日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

子供たち―福音宣教のため

2014年02月05日 | Weblog

子供たち:福音宣教とは?

 この場において私の祈りを聴いて下さる神に感謝します。
 私は先月(12月)の深夜祈祷会において、人気アニメ「妖怪人間ベム」をもとに造られた、同名の映画について触れ、妖怪人間ベムの中にキリストの姿を見たと云った。これはもともとは子供を対象にしたアニメであり、果たしてこの物語の持つ宗教的意味(神、人の罪、救い)を子供たちが理解できるかという疑問を持った。これについて福音宣教の立場から述べてみたい。
 私はこの物語の筋を述べる事を目的としない。目的はあくまでもこの物語の真意である。
妖怪人間ベムの親子(ベム、ベラ、ベロ)は、人間になりそこなった生き物として描かれている。だから彼らは『人間になりたい』と夢見る。彼らがいつ、どこで生まれたかは、誰も知らない。彼らは、人に仇なす悪魔と戦い、これを滅ぼすことを使命としている。優しく、善良で、正しい心を持ちながらも、命をかけて悪魔と戦う時は、恐ろしい妖怪に変身するため、人からは恐れられ、理解されず、迫害され、差別される。だから彼らは街の片隅の廃屋の中にひっそりと暮らしている。そこには人を姿、形だけで判断する人間の愚かしさが表現されている。
 ある時、ある人がベムに問う『なぜあなたは、自分を差別し、迫害する人間のために働くのですか』と。彼は応える『私が人のために働かなかったら、私は単なる妖怪になってしまう』と。私はここにイエスの姿を見る。イエスは十字架上で自分を十字架にかけたユダヤ人に対して「彼らは自分のやった事を何も理解していないのです」と述べその救いを、神に祈り死んでいった。
 ある人が長老に願う。「私の中から悪を取り除いて下さい」と、その時長老は言う「あなたの中から悪を取り除いたら、あなたは人間ではなくなってしまう」と。ここで作者は人間とはもともと罪ある存在(原罪)だと云っているのである。
 ある時、交通事故で死んだ女性が、遺族の切なる願いが入れられ、永遠の命をもたらす薬を注がれて、悪しき妖怪に変身する。この悪しき妖怪と正しき妖怪(ベム、ベラ、ベロ)との闘いは壮絶である。たこの足のように伸びた手足は容赦なく、ベム、ベラ、ベロを打ちすえる。しかし、この戦いは、ベロ達の勝利に終わる。たこ足のように伸びた足は切断され、罪より解放され、女性はもとの人間に戻り、穏やかに死を迎える。そこには人間の持つ罪との闘いがある。女性は、罪から解放され、救われ、永遠の命を与えられ神の国に召される。人間はこの世において永遠の命を得る事は出来ない。有限の存在だと云うことが明らかにされる。
 この3つのエピソードが示している事は、まさに聖書の精神である。神とは何か、人の罪とは何か、救いとは何か、と云うことである。聖書は色々と語っているがつきつめてみれば、これ以外の事は云っていない。
 この作品は大人が見ても面白いが、あくまでも対象は子供にある。面白いと云う事は、子供にとっては、もっとも重要なことである。眼をぱっちり見開き対象を見つめることである。それは作品に関心を持つということであり、興味をも持つということである、感動することであり、心の底に何かを感じることである。福音宣教の一歩はここから始まる。見るから観るへの転化が、ここより始まる。見るとは目で見ることであり、観るとは心の眼で観ることである。目に見えたものから、雑多なものを取り除き、純化し、深化させ、抽象化して、本質に迫る。それがなされた時、見るは観るに転化する。ここに神との出会いがある。作者の意図は子供たちに伝えられなければならない。作者の意図は物語を通じて聖書の精神を子供たちに伝えることにある。福音宣教とはそういうものである。「神」も「罪」も「救い」も目にみる事は出来ない。だから作者は具体的なものを示して子供たちに迫る。それが「妖怪人間ベム」である。この中には神とは何か、罪とは何か、救いとは何かが語られている。子供たちは、すぐにはこれを理解できないかもしれない。しかし地にまかれた一粒の「種子」は、育ち、成長し、何時か、きっと花咲くに違いない。私はそれを信じたい。聖書の中には、イエスを通じて多くのたとえ話が語られる。数えた事は無いが100を超えるのではなかろうか?イエスは、たとえ話を通じて本質に迫る。 
 学問が、知性に訴えるものとするなら、芸術は感性に迫る。感性の豊かな子なら具体的なものから、神の啓示を直感し、抽象化して本質に迫る事が出来る。全ての物象の根底には神がいる。秀でた作品は人に感動を与える。感動とは神の意志を心の中に直感することである。それを「霊感」と云う。
 子供たちは将来を担う宝物である。彼らに良い作品を、優れた作品を、幼いころより見せ続けさせろという。彼らが悪いものに接したとき、誰からも、何も云われなくとも、研ぎ澄まされた心の中に違和感が生じるという。善悪を知る心は自然に生まれてくるのである。
 日本には欧米のように幼いころより、宗教教育は行われてはいない。戦前、国家神道の名のもとに、「神国日本」のために、多くの兵士たちは『天皇陛下万歳』と叫んで死んでいった。宗教は権力に利用されやすい。そんな反省もあるのであろう。日本では学校教育として宗教教育は行われていない。しかし、自分の心の中に心棒として神を持っているものは、いかなる迫害にも耐え得る事が出来る。ゆるぎの無い心を持つことが出来る。それは権力に擦り寄る事を許さない。それは歴史が教えている。今、宗教法人としての学校、教会、等々で、細々と、宗教教育がなされているにすぎない。今、日本におけるキリスト者の数は全人口の1%に過ぎないと云われている。せいぜい百万人を少し超える程度であろう。福音宣教の必要性を感じるのである。
 今、世界は神を失った時代だと云われている。神なしで生きることのできた時代は既に終わっている。世界は罪に満ちている。自然は破壊され、格差は広がり、世界平和は侵されている。将来を担うのは我々のような老人ではない。子供達である。彼らに私は期待したい。
 神の福音が世界に広がるように、切なる心を持って神に祈ります。
平成26年1月31日(金)
祈る人 守武 戢 
 深夜祈祷会