦ない完全な破滅(30:14)です。土の器とはエジプトを指します。危機に際してエジプトに頼る無益さと、主への反逆を語っています。
このように、神である主は、大国エジプトに頼ることの愚を諭し、悔い改め、主を信頼することを求めますが、ユダはこれを望まなかったのです。
ユダは、アッシリヤの侵攻に際して、「我々は早馬(エジプト)に乗って逃げよう」とエジプトに頼ります。しかし、アッシリヤは、その早馬よりも早く、ユダに追いつき、これを滅ぼすのです。この場合のアッシリヤは神を象徴します。主は、「反逆の子ら」を、アッシリヤを使ってさばかれるのです。      
5、救い(30:18~26)これより後半に入ります。主は「反逆の子ら」を裁かれました。しかし、神は恵み深い方です。契約の民を決して滅ぼしたりしません。前非を悔い、神に立ち返った者には恵みを与え、あわれられます。それゆえ「あなたがたはもはや、決して(罪の苦しみに)泣くことはない」、と神は仰せられます。神は、愛です。神は辛抱強く、イスラエルの民の悔い改めと、神への立ち返りを切に待ち望んでおられるのです。「主が待ち望んでおられる」、と言うことは、民は神に応えていないことを意味します。エジプトに頼り神を無視します。しかし、そんな「反逆の子ら」に対しても、イザヤは神の愛を語ります。「あなたの叫びは聞かれる」と。これはあくまでも期待を込めた約束事です。恵みを与える主と、それを受けるに値する民がいてこそこの約束事は成立します。「反逆の子ら」の中にも、神に選ばれた「残りの者」が存在していたのです。主は彼らに期待して待っておられます。
神は姿の見えない、隠れた存在から、姿の見える三位一体の神=キリストとして現れます。神であると同時に人です。この方は、乏しいパンとわずかな水で大きな祝福を与えてくださるのです。この方が、あなたがたの後ろから「これが道だ。これに歩め」と導いてくださるのです。このとき、ユダは、エジプトと言う偶像崇拝から脱却出来るのです。
 次に究極のいやしが語られています。神の国です。神は、民に農地を与え、豊かな実りと家畜からの恵みを保証します。ハルマゲドンの勝利を、イザヤは「虐殺の日」と呼んでいます。この日、砂漠には「運河」が通ります。水に恵まれない砂漠の国々にとっては神からの最大の恵みです。命の水です。神の力です。このことによって神に反逆して傷ついた民の心を神は癒し慰めてくださるのです。主が、彼らを照らされるので、灯の光も、太陽の光も不要です。その光だけで十分です。それが「神の国」です。ゲヘナとは地獄を現します。王たちがゲヘナに投げ込まれることが預言されています。
 令和5年5月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書Ⅺ 27~28章 教えを学ぶ

2023年03月18日 | Weblog
   イザヤ書Ⅺ 27~28章 教えを学ぶ
 はじめに:イザヤは、エルサレムに対する神のさばきの言葉を語ると同時に、真の希望とは、主なる神に信頼することからくることを、終末における神のご計画の普遍性を見ることで語っていきます。
 27章:「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。その日。麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、誰も、これをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。私はもう怒らない。もしも、茨と、おどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしの砦に頼りたければわたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす(27:1~6)」。 語 意:その日:この章では、前回と同じく、全世界における神のご計画が語られています。主が、大患を地上に下されて、イスラエルの「残りの者」を救われます。そのときが、「その日」です。蛇レビヤタン:悪魔の化身、蛇は、神のさばきにより手足を失い、地を這うものにされました。蛇の前身は、手足を持つ竜だったと思われます。神は裁きの日にこれを殺します。おどろ:棘と書きます。意味は茨と同じです。共に触れると身を傷つけます。神に逆らうものを意味します。アシュラ:火を噴く怪物です。サタンの一種です。神は最後にはこれを縛り、底知れぬ場所に閉じ込めます。麗しいぶどう畑:イスラエルの民をさします。契約の民です。神は、この民を絶えず見守り、守っておられるのです。旧約聖書でのイスラエルは罪に満ちていました。しかし、イエスの十字架による贖いの死によって原罪から解放されて「麗しい民」に変身したのです。だから彼らに対して神は決して「怒らない」のです。それゆえに、イスラエルに敵対するもの(茨とおどろ)が、神と戦うなら、これを神はお赦しにならないのです。しかし和を望む者に対しては、神はその罪を問いません。これを受け入れます。時が来れば:ここには神のご計画が、語られています。イスラエルから全世界へと、将来への展望「神の国」が預言されています。神の素晴らしさをその栄光を全世界の人々に分かち合うのです。そのためには時が必要です。未来完了の世界です。この預言を実現するためには、じっくりと時間をかけて育てる必要があります。それは善行を尽くすことではありません。勿論、それも必要です。しかし、それは必要条件ではあっても、絶対条件ではありません。絶対条件とは、自らの身を慎み、主に寄り添い、すべてを主に委ねる信仰が必要なのです。この「時が来れば」、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」のです(27:6)」。イスラエルから世界へと、信仰の輪は広がっていくのです。しかし、これは、あくまでも進行形であって、いまだ実現していません。
