この作品「武器よさらば」はアーネスト・ヘミングウエイ(1899年~1961年62歳自殺)によって1929年に発表された長編小説であり、僕(フレデリック・ヘンリー)の追想という形で展開する。
時は第一次大戦中1915年から始まる。場所はオーストリアと北イタリアの東部国境に広がる山岳地帯(現在のスロベニア共和国に近いゴリツィア、ウディネからタリアメント川に到る一帯)、物語はこの地帯を舞台として展開されたイタリアとオーストリアの戦争にイタリア兵士として参加したアメリカ人の僕(傷病兵の運搬部門に所属する陸軍中尉)と、この地で傷病兵の看護に当たる看護師キャサリン・バークレイとの激しい恋と冒険の物語である。
僕は前線の傷病兵の救護に向かう途中に敵の砲弾を受けて負傷する。ミラノの赤十字病院に送られ、入院する。そこで負傷する前に知り合い恋していたキャサリン・バークレイの訪問を受け、その恋は再燃し、本格化する。砲弾のかけらを取り出す手術が行われ、傷がいえるまでの間、彼女は付き添い看護師として夜も眠らずにその看護に情熱を傾ける。二人の愛は深められ彼女は妊娠する。傷が癒えた後、ぼくは原隊への復帰を命ぜられる。キャサリンとの別れが訪れ二人は再会を誓う。僕は任地のゴリツィアに戻る。これはイタリアに赤十字要員として従軍し、両足に負傷したヘミングウエイ自身の体験がもとになっている。ヘミングウエイは「シカゴ郊外に生まれ1918年第一次世界大戦に赤十字要員として従軍し負傷する。1921年~1928年までパリにすみ『我らの時代』『日はまた昇る』『男だけの世界』等を刊行。その後『武器よさらば』短編『キリマンジェロの雪』等を発表。スペイン内戦、第二次世界大戦(1939年~1945年)にも従軍記者として参加。1952年にピューリツァ賞を受賞。1954年ノーベル賞を受賞、1961年猟銃で自殺」(新潮文庫『武器よさらば』の裏表紙の解説より)。自殺の原因は種々言われているが鬱病によると云うのが有力である。
第二次世界大戦ではイタリア、ドイツ、日本と枢軸国に加わっていたイタリアは、オーストリア皇太子の狙撃とその死で始まった第一次世界大戦では最初こそドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、オーストリアとの間に領土問題を抱えており、仏伊との通商条約を盾に、中立を宣言していた。しかし1915年にイギリス、フランスの働きかけにより、ロンドン協定に調印し、三国同盟を離脱し連合国側として第一次世界大戦に参加した。この戦争は最初はヨーロッパ諸国の戦争であったが後にアメリカ、日本、多くの植民地が参加し多数の参加国を含む世界大戦になった。この戦争は史上初の世界大戦であり、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行機と云った近代兵器を誕生させ、膨大な人的、物的損害の末に1918年11月に連合国側の勝利により終了した。
イタリア、オーストリアの国境地帯の戦いは一進一退を繰り返していたが、最終的にはイタリア側の勝利に終わるのではないかと思われた。しかしオーストリア側はドイツに援軍を求め、その支援のもと、指揮権を握ったドイツ軍の大攻勢が始まり、1917年ドイツ・オーストリアの連合軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの敗北)。イタリア軍上層部は敗勢を立て直す抵抗ラインをカポレットからはるか西方のタリアメント川に設置したため、部隊も、民間の避難民もそこを目指して悲惨な逃避行を余儀なくされた。その状況が、この作品において赤裸々に描かれいる。
