日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第145回芥川賞候補作『ぴんぞろ』戌井昭人作

2011年10月23日 | Weblog
 第145回平成23年度上半期芥川賞は、選考委員会の2時間にも及ぶ慎重の討議の結果、該当者なしと決定したという。候補作は6編。これらの作品は平成22年12月1日から平成23年5月末日までの6ヶ月間に発表された作品であり、予選を通過したものである。
 文藝春秋9月号には、この6作品のうち戌井昭人氏の「ぴんぞろ」(『群像』2011年6月号掲載作品)が載っていたので、その内容について紹介したい。他の作品に比べ相対多数を獲得したのであろう。
 この作品「ぴんぞろ」は、前半と後半に分かれている。前半では浅草界隈の底辺社会にうごめくダメ人間の群像が描かれ、後半では、雪深い群馬の山奥の劇場が舞台として描かれる。この作品の主人公は今井という名の「おれ」である。前半の「おれ」は浅草の底辺社会に生きる芸能人に脚本を提供して、細々と生きる脚本家であるが、どこか間の抜けたダメ人間の一人である。後半の「おれ」は、ストリップ劇場の司会者としてデビューするが、酔客を相手にして、オタオタするだけで、三味線弾きの、ルリ婆さんの助けが無ければ、座を白けさせてしまうダメ司会者である。

  底辺社会の群像
 このように前半の「おれ」はなんともしまらない男で、一緒に住んでいた女に甲斐性なしと蔑まれて逃げられたり、競馬で儲けて買った8万円の中古スクーターを、買った1週間後に、よそ見運転で電信柱にぶつけて廃車にしたり、といいところの無い、人生の脱落者寸前のダメ人間である。この地域の、しまらない男は「おれ」ばかりでなく、自転車を盗まれて、お前の取り締まりが悪いからと警官にからみ、警官の白い自転車をおれによこせと、叫んでいる男がいたり、酔っ払いに暴行されて泣き叫んでいる歳とった娼婦がいたり。ズボンのチャックをおろし道路の真ん中で、ふにゃらーになったチンポコを丸出しにして放尿をしている浮浪者がいたり、出刃庖丁を振り回してあたりを騒がしているシャブ中毒の男がいたり、チンチロリン賭博という秘密の賭場を開いているヤーさんがいたり等々、世間の底辺社会にうごめくダメ人間たちの群像が描かれている。

  座間カズマという男
 この底辺社会の一角に、「おれ」がお世話になっている「はせがわ芸能社」がある。副業として俳優養成所も営んではいるが、ここから育った芸能人の話は聞いたことが無い。そこに「おれ」は原稿を届けに行く。この芸能社で「おれ」は座間カズマという芸人と知り合う。この男はコメディアンで、下手なジョークで人を笑わしていたが、最近奇術を始めたという。そのほか、結婚式の司会や、発表会の進行役などで何とか食いつないでいる売れない芸人である。この男と一緒にチンチロリン賭博に巻き込まれて「おれ」はひどい目にあう。必ずもうかるからといって2万ほど貸せという。5万円にして返すという。みみっちい儲けではあるが儲かるというから、博打場に同行する。この話を信じたのが「おれ」の運のつきであった。風間は覚えたばかりの奇術を使ってイカサマ博打を試みたのだが、イカサマがばれて、胴元の怖いヤーさんに凄まれて、心臓の弱い風間は頓死してしまう。その処理を「おれ」がしなくてはならない。博打そのものが法律違反のため、救急車を呼ぶわけにもいかず、仕方が無いので「はせがわ芸能社」まで担いで帰る。心臓が弱いということもあって病死で切り抜けたという。
 さてこれからが、後半である。

