アダムとエバ
アダムとエバが登場するのは旧約聖書、創世記(1章:26節~4章:2節)においてである。アダムとエバの物語は、神と人との正しい関係とは何かを問うものであり、かつ人間存在の本質とは何かを根源に帰って問うものである。神と人との間には悪魔が介入する。悪魔によって人は罪を負い(原罪)、アダムの子孫である人は、この罪を生れながらにして受け継ぐ<宿罪>。聖書はこの三者が織りなす一大ロマンである。
その前に僕の神体験を語っておこう。
僕は富士山に登ったことがある。一番下から登ったので、5合目に到着したときは既に夕方になっていた。これから登るのは危険なので山小屋に1泊し、翌日の早朝に登ることにした。朝の4時ごろ山小屋を出る。さすが日本一の山である。頂上は目の前に聳えているのにいくら歩いても到着しない。イライラしてしまった。日の出を迎えたのは8合目であった。彼方の水平線に太陽が現れた時、その美しさ、厳粛さ、荘厳さに心打たれて、感動した。思わず手を合わせた。それは僕の意志を超えていた。それが僕の最初の神体験であった。僕が手を合わせている時、ひとりの人が拍手をした。それはそこに集まっていた人たちに瞬時に伝播した。周りは拍手で包まれた。それは感動の拍手であった。彼らは、心に何かを感じたのである。そこに集まっていた人の大部分は、おそらく神とは無縁の人であろう。信じる、信じないというより無関心であろう。そんな人に霊なる山、富士山は感動を与えたのである。いや、富士から見る日の出が感動を与えたのである。彼らの意識の奥底に秘められている神を、感じたのである。それが神体験である。
この時、僕は神の存在を信じた。人々の多くは言う「神は心の中にだけ存在する幻影だ」と。「神を信じる者には神は存在するし、信じない者には存在しない」と。
神は異次元の存在だから人には見る事は出来ない。しかし存在する。神の不可視は、神の存在を否定するものではない。誰がこの素晴らしい美しい自然を創造することが出来るであろうか?誰が、人に癒しを与え、素晴らしい恵みを与えてくれるのであろうか。そして、それは日々更新される。それが神のみ業であることを、われわれは理解しなければならない。この素晴らしい神の創造物の一環として人間は生まれ、生かされている。だから、神に感謝しなければいけない。
アダムとエバの物語を描くのに、何故、僕の神体験が必要なのか?と、人は問うかもしれない。アダムとエバが登場する以前に旧約聖書は、「創世記」において神の存在を示し、神は、5日間をかけて『天と地と、その全ての万象を完成された。』(創世記2章1節)のである(天地創造)。神の存在を認めない限り、この聖書の叙述は神話になってしまう。 このように天地創造の物語は一部の学者が主張するように神話ではない。神は実存する。
目に見えないだけである。「あって、あり続ける存在(出エジプト3章13~15節)」である。「ある」とは空間を意味し、「あり続ける」とは、永遠の時間を意味する。この無限かつ永遠の、時空を超えた存在が神であり、神は、万物万象を作り、これを支配する。そして、この神と対抗するものとして存在するものが悪魔である。悪魔は、世界が終末を迎え、神によって滅ぼされるまで、この世を裏で支配する。
神は、5日かけて天と地と、あらゆる生き物を創造(旧約聖書、創世記1章1節~25節)した後、6日目に神は仰せられた。「さあ人を造ろう、我々の形として、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのものを支配するように。」(創世記1章26節~27節)と。そして、人は大地の塵から造られ、その鼻に神は息を吹き込み、神の似姿として生きたものになった(創世記2章7節)。そこが他の生物と違うところである。人は生まれながらにして霊的存在なのである。それは霊的存在としてのイエス・キリストの出現を予知する。神は彼をアダムと名付けた。 「神である主は東の方にエデンの園を設け、そこに主の形作った人を置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(創世記2章15節)。」アダムはエデンの園に置かれる。この地はパラダイスと呼ばれ、神の存在する地上の楽園であり、天国に一番近い場所と云われている。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから別れて4つの源になっていた。この地で神はアダムのあばら骨から女を作る。彼女は後にエバと呼ばれる。