日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

永遠の命 病に悩み、死の恐怖に慄く者へ

2013年09月29日 | Weblog

永遠の命
 ここに集われた人の前で、私の祈祷をお許しになられた神に感謝します。
 僕は、祈祷の意味を誤解していると清水長老は言う。
 しかし、僕はこの教会に集う人々の殆どを知らない。誰が病に苦しんでいるのか、だれが天に召されたのか、その他の色々な事情のある人のことを知らない。だから、残念ながらそれらの人のために祈ることは出来ない。
 だから一般論として祈ることを許してほしい。。
 病に苦しむ人にはその回復のために医療に努め、神に祈り、活力を得ろと云いたい。人事を尽くして欲しい。そしてその結果は神のみぞ知るである。救いの、み技は神が決めるのであって、人が決めるのではない。それが神と人との正しい関係である。回復すれば神に感謝しそれを喜びとしたい。しかし、不幸にして天に召されることがあっても、あなたは既にクリスチャンとして、永遠の命を得ているのである。神はあなたと共にある。永遠の同伴者である。悪霊の入り込む余地はない。安らかに神の国へと旅立って欲しい。
 人は全て死す。先か後かの違いに過ぎない。神を信じるものは、神の国で先に召された人に出会うことが出来る。その出会いを喜びとして欲しい。
 永遠の命を得るためには神を信じろと云いたい。実存が先か、本質が先かと実存主義者は言う。誤解を恐れずに言えば、人が先か?神が先か?と云うことである。人が先と云うものは、われを主張して、神を退ける。神を否定する。神は人が作った幻影であるという。しかし万物は誰が作ったかという問いに応える事は出来ない。万物を作り得るものは神以外に居ない。人は万物を作ることは出来ない。これらの人でも自然の作った美しさ、厳粛さ、豊かさには感動する。それらの人が意識するしないにかかわらず、それが神体験なのである。神は人の目にはみえないが、神は、天上から人を見ることが出来る。神は実存する。人に霊的な啓示を与え、これを救う。神を信じることによって、人の魂はゆるぎないものとなり、心に一本の軸を作り、全てに対してこだわりや罪の意識を無くす。永遠の命を得ているが故に、病や、死に対する恐れや不安は無くなる。安らかに静かに生きることが出来る。これが安心立命の境地である。キリスト教的に言えば、これが救いである。
 病に悩み、死の恐怖に慄く者よ、人事を尽くせ、神に祈れ、そして、心を安らかにして、天命を待て。いずれにしても神はあなたと共にある。
平成25年9月27日(金)
深夜祈祷会
祈祷する人 守武 戢