日常一般

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般若心経と聖書

2013年07月23日 | Weblog
般若心経と聖書

 唐の時代、玄奘法師(西暦600~664年)が西域(インド)にでかけ、そこから持ちかえった無数の教理・教典を20数年かけて漢訳し、60余巻に編集したものが「大般若蜜多経(大般若経)」である。そして大般若経の心髄である「空」に関する経文のみを、一つにまとめたものが「般若心経」である。266文字に集約されており、極めて密度の濃い仏教の核心を衝いたお経である。正しくは『般若波羅蜜多経』といい、「悟りを開くための智慧を説いた教え、核心」と邦訳される。その核心こそ「色即是空」「空即是色」に表されているように「空」である。「空」は、「縁」と並んで仏教では重要な要素である。
 この『般若心経』は、舎利子という釈迦の十大弟子の一人に話しかける形をとっているため、我々凡人には極めて難しい。しかし、われわれ日本人には極めて身近なお経であり、大変親しまれている。写経をする人、音読する人、宙でそらんじる人、と人気がある。「読書百遍、意、自ら通ず」、意味は分からなくとも、これを写経することによって、唱えることによって、心の平安を得ることが出来る。涅槃寂静の世界に入ることが出来る。仏<神>は人の永遠の同伴者である。般若心経」は真実の言葉(真言=マントラ)を説いた経典であり、聖書になぞらえることが出来る。
 般若心経の最初の言葉「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」。これを直訳すれば、「観自在菩薩が、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したもう」となる。これでは素人はなにを言っているのか分からない。瀬戸内寂聴はこれを分かりやすく次のように訳している。「観音さまが、彼岸に渡るための行いを深く実践された時(行深般若波羅蜜多時)、人間の肉体も心もまた、それによって生まれる、一切の苦悩や災厄も(五蘊)、全て空であるとみなされました。そこで、私たちのいっさいの苦悩や災厄を除き、お救いになられました」と。更に言えば人は一切の煩悩を無くして自らを空にすれば一切のとらわれの心が無くなり、救いに至るというのである。この文章は漢字の数からいえばたった25文字に過ぎないが、この25文字が「心経」全体の中心になっており、「般若心経」は結局はこの言葉を様々な立場から言い替えたものに過ぎないのである。
 このように「般若心経」はあくまでもその視座を彼岸に置き、此岸(この世)に生きる人に対して、その罪=煩悩からの救いの方法を示しているのである。それはキリスト教における聖書の役割を果たしているといえるであろう。宗教における根本理念は人間の魂の救済にある。仏教もキリスト教もそこには違いはない。仏教における彼岸への道も、キリスト教における神の国への道も、我を捨てて、信仰に生きることを教えている。イエスは群衆や弟子たちに向かって次のように言う「人もし我に従い来らんと思はば、己を捨て、おのが十字架を負いて我に従え。己が命を救わんと思うものは、これを失い、我が為また福音の為に己が生命をうしなうものはこれを救わん。--------(マルコ8::34~35)」と。
 それでは我を捨てる事とは何を意味するのか?それは心の中に潜む、此岸に執着する心(煩悩)を捨てることである。自らの心を空にすることによって我を捨てることを意味している。

 『般若心経』は「空」の境地を説いている。空とは何ものにも捉われることのない心の状態を表している。このお経の心髄とも言うべき「色即是空」「空即是色」について述べてみたい。色とは万物、万人を表している。「色即是空」とは、生と死を表している。万人万物は死によってすべて滅びる。聖書流に解釈すれば、キリストは十字架上でその命を断たれ死に、空となる。更に、コリント人の手紙Ⅱ2章18節には次のような言葉がある。「我ら省みるところは見ゆるところにあらで、見えぬものなればなり、見ゆるものは暫時にして見えぬものは永遠に至るなり」と。ここには神の存在が描かれている。人は信仰によって永遠の命を得て神の国に入り、救いに至るのである。これが「色即是空」である。では、「空即是色」とはどう解釈するか?万物万人は目に見えない神によってつくられる。旧約聖書「創世記」はこの状況が描いている。また、聖書には次のような言葉も見つけることが出来る。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を結ばん(ヨハネ12:23~25)」と。ここには十字架→復活の構図を見ることが出来る。その中心は十字架である。色とは人であり、空とは神である。キリストの身は無くなっても、目に見えない神の真理は聖書という姿をとって、永遠不滅なる真理として輝いている。これが空即是色の意味である。「色即是空」「空即是色」の中心には「空」があり、空は神を表している。人は神によって「煩悩」を捨て、救われるのである。涅槃寂静の世界に入ることが出来るのである。人は自らの手によって自らを救うことは出来ない。
 以上は色即是空、空即是色をキリスト教的に解釈したものであって、僕自身の解釈であって、一般的な解釈とは異なっている。瀬戸内寂聴は次のように解釈する。「舎利子よ、この世のすべての現象は人の心があると考えれば存在するし、人の心がないと思えば存在しないと同然です。また、そこに実態が見えない時でも人の心があると考えた時には確かに存在するのです」と。このようにすべてを人の心が生み出す幻と見なす。人の意識の問題として解釈する。聞こうとしなければ聞こえないし、見ようとしなければ見えないのである。この考え方からすると、目に見えない神も、人の心があると思えば存在するのである。この考えが一般的であるが、僕は僕の解釈に従って進めていく。

