日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」2 原卓也訳

2009年09月21日 | Weblog
 「カラマーゾフの兄弟」に関する文章を二つに分けたのは僕自身の意図ではない。一万語という制限があったからである。だから適切な場所で二つに分けたというわけである。この文章に最初に出会った人は、ぜひとも先の文章から読み始めてほしい。
 父親殺しの犯人はドミトリーかスメルジャコフか?イワンは父親殺しの犯人はドミトリーであることを願う。もしも自分の唆しに乗ってスメルジャコフが犯行を犯したのならば、自分は共犯ないしは主犯になってしまう。イワンは何度もスメルジャコフを訪ね、彼の口から「自分が犯人だという」告白を聞き出す。
 それではなぜスメルジャコフが「父親殺し」の重罪を犯したのであろうか?たとえそこにイワンからの唆しがあったとはいえ、それなりの理由がなければ危険を冒してまで、殺人など行えないからである。さまざまな理由が考えられる。まず第一にイワンの唆しによって殺人を行えば、それをネタに一生、生活できると考えたのか?フョードルがグルーシェニカに用意した3000ルーブルという大金のためか、あるいは自分をわが子と認めず農奴扱いする父親への恨みか?それとも猫を縛り首にしたり、ピンを含ませたパンを犬に与え、その苦しむ姿を見て愉しむサディストの結果としての犯行なのか?それともこれら複合した理由によるのか?いずれにしても「神がいなければ、全てが許される」という唯物論者で、新思想の持ち主イワンの言葉に従った犯行だったのである。後にイワンは「スメルジャコフはおれ自身だったのだ」と言っている。スメルジャコフの心の中には、神と悪魔との戦いがあった。結果、スメルジャコフの心に潜む神は悪魔に打ち勝ち、「誰にも罪を着せぬため、自己の意志によって、進んで生命を断つ」という遺書を残して首つり自殺をする。そこにはサディズムの完成としてのマゾヒズムがある。
 当然、裁判が行われる。検察官は様々な証言、証拠をあげ、ドミトリーこそ犯人であると告発する。唯一決め手となったのはドミトリ-が婚約者エカテリーナに宛てた「父親殺し」を予告する手紙であった。スメルジャコフの遺書、イワンの「自分の唆しによるスメルジャコフの犯行である」という証言は無視される。
 弁護側は、検察官のあげた証言、証拠の数々をきわめて合理的に反論し、特にエカテリーナにあてた殺人予告の手紙は、ドミトリーが酒に酔っ払った結果書いたものであってその信憑性は疑わしい、と反論し、スメルジャコフこそ「父親殺し」の犯人であり、ドミトリーは無罪であると証言する。結論は陪審員に委ねられる。陪審員の下した結論は予想に反して「有罪」。尊属殺人が適用され20年のシベリア流刑が言い渡される。
 ここには、神とは何か、罪とは何か、という根源的な問いが発せられている。ドミトリーの心の中の「親殺し」、イワンの唆しによる「親殺し」、共に神の前では罪びとであった。それ故ドミトリーは抗告せずに罪に服す。イワンは良心の重さに耐えきれず病に犯される。
 後に兄弟、縁者の間で脱獄が計画される。三百万ルーブルの金が用意される。百万ルーブルは獄吏に対する賄賂に使われる。まさに地獄の沙汰も金次第である。ここには当時の官僚の腐敗に対する批判がある。脱獄後ドミトリーのアメリカ逃亡が計画される。このように時には反発し、争い合っていた兄弟は、ここにきて和解し、力を合わせるのである。だからこそ私はこの作品を家族愛の小説であり、家族小説と結論するのである。
 さまざまな価値観が交錯し、反発し、抗争する行く手定まらぬ断絶の時代をドストエフスキーは描いている。そしてこのような時代を勝ち抜き、難局を転換させ、将来を展望させるために、知恵の限りを尽くし勇んで行動する精神をドストエフスキーはカラマーゾフの3人の兄弟の中に見出したのである。まさにカラマーゾフ万歳である。

  ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」原 卓也訳 上・中・下 新潮文庫