  「おれ」、リッちゃん、ルリ婆さんの奇妙な共同生活
 風間は先に述べたように、結婚式の司会や、発表会の進行役で食っていた。頓死する前に受けた温泉場の宴会場の司会があるという。断れない事情があるので、この「おれ」に代わりを務めてくれという。群馬の山奥にある旅館の仕事場だという。そんなところへ誰もいきたがらない。しかも10日も滞在しなければならない。勿論、住まいもあるし、飯も出るし、給料も支払われるという。当然の話である。作家というのはペンと紙さえあればどこでも出来る仕事である。「おれ」は引き受ける。しかし、引き受けたものの司会なんてやったことが無い。「酔っ払いが相手だから適当にやれば良い」と長谷川のおっちゃんは言う。とにかく出かけたのである。
 群馬県の山奥のひなびた温泉場に、電車とバスを乗り継いで到着する筈であった。しかし「おれ」は道を間違えてハイキングコース歩くという遠回りをしてしまった。しまらない話である。しかし途中猿にも会えたし、静かな清流を楽しむことが出来たし、山道は険しかったが、それなりには趣もあった。何とか仕事場である「サウス劇場」に到着する。そこはヌード劇場であった。「おれ」はここで三味線弾きのルリ婆さんと、リッちゃんというルリ婆さんの孫に出合う。まだ若い22歳の踊り子である。2階の3畳ほどの狭い部屋が「おれ」の寝所として提供される。昔ここでエロショウをやっていたという。
 仕事は、ストリップショーの前説と、その後は照明係。宴会場で「おれ」の仕事が始まる。見事に酔っぱらった連中が相手である。何を言っても反応が無い。「早く女の裸を見せろ」「とっとと消え失せろ」座布団は飛んでくるは、ビール缶は飛んでくるは、お終には、残り物の刺身が飛んでくる。握り飯が飛んでくる。収拾がつかない。「おれ」の出る幕ではない。やっとルリ婆さんが出てきてエロチックパホーマンスでその場を切り抜ける。その後はリッちゃんの登場である。素晴らしい身体と、力強い踊りは、観客を魅了する。野生動物の様な清々しさがある。同時に艶めかしさもある。それに合わせ奏でるルリ婆さんの三味線からは、情念が噴出し、その場の雰囲気を妖艶にゆがめていく。「おれ」はそんな舞台に見とれ、聞き惚れる。本番のストリップショーが始まる。衣装替えしたリッちゃんの顔には「おかめ」の面があった。リッちゃんは踊る。着物は徐々にはだけ素裸になる。真っ黒な陰毛はそそり立つ。そこで「おれ」は照明を落とす。隠微な想像が、お客たちを包む。踊りは終わる。お客たちは拍手喝采する。
 かくして「おれ」の最初の一日は、何とか無事に終わる。10日のつもりなのに正月までやれという。暮れは忙しいという。「おれ」がいなくなったら代わりがいないという。帰ってはダメという。ヤレヤレである。
 かくして、おれたち3人の奇妙な共同生活は始まる。ショーはホテルの宴会場と、宴会の無い時は「おれ」達の住む「サウス劇場」でも行われる。内容は同じである。「おれ」は受付で入場料3000円也を貰っている。高いのか安いのかは判らない。
 ルリ婆さんは仕事の無い昼間は駅前のパチンコ屋で稼いでいるが、あまり儲からないとこぼしている。リッちゃんは昼間は寝てばかりいる。夜は悪夢をみるので、怖いという。だから夜は寝ないという。クロスワードパズルばかりやっている。
 温泉地でありながら、「おれ」は住まいの風呂にしか入っていない。ルリ婆さんに誘われて地元の人の入る公共浴場に行く。温泉は公民館の一角にあり、2階には集会場や会議室がある。集会や会議の無い時は温泉客の休憩室になっていた。
 その休憩室で、風呂上がりの一杯を飲みながら、「おれ」は、ルリ婆さんと、いろいろと話をする。リッちゃんの母親や、父親の話である。母親は男にだまされ、その上借金まで背負わされ、傷心を抱いてこの温泉場に流れてきたが、「オニバ」と呼ばれる、ガスが大量に噴き出す源泉に入り込み自殺したという。リッちゃんを道連れにしなかったことが唯一の救いだったが、馬鹿な女だとルリ婆さんは云う。
 父親は、山師で、南米や、アルゼンチンを宝石を求めて歩き回っていたという。そのうちに行方不明になってしまった。放庇芸の出来る芸人で、芸で身を立てれば、そこそこのところまでいったのにとルリ婆さんは残念がる。

