モーセ3 民数記2 律法部分を中心に
民数記は物語部分と律法部分に分かれており、今回は律法部分のみを説明する。しかし、両者は、混在しており、はっきりと分れているわけではない。極めて読みにくい。それで律法部分のみを取り出し、これを自分なりに纏めてみた。
律法は、祭儀と結びついており祭司一族であるレビ人がこれを執り行ったのでレビ族に焦点を合わせ、説明していく。
目次
1.神は何故、祭司一族としてレビ人を聖別したのか。レビ人の浄め。
2.レビ人の任務(罪の贖い、祭儀)、その任期。
3.人口調査において何故レビ人は除外され、独自に調査されたのか?
4.レビ族の取り分(嗣業の地を与えられなかったレビ人の生活の基盤は何だったのか)。
5.その他(供物の規定、指定祭日と捧げもの、誓願、嗣業の地とその分配)。
神は、何故、祭司一族として、レビ人を聖別したのか?
レビ人達は祭司一族としてイスラエルの他の氏族とは異なった聖なる任務を神より課せられ祭儀の一切を司式した。では何故神はレビ族をこのようなものとして聖別したのか。
神は次のように云う「見よ、わたしはイスラエルの子らの中から、イスラエルの子らのうち最初に胎を開くすべての長子の代わりにレビ人達を取り分けた。レビ人達はわたしのものになる。なぜなら全ての長子はわたしのものだからである(3章11~13節)」。「その後で、レビ人たちは会見の幕屋に関わる務めに従事する。あなた(モーセ)が彼ら(レビ人)を浄め、彼らを差し上げる供物として奉献した後に(8章14~15節)」と。
レビ族が祭司一族として聖別されたのは神に意志であったことが分かる。この神の意志はどこから生まれたのか?
レビ族はモーセを生み(出エジプト2章1~10節)、アロンを生み、この二人を神は導き、出エジプトを可能にした。その意味では二人は出エジプトの最大の功労者である。神がアロンとモーセを聖俗の長とし、二人の属するレビ族を祭司一族として聖別したとしても不思議はない。しかし、これについては聖書は何も述べていない。
この結果、先に引用したように、レビ人たちは浄められ、神に捧げられるべき供物として、奉献される。その後にレビ一族は幕屋における聖なる任務に就くことになる。
レビ人の任務(罪の贖い、祭儀)、その任期。
先に述べたように、イスラエルの民のうち、神によって聖別されたレビ人だけが祭司一族となり、祭儀を行うのはこの部族の排他的特権となった。更に、この部族の中にも身分的な格差があり、上級管理者(大祭司、祭司)と下級管理者(他のレビ人)に分かれた。上級管理者が祭儀を司式し、下級管理者がこれを補佐した。祭司とは、アロンの子らに他ならずアロン→エルアザル→ピネハスへと引き継がれ、代々にわたる永遠の祭司職が神より授けられた。レビ人たちは氏族ごとにその仕事を分担した。そして、その任期は25歳から50歳までの25年間であった(民数記8章23~26節)。
神は40年間と云う期間、シナイの荒野にイスラエルの民を留め、ここで律法を与えた。イスラエルの民が、神によって選ばれ、信仰者として自立する為にはこの年月が必要だった。雲の柱が動き、イスラエルの民は再び向きを変えて動き始めた。聖なる幕屋は、レビ人とともに動いた。
それではレビ人の行った祭儀とは何であろうか?祭儀とは神仏などを祭る儀式を示す。それは神と人との正しい関係を成立させる宗教的儀礼である。祭儀には供犠を伴う。この祭儀に関して聖書は民数記の28章から29章にかけて詳述している。そこには指定祭日の捧げもの(供物)としての記述がある。それが次のものである。1、日ごとの捧げもの(民:28章3~8節)、2、安息日の捧げもの(民28章9~10節)、3、毎月1日(新月の日)の捧げもの(民:28章11~15節)、4、過越祭と種子を入れぬパンの祭りの捧げもの(民、28章16~25節)、5、週の祭り(ペンテコステ)の捧げもの(民:28章26~31節)、6、第7の月の1日の捧げもの(民:29章1~6節)、7、贖罪の日の捧げもの(民:29章:7~11節)、8、仮庵祭の捧げもの(民:29章12~38節)。
これらの捧げものに共通しているものは、全焼の供犠、浄罪の供犠として雄羊、雄牛、雄の子羊、雄山羊等の完全体が選ばれ、穀物(油を混ぜた上質の小麦粉)の供物と灌奠が選ばれた。この祭儀には聖なる集会が催され、労働や仕事は禁止され、ぶどう酒が捧げられた。このように雄羊、雄牛、小羊、子山羊は聖なる動物と見做され、豚は穢れた動物と看なされた。
イスラエルの民は再び向きを変えて動き始めた。聖なる幕屋は、レビ人とともに動いた。レビ人たちは神の怒りがイスラエルの民に及ばないように幕屋(証書の宿り場)の周囲に宿営した。それは聖なるものを警護する為であった。
レビ人たちはその動きの中で次のような仕事を行った。
1.幕屋(聖所)の設営と解体
