日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記5 16~20章

2022年05月28日 | Weblog
 ヨブ記 5 16章~20章
 はじめに:
 ヨブ記を読む場合避けて通れない問題は、ユダヤ民族と異邦人の関係です。ヨブ記に登場する人物は、ヨブ、3人の友人、エリフとすべての異邦人です。ヨブの住んでいる地(ウズ)も異邦の地です。このようにユダヤ民族の外の世界に『神を義とするもの』が住んでいたのです。当時としては考えられないことが起きていたのです。なぜなら、旧約聖書の世界は基本的には神とユダヤ民族の世界だからです。
 ヨブ記との関連でいえば、ユダヤ人にとっては苦難の人ヨブが、2倍の恵みを回復するという結末は、選民思想に凝り固まり、唯一神の恵みに預かることのできるのは、我が民のみと、神の律法を堅く信じ、行動する彼らにとっては、我慢のならないことなのです。彼らにとっては、律法をないがしろにする異邦人で、かつ罪びとであるヨブは神の怒りに触れたまま滅びゆく存在であって欲しかったのです。
 このように、「ヨブ記」の作者はユダヤ民族の選民思想に真っ向から対立する存在としてヨブを登場させたと言えます。「ヨブ記」は選民思想を相対化し、神の思想をグローバル化する役目を担っているのです。その意味で、ヨブは異邦人を代表する人物であり、異邦人伝道の初穂(先がけ)といって良いでしょう。
 このことは、ユダヤ民族にとっては、危機的事態だったのです。それに対応するために、彼らは自らを他と区別し、輝かせるために、律法を絶対化し、選民思想に閉じ籠るようになったのです。時代が下って初代教会の時代にキリスト教の信者は、この選民思想と対決しました。
 3人の友人は、異邦人でありながら、その神学の根底には律法主義があります。「律法を犯すことは罪である。罪があるから罰がある。悔い改めて神に帰れ」とヨブを諭します。 厳しい現実に接してヨブは「律法による行いか、神への信仰か」と迷いながらも、神に敵対しつつも,その目を友人たちから離れて神を求めます。孤独地獄にさいなまれていたヨブは、神以外には求めるものはいなかったのです。
 16章:エリファズの神学
 16章からヨブと友人たちとの論争は第2ラウンドを迎えます。第2ラウンドに最初に現れたのはエリファズです。その言葉には、1回目の論争と較べて、何一つ新しいことはありません。ヨブを断罪するだけで、悔い改めの呼びかけすらもありません。ヨブはその言葉に絶望します。そして彼らを「煩わしい慰め手だ」と言い「慰める振りをして苦しめるだけだ」とその苦しい心情を吐露します。そして立場を変えて私が、あなたがたの立場に立つなら、「あなたがたと同じように語るであろう」と彼らに一定の理解を示します。「たとえ私が語っても、その痛みは抑えられない、たとえ私が忍んでもどれだけ私からそれ(痛み)が去るだろう」とエリファズの言葉を「むなしいだけの無駄口に過ぎない」と、あざけり、その災厄のもたらす絶望的状態からの解放を願って、友人から、その目を神に向けます。しかし神からの応答はありません。
ヨブは、友人たちとの不毛な論争と、神が与える終わりのない災厄に疲れ果て、その証拠に、やせ衰え、崩れ落ちた自分のからだを示します。ヨブは自分には理解不能な神の怒りは、自分を責めているものと感じています。それは、ヨブにとっては不条理な神の怒りなのです。ヨブは死を予感しています。その体験はキリストの体験に似ています。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜあなたはわたしをお捨てになるのですか」と叫んでいます。「我は義なり」と確信するヨブの気持ちにも通じるものがあります。
 神の善なる意図を読めないヨブには神の行為は、自分の理解を超えた罪に怒りを燃やし「私を引き裂き、私を攻め立て、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる(16:9)」と述べ「私を小僧っ子(3人の友)に渡し、悪者どもの手に投げ込まれる(16:11)」と、神なさった、その行為の不当性を訴えます。
