日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

見返りの愛=与える愛とは

2014年06月05日 | Weblog


    見返りの愛=与える愛とは
 
人が信じるか否かは別として、私たちが生きていく上で欠かせないものが神の存在です。しかし、普段その存在を意識する事はありません。神は目に見えない存在だからです。しかし、神は永遠にわれわれと共にあります。
 苦しい時の神頼みと云う言葉があるように、何か事が起った時、困難に出合った時、悲しみに打ちひしがれた時、私たちは『OH MY GOD』と叫びます。人とは全く勝手な存在です。そんなときにしか意識しないのが神です。神はそんな人にも恵みを与えてくれます。いや、そんな人のために神は存在するのです。癒すべき心を与え、進むべき道を啓示してくれます。
 神の恵みはこれだけではありません。「感謝」と云う言葉を与えてくれます。私たちは『ありがとう』と云う言葉を使います。食事をする時、その恵みを感謝します。美しい自然、素晴らしい芸術作品に接した時、それに感動し、拍手をします。それは感謝の気持ちです。それは神の恵みに対する喜びであり、癒しであり、感動です。
 しかし、これは受ける愛です。他方、与える愛もあります。
受けた愛に対しては返していく愛が必要です。それは、人が神に与える愛です。神の愛は無償の愛だという人がいます。それは一般の人の神理解です。果たしてそうでしょうか?神は人に恵みを与え、その見返りを求めないでしょうか?
 神は、アブラハムに「カナン」の地を与え、その子孫の増大、繁栄を約束しました。その代わり、自分に対して、『完全であれ』と云っています。『割礼』を施せと言っています。それは神に対する絶対的服従であり、絶対的信仰です。その証拠に、神は人に親子・兄弟・姉妹、友人、恋人、親族、財産など全てを捨てろと言っています。それが、煩悩を作りだし、罪を生むからです。しかし、それが人間です。人は生まれながらに罪を背負っているのです。
 神は裏切りを許しません。裏切りに対しては死をもって報います。
 確かに、神は全ての人に対して、門戸を開いています。誰でも入る事は出来ます。しかし、神を知ること、神と交わり、信仰に生きることはたやすいことではありません。神は人知を超えた存在だからです。神に至る道は、奥が深く、「狭き門」です。
 イスラエルは、南北両王朝が滅亡後、『約束の地=カナン』を喪失し、放浪の民となりました。そこにはイスラルの民の罪があり、神の処罰があったのです。そのように、旧約聖書は述べています。1948年のイスラエル国家の建国は神とイスラエルの民との間に和解があったと考えて良いでしょう。神は契約をお守りになるお方です。
 私たちは常に神の声を聞き、自分を見つめ直し、自分は神にとって完全であるかどうかを確認することが必要なのです。受ける愛から与える愛へ、向きを変えて出発せよ。それが神の意志なのです。
 それが忘れ去られているのが現在です。
平成26年5月30日(金) 
祈る人 守武 戢 
深夜祈祷会
div>