ゴリツィアにいた僕らの部隊にも退避命令が下る。3台の車に医療機械、薬品などを積み運転兵のアイモ、ボネッロ、ピアーニの3人と分乗し、降りしきる雨の中、闇をついて退却を開始する。退却は混乱を極めた。大砲を引いた兵士の隊列、軍用品を積んだ多くのトラック、家財道具家畜までも積んだ民間人の荷車、歩兵部隊、さらに脇道から多くの避難民、兵士が入り込んでくる。たちまち渋滞となる。列の前方で事故が起こったらしい。全く動かなくなる。様々な情報が飛び交う。ドイツ軍のスパイが混乱を狙ってデマを流しているらしい。一本の道は身動きできなくなる。そんな中最悪なことに車が泥濘にはまり込んで動かなくなる。押せども引けども動かない。後ろからはドイツ軍が、上空には飛行機が僕らを狙っている。仕方がないので車を捨てる。本道を避けて近道を考え畑の中に出る。イタリア兵から発砲を受ける。ドイツのスパイと間違えられたらしい。マイモは射殺される。ボネッロは行軍の辛さ、マイモの射殺に恐れをなし、ドイツ軍の捕虜になる道を選んで去っていく。指揮系統は乱れに乱れ、誰が命令しているのか、命令そのものがあるのかすら分からなかった。そのため退却の群れはまさに烏合の衆であった。それでも部下の運転兵のピアーニとともにタリアメント川に差し掛かった時、野戦憲兵(その任務は国によってさまざまであるが共通していることは、軍内部の犯罪、規律違反、の取り締まりであり、逮捕権、裁判権、執行権を持ち、軍内部ににらみを利かしていた)に捕まる。そこでは原隊を離れた少佐以上の将校が。脱走兵として処刑されていた。さらにドイツのゲリラやスパイと見做された兵士も処刑されていた。僕はドイツのスパイと見做されたようだ。何を云おうと聞く耳を持たない憲兵である。尋問を受けるか脱走するか、考える余地はなかった。他の将校を尋問しているすきを狙って、そばにいた憲兵を突き飛ばして川に飛び込む。後ろから銃声が響く。尋問を受ければ処刑は確実だ、しかし、脱走すれば可能性は少なくても生き残れるかもしれない。僕には僕の子を宿して、ぼくの帰りを心待ちにしているキャサリンがいる。今死ぬわけにはいかない。流木に捕まり、泳ぎ切り、岸に上り、ミラノ行の汽車に飛び乗り、ミラノで恋人キャサリンに再会する。僕は脱走に成功したのである。
しかし、このままだと僕は脱走兵である。捕まれば死刑になるかもしれない。憲兵は捜索を開始するであろうか?川でおぼれ死んだと思うだろうか?後に残ったピアーニは何と上司に報告するだろうか?おそらく戦死したというであろう。混乱に混乱を重ねた逃避行である。何人もの脱走兵が出ているし、行方不明者も出ている。ドイツ兵に殺害された兵士も多くいる。詮議のしようがあるまい。そんなことよりもいまはゆっくりと休みたい。こうして僕はひとまずキャサリンのもとで疲れをいやしたのである。そしてホテルで至福の一夜を過ごしたのである。新聞によるとイタリア軍はタリアメント川では持ちこたえることが出来なかったという。ペアーベ川に撤退中と云う事であった。結局この敗北によってイタリア軍は敵の捕虜になった24万人の兵士を含め、30万人の兵を失ったという。翌日はホテルのバーテンと釣りを楽しみ、夕方にはフレッグ伯爵とビリャ―ドを愉しみ、夜はキャサリンと素敵な一夜を過ごしたのである。しかしこの生活も長くは続かなかった。翌日バーテンがやってきて、ぼくは逮捕されるという。タリアメント川の敗北で多くの脱走兵が出ているのでその詮議で私服を着た兵士は、はじから逮捕されているという。私たちはバーテンのボートを借りてスイスに逃亡することにする。スイスでは外交的配慮から、イタリア人の入国を拒否しているという。しかし幸いのことに僕とキャサリンはアメリカ人とイギリス人であってイタリア人ではない。国籍を証明するパスポートも持参している。スイスに逃げ込んでしまえばもう安心である。湖上をスイスに向かってバーテンのボートに乗って逃走する。いろいろと困難はあったが、無事にスイスに到着する。勿論スイスの警察に逮捕はされたが、パスポートもあり、現金もたくさんあったので、彼らは好意的であった。観光客として処理された。しかしボートは没収された。
