日本の「節供」とキリスト教
私の祈りを聴いて下さる神に感謝します。
そろそろ5節供の一つ「ひな祭り・桃の節供」が訪れます。今は新暦の3月3日に定められていますが、もともとは桃の開花の時期、旧歴の3月の最初の巳(み)の日に行われていました。正式名(漢名)は上巳(じょうし)の節供と云います。「禊をして穢れを祓い、身代わりの人形に穢れを移して河川、海などに流し、巳(へび)が脱皮するように、身を軽くして、暖かい季節を迎えよう」と云う意味をもっています。ひな人形を飾り、ひし餅や白酒を備えて祝うようになったのは江戸時代の頃からだと云われています。今は、女の子の祭りと云われていますが、本来は、女の子も含めた庶民のものだったのです。
五節供と云っても、今や一般の人にはなじみが薄くなっているので、簡単に説明します。
1,1月7日 人日(じんじつ)、七草の節供
七草粥(邪気を払って、1年の無事を祈る)。
2,3月3日 上巳(じょうし)、桃の節句、ひなまつり(女の子の節供)
菱餅、白酒で祝う
3、5月5日 端午 菖蒲の節供(男の子の節供)
菖蒲酒。関東では柏餅、関西でちまき。菖蒲湯で祝う習俗あり。
4,7月7日 七夕(しちせき)、七夕(たなばた)笹の節供
裁縫の上達を願い素麺が食される。織姫、彦星の話は有名。
5、9月9日 重陽(ちょうよう)、菊の節供
菊の花を飾り邪気を払って長寿を祈る。菊を浮かべた酒を飲む。
私の目的は、節供の説明をすることではありません。
キリストの生まれたイスラエルのような厳しい自然環境の中で生活する人々と違って、四季の明確な日本で、昔から営まれて来た季節や自然に寄り添って、生活出来る、神からの恵みを、享受できる私たちの幸せを知ってほしいのです。
太陽の巡りを観察して、月の満ち欠けから季節の節目を感じ特別な料理や儀式で祝う「節供」の意味を知って欲しいのです。この事により、日常の暮らしや、自分自身を見つめ直し、神に感謝する時間を作って欲しいのです。神は永遠の同伴者なのです。
中東の世界のように、大地の大部分を砂漠に覆われた社会で生きていくためには、厳しい規制が必要です。それなくしては生きていく事は出来ません。ここから一神教の世界が生まれました。民は一つにまとまる必要があるのです。それに反して、豊かな自然に恵まれ、節目、節目で神の恵みに感謝できる日本人からは、一神教の厳しい戒律は生まれません。そこから生まれるものは他を認める多神教です。「古事記」にみられるように、多神教の神はみんなおおらかです。極めて人間的です。だから日本人は全人口のわずか1%がキリスト者であるに過ぎません。多神教の伝統をもつ日本人には、一神教の厳しい教えは馴染まないのです。ここに福音宣教の難しさがあります。
日本人は、人生の節目、節目も祝います。生れた時、七・五・三は神様(神道)、結婚式は教会(キリスト教)、葬式はお寺様(仏教)と、生活の中で何の矛盾も無く定着しています。こんな事は一神教の世界では考えられません。宗教的寛容があります。
私が云いたい事とは何なのか?と問われる事でしょう。私は去年の8月4日に洗礼を受けました。立派なクリスチャンです。でも日本に伝わる文化や、慣習には従いたいのです。大切にしたいのです。日本古来の行事を取り入れることにより先人の智慧に触れ、感動し、日本人の伝統文化の本質を知り、祝いたいのです。
日本には「郷に入っては郷に従え」と云う、処世術があります。生活をしていくうえでいらざる摩擦を起こしてはならないのです。それは日常生活を健やかに保つためのシステムなのです。だから私はクリスチャンとしての心をもちながらも、他を認める心も持ちたいのです。宗教には色々あっても神様は一つだと思いたいのです。
私の願いを神様が認めて下さるように心から祈ります。ア―メーン。
平成26年2月28日(金)
祈る人 守武 戢 深夜祈祷会
祈る人 守武 戢 深夜祈祷会