 「主は,イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺したものを殺すようにイスラエルを殺されただろうか(27:7)」と述べています。ここには、異教の諸国に対する神のさばきと、イスラエルに対する神のさばきの違いが述べられています。勿論、異教の民には厳しく、滅びが、イスラエルに対しては、次に述べるように、条件付きではあっても救いが語られています。「あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された(27:8)」。救いの前に裁きが語られています。アッシリヤの捕囚や、バビロンの捕囚などイスラエルの民の離散(災厄)のことです。北イスラエルは、アッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、国を失います。捕囚とは、神のさばきなのです。異教の民(アッシリヤ、バビロン)は、完全に滅ぼされましたが、イスラエルの裁きには、救いがあります。回復があります。裁きと救いはセットにしてイスラエル(契約の民)に与えられます。裁きは救いの条件です。
 「それゆえ、次のことによって、ヤコブの不義は赦される。祭壇の全ての石を粉々にされた石灰のようにし、アシュラ像と香の台をもう立てなくすること、これが自分の罪を除いて得られる報酬の全てだ(27:9)」。アシュラ像と香の台(偶像)を捨て、神に立ち返ることが必要なのです。そして神のあわれみを受けるのです。しかしイスラエルは、悟りの無い民ゆえに、これを拒否します。その結果、「城壁のある町は、一人寂しく、放っておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草を食み、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りの無い民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これを哀れまず、これを形作った方は、これに恵みを与えない(27:10~11)」。ユダヤ人が離散の民になった後のイスラエルの土地の運命が語られています。神はこの地に住む民にあわれみも、恵も与えないのです。
 その次に回復が預言されます。「その日。主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは一人一人拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(27:12~13)」。穀物の穂とは、イスラエルの民です。この離散の民が、帰還できるようになる約束が語られています。ユーフラテス川からエジプト川までの間にイスラエルの民は散らされていました。主はそれらの飛散民をエルサレムに帰還させます。彼らはエルサレムの聖なる山で、主を礼拝するのです。主がアブラハムに約束された地とは、北はユーフラテス川から、南はエジプト川までです。イスラエルの祖国です。
 28章:「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠。その美しい飾りの死んでいく花。これは酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手にとって、すぐ飲み込んでしまう。その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、苦しい冠、栄の飾りの輪となり、さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃してくる者を城門で追い返す者にとって、力となる(28:1~6)」。
 語彙;エフライム:北イスラエルの代表的な部族の名。エフライムは、肥沃な土地を持ち、経済的には豊かで、それを誇りとし、その豊かさに溺れ、世の楽しみに浸っていました。肉の欲です。主はこれを「酔いどれの冠」と呼んでいます。当然、肉の欲に溺れて、主のことに目を向ける信仰心に欠けていました。霊的には「しぼんでいく花」だったのです。主は、これを裁かれます。主はアッシリヤを使ってこれを滅ぼします。しかし、ここにも「残りの者」はいます。主を信仰する僅かな人たちです。万軍の主:ここでのこの方の役割は、残りの者にとっては、美しい冠であり、栄の飾りです、裁判官にとっては裁きの霊(正しい裁きの心)となり、城門を守る兵士にとっては、守りの力(勇気)となるのです。
 「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、裁きを下すときよろける。どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余すところもない(28:7~8)」。
 これらの者とは、現実においては世を支配している者たちです。彼らは、アッシリヤやバビロンの侵攻を前にして危機意識を持たず、呑んだくれていたのです。そればかりでなく、祭司や預言者までもが、物事を霊的に判断し、裁く立場を忘れてこの世の楽しみに浸っていたのです。聖書を読むと聖職者は飲酒を禁じられています。まさにエフライムは、この世的にも、霊的にも、しぼんでいく花だったのです。主は彼らを御足で踏みにじられるのです。しかし、主は尊いお方です。決して自らの手を汚しません。アッシリヤやバビロンを使います。しかし、用済みになれば、これを滅ぼします。いい気なものです。