スイスでの生活は快適であった。キャサリンは出産に備えて準備を始める。予定日は1カ月後だという。一番楽しい時である。出産に必要なものを買い集める。彼女の顔は輝き喜びに満ちていた。式も挙げなければならない。しかしこんな大きなお腹で式を挙げるのは嫌だと彼女は云う。出産後のスリムな体で式を挙げたいと云う。僕に異存があるわけがなかった。僕らは出産後の夢を語る。将来にはバラ色の人生が待っている。そこには出産前の喜びがあった。出産後に来る幸せな生活は保障されているはずであった。僕らは幸せであった。もしも悲劇が起こらなければ。陣痛が始まりキャサリンは入院する。難産であった。帝王切開の結果生まれた子は死産、へその緒が首に巻きついた窒息死であった。キャサリンは帝王切開の結果生じた大量出血のため、意識不明となり、ぼく、医師、看護師たちの切なる願いもむなしく意識を回復することはなかった。全てが終わった後、ぼくはただ一人病院を後にし、雨の中を歩いてホテルに戻った。ここで物語は終わっている。
この作品の中には先に紹介したドストエフスキーの扱うことの無かった戦争が扱われている。ドストエフスキーは神の問題を扱い、神がいなければ何でもできると云っている。この神のいない世界(悪魔の支配する世界)が戦争である。ヘミングウエイは戦争の持つ残酷さ、残虐さ、悲惨さ、非道さを描くことによって、人間性が破壊されて行く様をを描いている。ヘミングウエイは実際に従軍し、またジャーナリストとして数々の戦争に参加し感じたことは戦争の持つ本質的な悪=罪であった。その罪と罰、そして許しとは何であろうか?戦争に翻弄され、希望や夢や願いが敢え無く消え去った『誰がために鐘は鳴る』のロバートとマリア、過酷な戦争には生きぬいた僕が何故恋人のキャサリンを失わねばならなかったのか?それはともに人間が耐えねばならない罪であり罰なのであろうか?ヘミングウエイはおそらく唯物論者であろう。彼の作品には神と云う言葉は出てきても重要な意味を持っていない。だから戦争の持つ悪=罪を告発しても、それからの解決の道を示していない。示すことが出来ない。人間とは限界のある存在であり、絶対善(神)と絶対悪(悪魔)の中間にあり、両者の間を揺れ動く存在である限り、その知恵に大幅な信頼を寄せるわけにいかない。戦争は人間の知恵を超えていつでも起こりうるのである。
この作品の原題は「A farewell to arms」である。armsと云う言葉には、武器、戦争と云う意味があると同時に、腕と云う意味がある。複数形だから両手であろう。愛すべき両腕、固く抱きしめる腕=愛を意味している。「A farewell to arms」という題名は希望的願いとしての戦争からの別れを意味していると同時に、愛しい恋人の愛からの別れを意味している。しかし、ヘミングウエイの希望にもかかわらず戦争との別れは実現していない。第1次大戦の後第二次世界大戦が起こっている。その後も世界のどこかで戦争が起こっており争いは絶えない。そのために何十万、何百万と云う愛し合う人々が殺されている。戦争の無い世界、それはあくまでも希望であり、願望であり、見果てぬ夢なのかもしれない。ヘミングウエイの追求した戦争と愛それは罪と許しと云い換えて良いかもしれない。戦争の持つ人間の悪=罪と人間の持つ生への願い=愛、それは同じ人間の両面であり、矛盾しあう。そして愛は人間の罪によって押しつぶされて行く。それは生きることの不条理であり、死はその解決である。
ドストエフスキーの追求した神、そしてヘミングウエイの追求した人間の悪=罪この二人の作品を併せ読むことにより、罪、罰、許しとは何かが解明できるのではなかろうか?
戦争の世紀と云われた20世紀、果して21世紀は戦争から解放されるのであろうか?人間の罪に対する許しは何によってもたらされるのであろうか?