 般若心経は、色即是空、空即是色を形を変えて、次のようにも説く。
舎利子  是諸法空相  不生不滅  不垢不浄  不増不減  と。文字どおり訳せば「舎利子よ、もろもろの法則は実態がない。生れず、滅びず、汚れてもなければ美しくも無い、増えもしなければ、減りもしない」と。これでは何を言っているか分からない。より詳しく解説すれば、不生不滅とは循環を表し、始めもなければ終わりも無い輪を意味する。輪廻転生を表している。不垢不浄とは、全てのものは滅び、灰になり土に返る。そこには美も醜も無い。美も醜も一時的現象であって不変の存在ではない。不増不減は質量不変の法則を表す。形は変わっても(例えば、水は熱によって、固体、液体、気体と変化する)、その質量に変化はない。このようにすべては時間の変化と共に変化し、一時も、固有にして不変の実態に留まることがない。移ろい行く世界である。変化は時間の経過を表し、時間は目にみることのない「空」である。時間は神が支配し、人の智慧の及ぶところではない。「諸行無常」の世界である。
 これまで述べて来たことは、あくまでも人の外の世界を表していたが、これからは人の内なる世界に立ち入ってみよう。それが「諸行無我」の世界である。
 ここには、自分に捉われ、煩悩に執着し、苦しむ人間がいる。その人間が、いかにしてその煩悩から解放され涅槃寂静の境地に至るかを問題にする。
 人の心が生み出す5蘊(色、受、想、行、識)は6根(眼、耳、鼻、舌、身、意)、6境(色、声、香り、味、蝕、法)、6識(見、聞、嗅、味、蝕、知)と結びついて、人に煩悩をもたらす。煩悩のもとは無明(無知、迷いの原因)である。この無明を無くせば、四諦(苦、集、滅、道)も無い。人はとらわれの心を無くし、涅槃寂静の境地に至るのである(言葉の説明は後述する)。

 般若心経は仏の智慧に至る道を示している。
 人はなぜ、煩悩に苦しみ、そこからの救いを求めるのであろうか?それは「人は煩悩に苦しむ罪ある存在であると同時に、霊(仏性)的な存在」でもあるからである。「心経」は説く「煩悩のもとを取り除け(無無明)と。「人の表層に存在する煩悩(罪)を取り除けば、人の深層に存在する霊的存在が浮き上がってきて、涅槃寂静の境地に至るのである」。しかし、人は自らの力によって、煩悩を取り除くことは出来ない。自らの力によって煩悩を取り除くことが出来るのなら仏(神)は必要ない(4諦=無苦集滅道)。人は仏に帰依することによってはじめてその偉大さを知り、自らの無力さを知り、我を捨てることが出来る。仏の存在は絶対であり、無限である。それに対して人は相対的であり有限である。仏を信じることによってのみ、その煩悩=罪から解放されるのである。仏は、自ら信じる者の表層に存在する煩悩=罪を溶かしてくれるのである。人は、仏の智慧を体得して悟りの境地に至る。仏の愛は偉大である。かくして人は変えられ、仏の智慧を獲得する。智慧を完成しているから、そこにはもはや煩悩=罪は無く、全ての不安や、恐れから解放されている。老いや死に対する恐怖も無い。全てを仏の視座より観ずるから、誤った考えに支配されることは無い。人は、究極涅槃(永遠に静かな境地に安住(涅槃寂静)しており)、三世諸仏(現在、過去、未来悟りの境地にいるものは)、以般若波羅蜜多時(知恵を完成しているが故に)得阿耨多羅三藐三菩提(この上なき悟りを得るのである)。
 それ故「般若心経」の言葉は、
是大神呪--------大いなる神聖な言葉であり
是大明呪--------大いなる悟りの言葉であり
是無上呪--------無上なる言葉であり
是無等等呪--------無比なる言葉であり
能除一切苦--------全ての苦しみと、患いを取り除く
真実不虚--------偽りなき真実の言葉である
この言葉を聖書の言葉と読み替えることが出来るであろう。
 般若心経は最後に彼岸に渡る祈りを述べて終わる。
判りにくい「般若心経」を聖書の視点から読み解くと意外と判りやすい。ここに仏教におけるキリスト教の影響を見るものもいるが、結局のところ、あらゆる宗教の目的は、人の魂の救いであり、そこに宗教の持つ普遍性を見るのである。

言葉の説明

五蘊:色、受、想、行、識を表す。
  色:もの、人、現象  受:感覚  想:知覚作用  行:意志  識:認識を言う。要するにものと心を表している。

6根、6境、6識
6根→ 6境→ 6識→ 備考

眼→ 色→ 見る→ 芸術
耳→ 声→ 聞く→ 音楽
鼻→ 香り→ 臭う→ アロマ
舌→ 味→ 味う→ 食欲
身→ 触→ 触る→ 性欲
意→ 法→ 知→ 知識欲

6根(六つの感覚器官)が6境(6根の対象)を感じて6識(六つの識別作用、判断力)として認識する行為。これを18界という。18界は煩悩の原因をつくる。欲望のもとである。

無明:人の心の中にある煩悩

涅槃:迷いのない、こだわりの無い安らかな心の状態。「涅槃寂静」。

4諦:四つの真理
苦、集、滅、道
苦:生、老、病、死、他、人間が必ず通らなければならない道。
集:苦の原因を考えること(無明が生み出すもの)
滅:苦の原因を無くすこと(無明を無くす)
道:涅槃に入る道のり、心がとらわれから解放され、真の自由を得ること

6根(六つの感覚器官)が6境(6根の対象)を感じて6識(六つの識別作用、判断力)として認識する行為。これを18界という。18界は煩悩の原因をつくる。欲望のもとである。