人生の転機=神との出会い
この場において、私の祈りをお聞きになってくださる神に感謝します。
今、新年を迎えて、僕の人生に生じた一つの転機について述べてみたい。
僕は一昨年、一つの事件を契機として、40年以上も通い続けていた、某スポーツクラブを追われた。追われたこと自体は問題はない。代わりとなるクラブはいくらでもあるからである。しかし40数年間に培われた、そのクラブの講師、会員、職員との人間関係が損なわれる事は辛かった。勿論、個人的なつながりは保つことは出来たが、それでも辛かった。その事件とは何かとは、公表を憚れるのでここでは述べない。迷惑を被る人がいるかもしれないからである。ただこれだけは書かして欲しい。その事件は向こうからやってきた。僕の意志を超えていた。僕にとっては寝耳に水であった。僕の意識の上では冤罪であった。僕は決して完全な人間ではない。罪と知らずに罪を犯す。意識せずに、人を傷つけたことがあったかも知れない。悲しませたこともあったとも思う。それについては心から謝りたい。事件についてはこれだけに留めたい。
しばらく休んだ後、僕は新しいスポーツクラブを知った。民間の社交ダンスのサークルを知った。詩吟や、テニスは、今も続いている。一番大きな転機はこの日野キリスト教会を知ったことである。ここで神を知り、洗礼まで受けた。
このようにして、今、僕は、教会、新しいスポーツクラブ、社交ダンスサークル、テニス、詩吟と忙しい毎日を送っている。生活は変わったが、充実している。スポーツクラブを追われたことの後悔は、今は無い。新しい人間関係も出来、素晴らしい人達を知り、親しく交わっている。
落ち葉は風を恨まない。神のなさる事は全て善きこと。この認識に至った時、すべては神のみ業であると、受け入れる事が出来るようになった。
多分人は言うと思う。「お前の云うことは宿命論だ。どこに自分があるのだ」と。確かにそうかもしれない。しかし七十二変化の術と、觔斗雲(きんとんうん)の法とを習得し、天空を騒がせ、済天大聖と号した孫悟空も、結局は、お釈迦様の掌の中で、暴れまわっていたに過ぎなかった。我々の人生も神の掌の中にある。そこから外に出る事は出来ない。人は神の掌の中で、自分の人生を力一杯生きればよいのだ。誤れば神は正しい生き方を示してくれる。転機を与えてくれる。決して握りつぶしたはりしない。
神は人の罪の贖いのために、生きた、目に見える存在としてイエス・キリストを天上から人の世に下ろして下さったのである。このイエス・キリストの住まいである教会に参集でき、祈ることのできる喜びを、今、僕は噛みしめている。
これからの残り少ない人生が喜びと、恵みに、満ち、満ちているように、新年を迎えた、今、神と子と聖霊の、み名によって祈ります。 アーメン
平成26年1月1日(水)
祈る人 守武 戢
深夜祈祷会
祈る人 守武 戢
深夜祈祷会