2.聖なる備品の管理
3.聖なるものの運搬
4.聖なるものの警護
しかし大祭司、祭司以外のレビ人は幕屋に入り、聖具に直接触れる事は禁止された。特に契約の箱(十戒の治められた箱)は、見ることも許されなかった。
人口調査において何故レビ人は除外され独自に調査されたのか。
人口調査は、聖俗それぞれ行われた。
この人口調査を行うに当たって、神はモーセに云う。「心せよ、レビ族だけは、あなたは決して登録してはならない。あなたはまたイスラエルの子らに含めて、彼らの頭数を調べてはならない(民数記1章49節)」要するに、神はイスラエルの12氏族に対するような人口調査を禁止したのである。それは、後にレビ人に対する人口調査が行われたことを見れば明らかである。レビ人に対する人口調査は神の命により行われた。神は言う「レビの子らを、彼らの父の家、彼らの氏族ごとに登録しなさい。すなわち、あなたは彼らの内の生後一カ月以上の全員を登録しなさい(民数記3章15節)」と。12氏族の人口調査が軍務に就くことのできる20歳以上の男子に対して行われたのに対して、レビ人に対しては、聖所に関わる任務の遂行のための必要から行われたのである。この結果、生後一カ月以上のレビ人の男子の総数は第1回目の人口調査では22000人(民数記3章29節)、第2回目の人口調査では23000人(民数26章62節)であった。
このように神はレビ人を聖なる氏族として聖別して聖務に就かせ、軍務につかせる事は無かった。また、我こそ嗣業と云い、嗣業の地を与えなかった(民数記18章:20節)。
レビ人の取り分
レビ人の取り分に関しては民数記8章:8~32節に書かれている。神はアロンに云う「彼ら(イスラエルの民)の地で、あなたは決して嗣業の地をもってはならない。また、彼らの只中に決してあなたのための割り当て地があってはならない。わたし自身が、イスラエルの子らの只中でのあなたの割り当て地であり、あなたの嗣業の地なのである(民数記18章:20節)と。そしてレビ人に関しては「イスラエルの子らの只中に嗣業の地を相続してはならない(民数記18章23節)と。このようにレビ人は祭司を含め嗣業の地は与えられなかったのである。嗣業の地とは、代々受け継がれ、そこで生活し、農耕を営み、放牧を行う生活の基盤であり、そこから生活の糧を得る事が出来た。その生活の基盤を奪われたレビ人たちは何をもって生活の糧にしたのか?
祭司の取り分に関しては民数記18章20~24節に、レビ人の取り分に関しては民数記18章20~24節に詳しく述べられている。要するに、祭司は、イスラエルの民らの捧げものから、レビ人はイスラエルの民の収獲物の10分の1から、その生活が可能となったのである。それは彼らがイスラエルの民に代わって行われる祭儀一般に対する報酬だった。それ故彼らは生産に従事することなく生活できたのである。
しかし、神はモーセに言う「イスラエルの子らに命じて、かれらの所有地である嗣業の地の一部をレビ人の住むべき町々として与えなさい。あなたたちは、また、町ごとに、それらの周囲にある放牧地もレビ人たちに与えなさい(民数記35章1~2節)」と。レビ人には嗣業の地は無い筈である。しかし、聖書にはそう書いてある。
レビ人の町と逃れの町
レビ人は以上のように自分達の町を持つに至ったが、その町の数は48であった。そのうちの6つが「逃れの町」であった(民数記35:6~7節)。「逃れの町」とは過失によって人を殺してしまった殺害者が逃げ込むことの出来る町であり、そこでは、復讐者から身を守ることが出来き、裁判によって刑が確定されるまで完全に保護された。しかし、この町からは大祭司が死ぬまで留まっていなければならなかった。命の保証はこの町の中にだけに限られ、外に出た場合、命の保証は無かった。
意図的な殺人者または計画的な殺人者は逃げ込む事は出来なかった。彼らは死ななければならなかった(死刑)。しかし、複数の証人の証言を必要とした。
衣服の房
モーセは神からの言葉をイスラエルの民に伝える。自分達の衣服の隅に青い紐をつけた房つけ、それを代々伝えよ、と。そして、それを見るたびに、全ての戒め(律法)を思い出し、それを実行せよ、と。この事によって、自らの欲望に捉われ、神と戒めに対して反逆することは無くなり、神の聖なるものとなろう、(民数記15章37~41節)と。
ここに書かれている事は、穢れと浄めである。聖書は穢れを、死体、疫病、等に限っているが、もっと広く人の持つ罪と考えることも可能であろう。浄めとは、信仰であり、救いである。神はイスラエルの民を浄められたものとする為に律法を与えた。律法とは穢れの浄めである。浄められる為には生贄による贖いを必要とする。人は自分の罪を犠牲獣によって贖う。この生贄こそ、新約聖書におけるイエス・キリストである。イエスは、何も罪は無いのに、人類の罪を背負って十字架にかかり、復活して、キリスト(救い主)となった。因みに、生贄とされる犠牲獣も何一つ罪は無い。