ヘミングウエイ作『武器よさらば』高見 浩訳 新潮文庫より
時は第一次大戦中1915年から始まる。場所はオーストリアと北イタリアの東部国境に広がる山岳地帯(現在のスロベニア共和国に近いゴリツィア、ウディネからタリアメント川に到る一帯)、物語はこの地帯を舞台として展開されたイタリアとオーストリアの戦争にイタリア兵士として参加したアメリカ人の僕(傷病兵の運搬部門に所属する陸軍中尉)と、この地で傷病兵の看護に当たる看護師キャサリン・バークレイとの激しい恋と冒険の物語である。
僕は前線の傷病兵の救護に向かう途中に敵の砲弾を受けて負傷する。ミラノの赤十字病院に送られ、入院する。そこで負傷する前に知り合い恋していたキャサリン・バークレイの訪問を受け、その恋は再燃し、本格化する。砲弾のかけらを取り出す手術が行われ、傷がいえるまでの間、彼女は付き添い看護師として夜も眠らずにその看護に情熱を傾ける。二人の愛は深められ彼女は妊娠する。傷が癒えた後、ぼくは原隊への復帰を命ぜられる。キャサリンとの別れが訪れ二人は再会を誓う。僕は任地のゴリツィアに戻る。これはイタリアに赤十字要員として従軍し、両足に負傷したヘミングウエイ自身の体験がもとになっている。ヘミングウエイは「シカゴ郊外に生まれ1918年第一次世界大戦に赤十字要員として従軍し負傷する。1921年~1928年までパリにすみ『我らの時代』『日はまた昇る』『男だけの世界』等を刊行。その後『武器よさらば』短編『キリマンジェロの雪』等を発表。スペイン内戦、第二次世界大戦(1939年~1945年)にも従軍記者として参加。1952年にピューリツァ賞を受賞。1954年ノーベル賞を受賞、1961年猟銃で自殺」(新潮文庫『武器よさらば』の裏表紙の解説より)。自殺の原因は種々言われているが鬱病によると云うのが有力である。
第二次世界大戦ではイタリア、ドイツ、日本と枢軸国に加わっていたイタリアは、オーストリア皇太子の狙撃とその死で始まった第一次世界大戦では最初こそドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、オーストリアとの間に領土問題を抱えており、仏伊との通商条約を盾に、中立を宣言していた。しかし1915年にイギリス、フランスの働きかけにより、ロンドン協定に調印し、三国同盟を離脱し連合国側として第一次世界大戦に参加した。この戦争は最初はヨーロッパ諸国の戦争であったが後にアメリカ、日本、多くの植民地が参加し多数の参加国を含む世界大戦になった。この戦争は史上初の世界大戦であり、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行機と云った近代兵器を誕生させ、膨大な人的、物的損害の末に1918年11月に連合国側の勝利により終了した。
イタリア、オーストリアの国境地帯の戦いは一進一退を繰り返していたが、最終的にはイタリア側の勝利に終わるのではないかと思われた。しかしオーストリア側はドイツに援軍を求め、その支援のもと、指揮権を握ったドイツ軍の大攻勢が始まり、1917年ドイツ・オーストリアの連合軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの敗北)。イタリア軍上層部は敗勢を立て直す抵抗ラインをカポレットからはるか西方のタリアメント川に設置したため、部隊も、民間の避難民もそこを目指して悲惨な逃避行を余儀なくされた。その状況が、この作品において赤裸々に描かれいる。