この園を前にして、神は人に云う「あなたは、そのどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それをとって食べる時あなたは必ず死ぬ(創世記1章16~17節)。」と禁止命令を出す。しかし、蛇が現れ、食べるように女を唆す。女はこれを食べ、アダムにもすすめる。アダムも、また、これを食べる。ここで2人は恥を知り、イチジクの葉で腰を覆った。神はこれを見て、何故、食べたかと問う。エバは蛇に、アダムは女に責任を転嫁する。しかし蛇は女に、女はアダムに食べる事を強制はしていない。二人は自己責任において、その実を食したのである。神に対する自立した人間の最初の抵抗である。智慧の実は人に責任転嫁と云う知恵を授けたのである。人は責任転嫁に終始しその罪を認める事をしない。神は悔い改めることもせず、罪の自覚も無いアダムとエバに罰を与え、エデンの園から追放する。人は人となり永遠の命は奪われ、食を得るため額に汗して働かなければならない存在となる。女には子を産む時の苦しみを与え、蛇からは、その手足を奪い、一生地を這いまわる存在とする。蛇は悪魔か?聖書によれば、悪魔は神と対等な立場にいる。ここに現れる蛇はあくまでも、悪魔の化身であって、その使いである。蛇は悪魔そのものではない。悪魔は、蛇の背後にいる。このように、神は、蛇、女、アダムにそれぞれ、先に述べたような罰を与える。その罰を聖書は、創世記、3章14節~19節に詳しく書いてあるので参照して欲しい。人は塵から生まれ塵に帰ることを運命づけられる。神はエデンの園を閉じ、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の環を置かれた(創世記3章24節)。人は、いのちの木に近づくことが不可能になり、永遠の命を奪われたのである。これが原罪である。人はこの原罪を引き継ぐ存在となる。「その罪を憎んで、その人を憎まず」神はその罪を罰して、人をエデンの外に追放するが、人としての再生を許す。そこには神の愛がある。アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ。(創世記5章5節)。旧約聖書の登場人物はみんな常識外れに長生きである。しかし、エバがいつ死んだかの記述は聖書には無い。
天地を創造し人を含め万物万象を創造した神は、当然、人の世界にも介入し、自分の意志を貫く。十戒に示されているように人間のモラルも、社会の掟も、神の意志によって造られたのである。聖書は、神の意志を実現するために、人はこの世に生まれたのだということを証明する。神は自分のために人を作ったのであって、人のために人を作ったのではない。神はアブラハムにも、モーゼにもカナンに行き、自分の意志があまねく行きわたる国を作るよう命令する。その為、異教を信じる者、自分に歯向かうものは徹底的に弾圧する。アダムもエバも自分に歯向かったが故にエデンの園を追放された。
旧約の神はその罪を罰する神であり、新約の神はその罪を許す神である。
聖書は言う「最初のアダムは生きたものとなった、最後のアダムは(人を)生かす御霊となった(コリント人への手紙第Ⅰ,15章45節)。」と。聖書はイエスを最後のアダムと呼んでいる。最初のアダムは神によって大地の塵から造られ、最後のアダム(イエス・キリスト)は、神の精霊と聖処女マリアの間に生まれた。共に神によって造られたが、人は土で造られたもののかたち(原罪)を持つと同時に、天上のかたち(聖霊)を併せ持つ矛盾した存在となった。ここに悪魔のつけ入る隙がある。悪魔は絶えず人を誘惑し、神から人を遠ざけようとする。人は神にも悪魔にも近づくことが出来る存在である。それ故、神を信仰することにより、人の心の悪魔は消え去り、その罪は贖えられ、人は霊的に変えられるのである(コリント人への手紙Ⅰ、15章:45節~58節)。
これが、アダムとエバの物語である。
エバの訳語は、新日本聖書刊行会翻訳、いのちのことば社発行「新・改訳聖書」に寄った。イブとも訳される。
平成25年10月8日(火)
報告者 守武 戢
楽庵会
報告者 守武 戢
楽庵会
よけいな話
「卵が先か、鶏が先か」という問いかけがある。答の出ない話である。しかし聖書はこれに答えている。神は天地創造の時、人を除いてあらゆる生き物のオス・メスのつがいを創造されたのである。鶏が先なのである。人の女だけはアダムの骨から造られたのである。しかし、別の場所では、男と女を同時に作られた(創世記第1章27節)とも述べている。いずれにしても、このオスとメスが交わり子孫を残すのである。