律法
旧約聖書は39巻からなり、「律法」、「預言書」、「諸書」の3部に大別される。この中で最も重要な部分が、律法として存在する「モーセ5書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)である。この5書は、聖書の中の聖書として一般的に崇められている。この5書の律法が今日までのイスラエルの民の日々の生活を律し、契約の民(イスラエル)の精神的支柱となっている。
さて旧約聖書と新約聖書の違いは何であろうか?それはイエスキリストの存在である。
モーセは確かに神とイスラエルの民を仲介する預言者であった。しかし、彼は神の言葉
の伝道者に過ぎなかった。それに反してキリストは神の精霊と聖処女マリアの間に生まれた人の姿をした神の子であった。それ故に神でありながら、人の立場で人を見る事が出来た。その生涯の中で人の苦しみ、悩み、悲しみを嫌と云うほど体験し、人とは煩悩に苦しむ罪ある存在であると悟った。そして、その罪を一身に背負って十字架に架かって死んだ。そして、復活する。
聖書(旧約)は言う「モーセは厳しい命令と情け容赦もない法律(律法)を与えただけでしたが、イエス・キリストは、その上に愛に満ちた赦しの道を備えて下さった-------(ヨハネ1章16~17節)」のです。と。
モーセは出エジプトを果たしたものの荒野の中で苦難の連続であった。内と外との敵と戦い、これを制してカナンの地に至るには自分の力の限界を感じた。神の力を必要とした。その代償として神に与えられた律法で心を鍛え上げ、イスラエルの民をまとめ、喜怒哀楽の感情を表に出さず、義を守り、強く生き、時には剣をも辞さず内外の敵を皆殺しにしてでも、約束の地「カナン」に至らねばならなかった。律法は精神のつっかい棒であった。
しかし、イエスは問う。「何のための律法か」と。旧約聖書における律法は、イスラエルの民にとっては信仰者として自立するためには必要不可欠のものであった。それ故、最初に律法ありき、であった。
しかし、イエスはこれを逆転する。律法は人のために作られたものだ、律法の為に人があるのではない、と。この逆転の思想は、聖書(新約)の至るところに見受けられるが、安息日と、姦淫について聖書を見てみよう。安息日に関して聖書は次のように述べる。「あなたは6日間働き、7日目には仕事を止めねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事を止めねばならない(出エジプト記34章21節)」と。安息日に働いている人を見てパリサイ人(律法主義者)はイエスに問う。「汝らは、何故、安息日に為すまじきことをなすのか」と。イエスは応える。「人の子〈イエス〉は安息日の主人である(ルカ6章1~11節)」。「安息日といえども天から来た私の支配下にあるのです(マタイ12章1~8節)」、「わたしには安息日に何をして良いかを決める権限があるのです(マルコ2章23~28節)」、「安息日は命を救う日ですか、殺す日ですか(マルコ3章2~5節)」、と。初めに律法ありきとされ、律法の根源にある生命への配慮、智慧、生き生きとした神への信頼といったものが看過され、置かれた時と所、事情を無視して、律法を守り抜こうとする本末転倒の形式主義の態度こそ、イエスは衝かれたのである。
次に姦淫について述べてみよう。ある時、姦淫を犯した女がイエスの前に引き出されて来た。人々は言う「戒律によれば姦淫した者は、石にて打ち殺されるべきであると」イエスは応えて云う「――――、最初に石を投げるものは、今まで一度も罪を犯したことのないものなり」と。人々はその場を立ち去って行った。イエスは女に云う。「――往け、こののち再び罪を犯すな(ヨハネ8章3~11節)」と。これはイエスが姦淫を犯した女に罪の許しを語った感動的な場面である。捕えられた女に、罪は罪と認めさせ、罰せずにその場を去らせたのは、戒を犯した自覚を持って償いの人生を送ることを求めたからである。イエスは悔い改めを前提にした、新しい生の可能性を語ったのである。
神はイスラエルの祖アブラハムと契約を結ぶ。その時「わが前で完全であれ」と命じている。律法はその証である。イスラエルの民はそれ以来、契約の民、あるいは選ばれた民として、変遷する歴史の局面で神とかかわっていく。契約が守られなければ、民に災いが下され、契約故に民に救いが告げられる。まさに神とイスラエルの民との契約をめぐっての記録こそが旧約聖書といえよう。このように旧約聖書の根幹にあるものが律法である。
平成26年9月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会