 アッシリヤの侵攻を前にして、エフライム(北イスラエル)の聖職者たちはイザヤの預言を嘲ります。そして言います。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(28:9~10)。彼らは言うイザヤは幼子を諭すように律法を守れと我々聖なる者に言っている。釈迦に説法だ。そんなことは誰もが知っている。あえて説くことでもない、と。しかし、主の説く律法(戒めと規則)は神を信じる者にとっては、最も基本的なことです。基本的なこととは、幼子でも分かるシンプルなものです。あざける者の言葉に応えてイザヤは語ります。「まことに主はもつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる(28:11)」と。もつれた舌、外国語で,語られる言葉は一般の民には理解不能な、分けのわからない言葉です。気の狂った人間の叫びに聞こえます。正常な言葉ではなく、異なった言葉です。いわゆる、異言です。異言とは御霊の賜物の一つです。神が人に乗り移って人が語る神のことばです。神のみが理解出来る御霊(精霊)の言葉です。人は、霊で祈り、霊で賛美します。
 「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった(28:12)。」マタイは、その福音書の中で主の言葉を次のように述べています。「すべて疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と。彼ら(酔っぱらった祭司や預言者)が、その罪を悔い改め、神に立ち返ったとき、真の休息が与えられるのです。そこは、平和と平安と安らぎのある世界です。神の国です。しかし彼らは、その言葉を理解せず、聞き入れなかったのです。
 「主は彼らに告げられる。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』これは彼らが歩くとき、後ろざまに倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるためである(28-13)」。主は、わかりやすい言葉で、基本的な言葉を語りました。ところが、彼らはこの簡単明瞭な言葉に躓いて倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるのです。彼らは不信仰ゆえに、神に裁かれるのです。「それゆえ、嘲るものたち―――エルサレムにいてこの民(残りの者)を物笑いにする者たちよ。主の言葉を聞け(28-14)」。と、イザヤは、彼らに対して、警鐘を発せられるのです。
 「あなたがたは、こう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、黄泉と同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えてきてもそれは私たちには届かない。私たちはまやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから(28-15)。』」。死と黄泉とはエジプトを指しています。にわか水とは、アッシリヤのことです。たといアッシリヤの侵攻を受けても、エジプトの後ろ盾があるから、滅ぼされることはない。と高を括っていたのです。「まやかし」「偽り」とはエジプトを指します。神はないがしろにされています。頼りにすべきは主たる神のみなのです。神は高慢と高ぶりを最も嫌われるお方です。やがて、彼らはアッシリヤの脅威にさらされることになります。
 「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、慌てることがない(28-16)』。見よ:終末預言(メシア王国、千年王国)を示唆することばです。「一つの石」、「試みを経た石」、「堅く据えられた礎の尊いかしら石」。これらの石は、メシア(イエス・キリスト)を現す比喩的表現です。神が据えられたこれらの石は決して風化することのない、どんな試練の中にあってもそれに耐え、屈服することのない勝利の石です。これを信じる者は、決してあわてることがない。救いが保障されているので、決して、焦るなとイザヤは言います。「わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、黄泉との同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えてくると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。』(28:17-19)」。
 「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる(28:20)」。エジプトのことを言っています。神はアッシリヤの侵攻に対して、自分に頼らず、エジプトに頼るユダを戒めています。エジプトはアッシリヤに滅ぼされます。エジプトは役に立たなかったのです。
 この後、イザヤは、真の救いは、神のみにあると語っていきます。神の御業は他と比較にならないくらいに強力だからです。それゆえ、神をあざけるな、と警告を発します。イザヤは、神の日(全世界に下る全滅の日)の啓示を聴いていたのです。
 次に、イザヤは神のご計画を、農作業を例にとって語っていきます(28:23~29)。農民が地を耕すのは、そこに種を蒔き収穫するためです。そのためには道具も使います。このすべての農作業は、主の導きのもとに行われているのです。農作業は、信仰を現し、収穫は恵みを現します。「これもまた、万軍の主から出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんばかりは、素晴らしい(28:29)」。全能の神は、優れた教師であり、農夫(イスラエルの民)に、素晴らしい知恵を授けるのです。
令和5年4月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会