★神の愛・人の愛★
いま、僕は72歳。そろそろ終い支度をしなくてはならない。日本人男性の平均寿命79歳にはまだ達してはいないが、人生の晩年に差し掛かっていることは事実である。後どんなに生きても30年は生きられないであろう。
この歳になって考える事は、人生の目的とは何であり、いかに人は生きるべきかと、いうことである。
ものごとは移り変わり、形あるものは、必ず滅びる。これは例外なく、全ての生き物に共通の宿命である。人に限って言えば、人は神の意志によって生まれ、神の恵みによって生かされ、人を愛し、子をうみ、神のみもとに戻っていく。生は一時的であり、死は永遠である。だから墓は石で作られる。石は永遠の象徴である。肉体は滅びても魂は生き続けると云う。墓は魂の安住の場所である。そこには神の国がある。神は永遠、かつ無限の世界の支配者である。
神が人を作り、人を活かす。運命である。運命は神が作る。人は運命を作れない。人は神の作り賜うた運命に従って生きるだけである。しかし、人はそれを知らない。だから悲喜劇が起る。しかし、神の役立つ事をしたものだけがその運命を変えることが出来る。神の愛である。奇跡と言ってよいかもしれない。その典型例は、十字架と、復活である。キリストは神の愛により処刑後3日にして復活した。キリストは神の愛によりその運命を変えたのである。神による奇跡は、このように一方的に人に与えられるもので、人が望んで得られるものではない。誰に与えられるかは神のみぞ知るであって、不可知であり、不条理である。神は自分のために人を作ったのであって、人のために人を作ったのではない。神は人に愛というめぐみを与え、その代償を求める。それが神への信仰であり、絶対的服従である。ここには神と人との契約が存在する。ここから結論できる事は、人生の目的は神と共にある、と云うことである。人への愛と神への信仰。人生の目的は神が人に与えた恵みを、神に返していくことにある。
神はその愛により宇宙を創造し、その一環として地球を創造した。人も創造した。そして神は自分の愛の遂行者として人の世にキリストを遣わした。十字架と復活という奇跡によって、神とキリストは一体化し、その愛を遂行する。このように神の本質は愛であり、それに伴って人の目的も神の愛の遂行となる。
しかし、ここに神の存在を否定する人が現れる。神がいなければ全てが許されると云う。人は神から自立すると云う。精神の自由があると云う。彼らは神の支配からの解放を夢見る無神論者である。そこには神がつくり賜うた秩序、モラルの否定がある。
神からの解放を唱えた無神論で混乱を極めている地球を、世界を救えるか?神の秩序に代わる、人の秩序を確立できるのか?その立場を表現する根本原理とは何か?無神論者は神を否定する。しかし、神が人を作ったのであって、無神論者が主張するように、人が神を作ったのではない。神は、永遠、無限の存在であって、始めも無ければ終わりも無い(ここから、神は誰がつくったのか?という議論、また創造者を求めて永遠に遡る議論も無意味となる。神は異次元の存在であり、人の世界の常識は通用しない)。人の前に神がいる。これは否定の出来ない事実である。神は人を否定できるが、人は神を否定できない。無神論者によってつくられた国(ソ連邦および東欧諸国)は崩壊した。そこには神による裁きがある。無神論者は、自分自身も神の創造物だと云うことを理解しない。
神の居ない世界は、悪魔の支配する世界である。今、神を信じない連中が世界の平和を乱し、神の作り賜うた地球を破壊している。
今こそ、神の愛が必要なのではないのか?人の愛が必要なのではないのか?世界平和と地球の再生、それは神の「愛」無くしては達成できないものである。『光のあるうちに、光の中を歩め』(トルストイ)まだ間に合う。終末論に道を開いてはならない。
これは前回書いた「神とは何」の続編である。そのつもりで読んでほしい。
いま、僕は72歳。そろそろ終い支度をしなくてはならない。日本人男性の平均寿命79歳にはまだ達してはいないが、人生の晩年に差し掛かっていることは事実である。後どんなに生きても30年は生きられないであろう。
この歳になって考える事は、人生の目的とは何であり、いかに人は生きるべきかと、いうことである。
ものごとは移り変わり、形あるものは、必ず滅びる。これは例外なく、全ての生き物に共通の宿命である。人に限って言えば、人は神の意志によって生まれ、神の恵みによって生かされ、人を愛し、子をうみ、神のみもとに戻っていく。生は一時的であり、死は永遠である。だから墓は石で作られる。石は永遠の象徴である。肉体は滅びても魂は生き続けると云う。墓は魂の安住の場所である。そこには神の国がある。神は永遠、かつ無限の世界の支配者である。
神が人を作り、人を活かす。運命である。運命は神が作る。人は運命を作れない。人は神の作り賜うた運命に従って生きるだけである。しかし、人はそれを知らない。だから悲喜劇が起る。しかし、神の役立つ事をしたものだけがその運命を変えることが出来る。神の愛である。奇跡と言ってよいかもしれない。その典型例は、十字架と、復活である。キリストは神の愛により処刑後3日にして復活した。キリストは神の愛によりその運命を変えたのである。神による奇跡は、このように一方的に人に与えられるもので、人が望んで得られるものではない。誰に与えられるかは神のみぞ知るであって、不可知であり、不条理である。神は自分のために人を作ったのであって、人のために人を作ったのではない。神は人に愛というめぐみを与え、その代償を求める。それが神への信仰であり、絶対的服従である。ここには神と人との契約が存在する。ここから結論できる事は、人生の目的は神と共にある、と云うことである。人への愛と神への信仰。人生の目的は神が人に与えた恵みを、神に返していくことにある。
神はその愛により宇宙を創造し、その一環として地球を創造した。人も創造した。そして神は自分の愛の遂行者として人の世にキリストを遣わした。十字架と復活という奇跡によって、神とキリストは一体化し、その愛を遂行する。このように神の本質は愛であり、それに伴って人の目的も神の愛の遂行となる。
しかし、ここに神の存在を否定する人が現れる。神がいなければ全てが許されると云う。人は神から自立すると云う。精神の自由があると云う。彼らは神の支配からの解放を夢見る無神論者である。そこには神がつくり賜うた秩序、モラルの否定がある。
神からの解放を唱えた無神論で混乱を極めている地球を、世界を救えるか?神の秩序に代わる、人の秩序を確立できるのか?その立場を表現する根本原理とは何か?無神論者は神を否定する。しかし、神が人を作ったのであって、無神論者が主張するように、人が神を作ったのではない。神は、永遠、無限の存在であって、始めも無ければ終わりも無い(ここから、神は誰がつくったのか?という議論、また創造者を求めて永遠に遡る議論も無意味となる。神は異次元の存在であり、人の世界の常識は通用しない)。人の前に神がいる。これは否定の出来ない事実である。神は人を否定できるが、人は神を否定できない。無神論者によってつくられた国(ソ連邦および東欧諸国)は崩壊した。そこには神による裁きがある。無神論者は、自分自身も神の創造物だと云うことを理解しない。
神の居ない世界は、悪魔の支配する世界である。今、神を信じない連中が世界の平和を乱し、神の作り賜うた地球を破壊している。
今こそ、神の愛が必要なのではないのか?人の愛が必要なのではないのか?世界平和と地球の再生、それは神の「愛」無くしては達成できないものである。『光のあるうちに、光の中を歩め』(トルストイ)まだ間に合う。終末論に道を開いてはならない。
これは前回書いた「神とは何」の続編である。そのつもりで読んでほしい。