ゴリツィアにいた僕らの部隊にも退避命令が下る。3台の車に医療機械、薬品などを積み運転兵のアイモ、ボネッロ、ピアーニの3人と分乗し、降りしきる雨の中、闇をついて退却を開始する。退却は混乱を極めた。大砲を引いた兵士の隊列、軍用品を積んだ多くのトラック、家財道具家畜までも積んだ民間人の荷車、歩兵部隊、さらに脇道から多くの避難民、兵士が入り込んでくる。たちまち渋滞となる。列の前方で事故が起こったらしい。全く動かなくなる。様々な情報が飛び交う。ドイツ軍のスパイが混乱を狙ってデマを流しているらしい。一本の道は身動きできなくなる。そんな中最悪なことに車が泥濘にはまり込んで動かなくなる。押せども引けども動かない。後ろからはドイツ軍が、上空には飛行機が僕らを狙っている。仕方がないので車を捨てる。本道を避けて近道を考え畑の中に出る。イタリア兵から発砲を受ける。ドイツのスパイと間違えられたらしい。マイモは射殺される。ボネッロは行軍の辛さ、マイモの射殺に恐れをなし、ドイツ軍の捕虜になる道を選んで去っていく。指揮系統は乱れに乱れ、誰が命令しているのか、命令そのものがあるのかすら分からなかった。そのため退却の群れはまさに烏合の衆であった。それでも部下の運転兵のピアーニとともにタリアメント川に差し掛かった時、野戦憲兵(その任務は国によってさまざまであるが共通していることは、軍内部の犯罪、規律違反、の取り締まりであり、逮捕権、裁判権、執行権を持ち、軍内部ににらみを利かしていた)に捕まる。そこでは原隊を離れた少佐以上の将校が。脱走兵として処刑されていた。さらにドイツのゲリラやスパイと見做された兵士も処刑されていた。僕はドイツのスパイと見做されたようだ。何を云おうと聞く耳を持たない憲兵である。尋問を受けるか脱走するか、考える余地はなかった。他の将校を尋問しているすきを狙って、そばにいた憲兵を突き飛ばして川に飛び込む。後ろから銃声が響く。尋問を受ければ処刑は確実だ、しかし、脱走すれば可能性は少なくても生き残れるかもしれない。僕には僕の子を宿して、ぼくの帰りを心待ちにしているキャサリンがいる。今死ぬわけにはいかない。流木に捕まり、泳ぎ切り、岸に上り、ミラノ行の汽車に飛び乗り、ミラノで恋人キャサリンに再会する。僕は脱走に成功したのである。
しかし、このままだと僕は脱走兵である。捕まれば死刑になるかもしれない。憲兵は捜索を開始するであろうか?川でおぼれ死んだと思うだろうか?後に残ったピアーニは何と上司に報告するだろうか?おそらく戦死したというであろう。混乱に混乱を重ねた逃避行である。何人もの脱走兵が出ているし、行方不明者も出ている。ドイツ兵に殺害された兵士も多くいる。詮議のしようがあるまい。そんなことよりもいまはゆっくりと休みたい。こうして僕はひとまずキャサリンのもとで疲れをいやしたのである。そしてホテルで至福の一夜を過ごしたのである。新聞によるとイタリア軍はタリアメント川では持ちこたえることが出来なかったという。ペアーベ川に撤退中と云う事であった。結局この敗北によってイタリア軍は敵の捕虜になった24万人の兵士を含め、30万人の兵を失ったという。翌日はホテルのバーテンと釣りを楽しみ、夕方にはフレッグ伯爵とビリャ―ドを愉しみ、夜はキャサリンと素敵な一夜を過ごしたのである。しかしこの生活も長くは続かなかった。翌日バーテンがやってきて、ぼくは逮捕されるという。タリアメント川の敗北で多くの脱走兵が出ているのでその詮議で私服を着た兵士は、はじから逮捕されているという。私たちはバーテンのボートを借りてスイスに逃亡することにする。スイスでは外交的配慮から、イタリア人の入国を拒否しているという。しかし幸いのことに僕とキャサリンはアメリカ人とイギリス人であってイタリア人ではない。国籍を証明するパスポートも持参している。スイスに逃げ込んでしまえばもう安心である。湖上をスイスに向かってバーテンのボートに乗って逃走する。いろいろと困難はあったが、無事にスイスに到着する。勿論スイスの警察に逮捕はされたが、パスポートもあり、現金もたくさんあったので、彼らは好意的であった。観光客として処理された。しかしボートは没収された。
