「それから」は地方の資産家の娘との良縁を拒否して、父親、兄夫婦の反対、世間の冷たい目に抗して、友人(平岡)の妻(美千代)を奪ってまで真実の愛に生きた一人の男(代助)の物語である。不倫の愛の、それからはどうなるか?それは「それから」には描かれていない。三部作のひとつ「三四郎」のそれからが「それから」でであったように「それから」のそれからは「門」につながっていく。
この作品はいわゆる不倫ものであるが、漱石の生きた明治、大正の初期の作品であることを考慮して欲しい。この時代不倫の恋は今のように自由なものではなかった。
100人の人間が100生産し、100すべてを食べてしまえば、そこには剰余は生じない。しかし生産力が上がり、50人で100の生産物を作れるようになれば、50人の人間が50を食べたとしてもあと50が残る。これが剰余である。マルクス経済学的に見れば、これを貨幣換算したものが、剰余価値である。後の50人は働かなくても残りの50を食べることができる。この剰余価値生産によってはじめて肉体労働と、精神労働の分離が可能になる。肉体的欲求からの自由、その分離の中で人間ははじめて精神活動の第一歩を踏み出したのである。そしてこの分離があってこそ、両社の統一も動物的直接性から離脱し得たのである。そして剰余価値が精神労働者に帰属したとき、分離と統一の関係は阻害され精神労働と肉体労働との間の、異なる個人間の分業関係が成立するのである。階級が生まれる。
「それから」の主人公=代助は、30になっても、嫁はとらない、定職は持たない、親の資産によって生活する、社会に寄生し、他人の生み出した剰余価値で生活する高等遊民(パラサイト)である。それでいながら彼はいう「働くのも可いが働くなら、生活以上働きでなくちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は麺麭(パン)を離れている」。「だから衣食に不自由しない人が、云わば物数奇(ものずき)でやる仕事でなくちゃ、まじめな仕事はできないんだよ」と。要するに剰余価値=付加価値を生まない生活のための労働は意味がないというのである。それ故、彼は生活のために生きる平岡を見下している。
100生産して100すべてを食べてしまう、精神労働の存在しない社会には文明は存在しない。文明は生産力が上がり剰余生産物を生み出す世界からのみ生まれる。要するに代助の理論の根拠はマルクス経済学の基本中の基本である「剰余価値の理論」から生まれる。
さらに彼は自由人である。ある目的が外的に与えられて、その方便のために生きるのは堕落になる。通訳になるために外国語を学ぶのは堕落になる。パチンコや競馬を純粋に楽しむのではなく、賭け事にしてしまうと堕落になる。旅を純粋に楽しむのなら良いが、目的地につくための必要悪になると堕落になる。山があるから山に登る。行動は行動自身が目的でなくてはならない。それはあくまでも遊びの精神である。遊びはそれ自身が目的であって、それ以外ではない。代助は考える「自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる」と。要するに自己の活動をなんらかの目的の方便にするのは、自己存在の目的の否定になるのである。
この考えの延長線上に彼の恋愛観がある。結婚のために人を愛するのは堕落になる。はじめに愛ありきである。好きだから愛するのでなければならない。だから代助の場合、生活の方便として父親の事業を助けるために政略結婚をするというのは、彼の根本義からすれば堕落の最たるものになる。たとえ自分の心を偽って政略結婚をしたとしても、自分の心の真実を否定することはできない。いつか破綻する。だから封建社会では領主は、政略結婚は政治の必要悪と考え、それ以外に愛妾をもつ事がシステムとして許されていたのである。すばらしいバランス感覚である。
代助は資産家の娘との結婚か、人妻である美千代との結婚か、二者択一を迫られる。資産家の娘と結婚すれば将来の生活は保障される。父の事業も立ち直れるかもしれない。兄夫婦との中も上手くいく。それに反して、美千代との結婚には障害が多すぎる。美千代の夫であり、友人でもある平岡を裏切ることになる。父親、兄夫婦とは義絶されるであろう。当然世間の目は冷たい。さらに最も致命的なことは、以後の生活の保証がなくなることである。それにも拘らず代助は平岡から美千代を奪い取る。真実の愛に生きたのである。しかし定職を持たない代助のそれからはどうなるのであろうか?それは「それから」には描かれていない。それからは「門」につながっていく。不倫の愛を貫いた男の罪と罰がそこに描かれるであろう。制度か自由か?制度の重圧に抗して、真実の愛を貫いた代助の将来に救いはあるのだろうか?