  ルリ婆さんの事故死
 大晦日を数日後に控え、雪の降る寒い日、パチンコ屋へ行って、いつもは帰ってくる時間になってもルリ婆さんは帰ってこない。出玉が多い日はそんなこともあるので、仕方なくテープを回し、酔客を相手にしていたが、いつまでたっても帰ってこないので「おれ」達は、心配していた。その時、ホテルの従業員が血相を変えて飛び込んできて、ルリ婆さんの乗ったバスが崖から転落し、乗客は救急車で駅前の病院に運ばれたという。
 「おれ」達は、タクシーを飛ばして病院まで行くが、すでにルリ婆さんは息を引き取った後であった。亡くなったのはルリ婆さんだけだった。遺品の紙袋の中にはパチンコの景品の、羊かんが5本と、缶詰が数缶入っていた。
 事故から3日目にルリ婆さんの遺体を火葬場で焼いてもらう。家に帰ってうどんを喰う。冷たい身体には温かいうどんは美味しかった。なんだか物悲しく寂しかった。その後リッちゃんと二人で風間の遺品であるサイコロを取りだして、チンチロリン博打をやる。「おれ」には良い目は出なかったが、リッちゃんには良い目が出まくった。ぴんぞろまで出た。そして夜中まで続けた。しかし慰めにはならなかった。ただ寂しいだけだった。ルリ婆さんの存在は「おれ」達にとっては、とても、大きかったのである。
 10日の滞在のつもりが、気がついてみれば、すでに大晦日。仕事は無かった。「東京に帰ろうかな」「一緒に東京行かない?」「おれ」はリッちゃんに言う。「おれ」はいつの間にかリッちゃんに惚れていた。リッちゃんも「おれ」に惚れていたらしく2階で寝ていたら突然やってきて「おれ」の布団に入り込んで抱きついてきた。「おれ」も抱きしめたが、そのまま何もしないで眠ってしまった。母親には死なれ、父親は行方不明、ルリ婆さんには事故死で亡くし、「おれ」も東京に帰るという。天涯孤独になってリッちゃんは寂しさに耐えられなかったのであろう。頼れるものは「おれ」以外に無かったのである。「おれ」はそんな彼女が愛おしかった。「やっぱさ、東京に連れて行ってもらおう」「今すぐ」「うん!」
 2人で浅草に行く。取りあえず「はせがわ芸能社」へ行くことにする。かつてはルリ婆さんのひも的存在でもあった長谷川のおっちゃんに、彼女の死亡の報告もしなければならないし、久しぶりにも会ってもみたい。しかし芸能社は火事で無くなっていた。長谷川のおっちゃんは軽傷ですんだという。
 酉の市で賑っていた鷲神社も、今は閑散として、ひっそりとしていた。初詣の準備をしていた。「おれ」達二人は腕を組み賽銭箱の前に立った。座間のサイコロをその中に振り込んだ。その目は「ぴんぞろ」であった。隣をみるとりちゃんの顔は「おかめ」に代わっていた。

 資本主義社会は競争社会である。競争社会には勝者がいると同時に敗者がいる。敗者は必ずしも個人的責任によるものではなく、社会的責任から生じることが多い。彼らは倒産、経営危機によるリストラ、等々の原因によって失業したり、遠方に飛ばされて、耐えきれず自主退職したりする。勿論人生の落伍者にならないよう、それなりに努力するものの、復活がならず、そのまま社会の底辺に沈み込んでしまう。そんな人間の住む社会が底辺社会である。東京の山谷、大阪の鎌ヶ崎が、かつて、底辺社会として存在していた。今は知らない。
 この作品の前半で、浅草の一角にある底辺社会が描かれる。ホームレスがいる、掏り、カッパライがいる。麻薬の売人がいる。その中毒患者がいる。秘密の賭場を仕切るヤーさんがいる。何で生活しているかは、よく分からないが、とにかくそれなりに彼らは生きている。ドヤ街と云われる安宿群がある、安い飯屋がある、古着屋がある。プライドや、名誉を捨てれば、案外、自由で気ままに安楽に生きていける社会である。福祉の手を拒否する特殊な世界がそこにある。それが底辺社会である。そんな底辺社会に「おれ」「長谷川のおっちゃん」「座間カズマ」などのこの作品の登場人物が生活している。「ルリ婆さん」は長谷川のおっちゃんの経営する芸能社で踊っていたという。彼が罪を犯し流れついた時、彼女は、彼を自分のヒモとして養ったという。
 ひょんなことから群馬の山奥で働くことになった「おれ」は、そこで「ルリ婆さん」と「リッちゃん」と出会う。3人の可笑しな共同生活が始まる。その生活は貧しいながらも充実しており、「おれ」は、リッちゃんに恋心を抱く。
  東京・浅草と、群馬の山奥、共に底辺の生活を描いているが、そこには現代社会が、今、忘れ去った、堂々と、健気に生きる人達の、お互いがお互いを思いやる優しさがある。
 この作品には現代社会の持つ不条理に対する正面切った批判は無い。底辺社会にも、それなりの存在感があるのだと、肯定的に描く。
 だからこそやりきれない寂しさがある。

        月刊『文芸春秋』9月号掲載作品 戌井昭人作「ぴんぞろ」 文藝春秋社発行

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