スイスでの生活は快適であった。キャサリンは出産に備えて準備を始める。予定日は1カ月後だという。一番楽しい時である。出産に必要なものを買い集める。彼女の顔は輝き喜びに満ちていた。式も挙げなければならない。しかしこんな大きなお腹で式を挙げるのは嫌だと彼女は云う。出産後のスリムな体で式を挙げたいと云う。僕に異存があるわけがなかった。僕らは出産後の夢を語る。将来にはバラ色の人生が待っている。そこには出産前の喜びがあった。出産後に来る幸せな生活は保障されているはずであった。僕らは幸せであった。もしも悲劇が起こらなければ。陣痛が始まりキャサリンは入院する。難産であった。帝王切開の結果生まれた子は死産、へその緒が首に巻きついた窒息死であった。キャサリンは帝王切開の結果生じた大量出血のため、意識不明となり、ぼく、医師、看護師たちの切なる願いもむなしく意識を回復することはなかった。全てが終わった後、ぼくはただ一人病院を後にし、雨の中を歩いてホテルに戻った。ここで物語は終わっている。
この作品の中には先に紹介したドストエフスキーの扱うことの無かった戦争が扱われている。ドストエフスキーは神の問題を扱い、神がいなければ何でもできると云っている。この神のいない世界(悪魔の支配する世界)が戦争である。ヘミングウエイは戦争の持つ残酷さ、残虐さ、悲惨さ、非道さを描くことによって、人間性が破壊されて行く様をを描いている。ヘミングウエイは実際に従軍し、またジャーナリストとして数々の戦争に参加し感じたことは戦争の持つ本質的な悪=罪であった。その罪と罰、そして許しとは何であろうか?戦争に翻弄され、希望や夢や願いが敢え無く消え去った『誰がために鐘は鳴る』のロバートとマリア、過酷な戦争には生きぬいた僕が何故恋人のキャサリンを失わねばならなかったのか?それはともに人間が耐えねばならない罪であり罰なのであろうか?ヘミングウエイはおそらく唯物論者であろう。彼の作品には神と云う言葉は出てきても重要な意味を持っていない。だから戦争の持つ悪=罪を告発しても、それからの解決の道を示していない。示すことが出来ない。人間とは限界のある存在であり、絶対善(神)と絶対悪(悪魔)の中間にあり、両者の間を揺れ動く存在である限り、その知恵に大幅な信頼を寄せるわけにいかない。戦争は人間の知恵を超えていつでも起こりうるのである。
この作品の原題は「A farewell to arms」である。armsと云う言葉には、武器、戦争と云う意味があると同時に、腕と云う意味がある。複数形だから両手であろう。愛すべき両腕、固く抱きしめる腕=愛を意味している。「A farewell to arms」という題名は希望的願いとしての戦争からの別れを意味していると同時に、愛しい恋人の愛からの別れを意味している。しかし、ヘミングウエイの希望にもかかわらず戦争との別れは実現していない。第1次大戦の後第二次世界大戦が起こっている。その後も世界のどこかで戦争が起こっており争いは絶えない。そのために何十万、何百万と云う愛し合う人々が殺されている。戦争の無い世界、それはあくまでも希望であり、願望であり、見果てぬ夢なのかもしれない。ヘミングウエイの追求した戦争と愛それは罪と許しと云い換えて良いかもしれない。戦争の持つ人間の悪=罪と人間の持つ生への願い=愛、それは同じ人間の両面であり、矛盾しあう。そして愛は人間の罪によって押しつぶされて行く。それは生きることの不条理であり、死はその解決である。
ドストエフスキーの追求した神、そしてヘミングウエイの追求した人間の悪=罪この二人の作品を併せ読むことにより、罪、罰、許しとは何かが解明できるのではなかろうか?
戦争の世紀と云われた20世紀、果して21世紀は戦争から解放されるのであろうか?人間の罪に対する許しは何によってもたらされるのであろうか?
ヘミングウエイ作『武器よさらば』高見 浩訳 新潮文庫より