この作品はいわゆる不倫ものであるが、漱石の生きた明治、大正の初期の作品であることを考慮して欲しい。この時代不倫の恋は今のように自由なものではなかった。
100人の人間が100生産し、100すべてを食べてしまえば、そこには剰余は生じない。しかし生産力が上がり、50人で100の生産物を作れるようになれば、50人の人間が50を食べたとしてもあと50が残る。これが剰余である。マルクス経済学的に見れば、これを貨幣換算したものが、剰余価値である。後の50人は働かなくても残りの50を食べることができる。この剰余価値生産によってはじめて肉体労働と、精神労働の分離が可能になる。肉体的欲求からの自由、その分離の中で人間ははじめて精神活動の第一歩を踏み出したのである。そしてこの分離があってこそ、両社の統一も動物的直接性から離脱し得たのである。そして剰余価値が精神労働者に帰属したとき、分離と統一の関係は阻害され精神労働と肉体労働との間の、異なる個人間の分業関係が成立するのである。階級が生まれる。
「それから」の主人公=代助は、30になっても、嫁はとらない、定職は持たない、親の資産によって生活する、社会に寄生し、他人の生み出した剰余価値で生活する高等遊民(パラサイト)である。それでいながら彼はいう「働くのも可いが働くなら、生活以上働きでなくちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は麺麭(パン)を離れている」。「だから衣食に不自由しない人が、云わば物数奇(ものずき)でやる仕事でなくちゃ、まじめな仕事はできないんだよ」と。要するに剰余価値=付加価値を生まない生活のための労働は意味がないというのである。それ故、彼は生活のために生きる平岡を見下している。
100生産して100すべてを食べてしまう、精神労働の存在しない社会には文明は存在しない。文明は生産力が上がり剰余生産物を生み出す世界からのみ生まれる。要するに代助の理論の根拠はマルクス経済学の基本中の基本である「剰余価値の理論」から生まれる。
さらに彼は自由人である。ある目的が外的に与えられて、その方便のために生きるのは堕落になる。通訳になるために外国語を学ぶのは堕落になる。パチンコや競馬を純粋に楽しむのではなく、賭け事にしてしまうと堕落になる。旅を純粋に楽しむのなら良いが、目的地につくための必要悪になると堕落になる。山があるから山に登る。行動は行動自身が目的でなくてはならない。それはあくまでも遊びの精神である。遊びはそれ自身が目的であって、それ以外ではない。代助は考える「自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる」と。要するに自己の活動をなんらかの目的の方便にするのは、自己存在の目的の否定になるのである。
この考えの延長線上に彼の恋愛観がある。結婚のために人を愛するのは堕落になる。はじめに愛ありきである。好きだから愛するのでなければならない。だから代助の場合、生活の方便として父親の事業を助けるために政略結婚をするというのは、彼の根本義からすれば堕落の最たるものになる。たとえ自分の心を偽って政略結婚をしたとしても、自分の心の真実を否定することはできない。いつか破綻する。だから封建社会では領主は、政略結婚は政治の必要悪と考え、それ以外に愛妾をもつ事がシステムとして許されていたのである。すばらしいバランス感覚である。
代助は資産家の娘との結婚か、人妻である美千代との結婚か、二者択一を迫られる。資産家の娘と結婚すれば将来の生活は保障される。父の事業も立ち直れるかもしれない。兄夫婦との中も上手くいく。それに反して、美千代との結婚には障害が多すぎる。美千代の夫であり、友人でもある平岡を裏切ることになる。父親、兄夫婦とは義絶されるであろう。当然世間の目は冷たい。さらに最も致命的なことは、以後の生活の保証がなくなることである。それにも拘らず代助は平岡から美千代を奪い取る。真実の愛に生きたのである。しかし定職を持たない代助のそれからはどうなるのであろうか?それは「それから」には描かれていない。それからは「門」につながっていく。不倫の愛を貫いた男の罪と罰がそこに描かれるであろう。制度か自由か?制度の重圧に抗して、真実の愛を貫いた代助の将来に救いはあるのだろうか?