 そして、かつて、自分は安らかな身であったのに、神はその自分を貶め、災厄に合わせ、今、自分を死の淵に立たしている、とヨブはその境遇の激変を語り、嘆きます。しかし「私の手には暴虐はなく、私の祈りは清い」と神の前で義なる存在であることを訴えます。そして、「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。そのかたが人のために神にとりなしてくださいますように、人の子がその友のために」人の子(仲介者、天使、キリスト)が、神と自分(ヨブ)との間を仲介してくれることを、ヨブは切に願っているのです。ヨブはその裁きを忌避し、神の本来の性格、愛に期待を寄せたのです。
 17章:ヨブの反論
 「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ(17:1)」と、すべてを奪われ、苦しむヨブは絶望して、自分に残されているものは墓場だけと、その死を予感しています。「しかも、あざける者らが、私と共におり、私の目は彼らの敵意の中で、夜を過ごす」と、3人の友はもはや友には価しない「煩わしい慰め手」に過ぎないのです。それは神が3人を悟ることのない。愚者に定めたからです。ヨブは四面楚歌の中で孤独です。それゆえ、神に救いを求めます。「どうか私を保証する者を、あなたの傍らにおいてください。ほかに誓ってくれるものがありましょうか(17:3)」と。神が応答しないので、ヨブは、その溝を埋めるための仲裁者を、求めたのです。
 「分け前を得るために、友の告げ口をする者、その子らの目は衰えはてる(17:5)」。告げ口をする者とは金貨30枚でキリストを売ったイスカリオテのユダです。その子らとは3人の友です。彼らの目は真実を見ることが出来ないほどに衰え果てています。キリストも同じです。キリストが磔刑にあったとき弟子たちはすべて連座を恐れて逃げ出しました。その信仰心は衰え果てていたのです。キリストが刑場にひかれていくとき、物笑いされ、唾を吐きかけられました。ヨブも同じです。膿と蛆に犯され、崩れ落ちようとする姿を見て人は、何の同情も示さず、物笑いにし、唾を吐きかけました。「私の目は悲しみのためにかすみ、私の体は影のようだ」。ここには、義なるものが災厄に会うこともあるのだということが語られています。
 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る」。ヨブは、自己の正当性を主張しています。そして「義人は、自分の道を保ち、手の清い人は、力を増し加える」。と述べます。このようにヨブは自分の正当性を主張したうえで、あなたがたも義人の道に戻ってきなさい、あざける道を捨てて正しい道に帰りなさい。と説得します。ヨブは彼ら3人の中に一人も知恵ある存在を見出すことが出来なかったからです。
 17章の後半から陰府の思想が展開されます。
 「私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも敗れ去った。『夜は昼に変えられ、闇から光が近づく』というが、もし私が陰府を私の住みかとして臨み、闇に私の寝床をのべ、その穴に向かって『お前は私の父だ』と言い蛆に向かって『私の母、姉妹』というのなら、私の望みは一体どこにあるのか。誰が私の望みを見つけよう。陰府の深みに下っても、あるいはともに塵の上に下りて行っても(17:11~16)」と、自分の死を予知しています。
 陰府とは、罪びとが神の怒りからかくまわれ、神と断絶する場所です。そして2度と現実には戻れない場所と考えられています。そんな場所が自分の落ち着く場所であり、終着駅と考えるならば、どこに自分の人生に望みがあるのだろうか、とヨブは絶望します。しかしこの苦闘は決して無駄ではありません。やがて、ヨブは塵の中にも希望があることを見出すのです。大切なのは使徒信条に語られているように、イエス・キリストが私たちの身代わりに、陰府の国に下っておられるという事実を知ることです。たとえ、ヨブに罪があったとしても、その罪は、聖霊によって、あがなわれているのです。
 18章:ビルダデの神学
 第2ラウンドの2番手として登場したのは、シュアハ人のビルダデです。彼はヨブに対して激しく反論します。「あなたがたは慰めるふりをして、人を苦しめる(16:2)」という言葉に対してです。彼の論難が始まります。「私のことばを理解せよ」と、自分たちのことばを理解しようとせず私たちを獣と見做し、愚か者とする。その誤解を解いたうえで話し合おうと、ヨブに迫ります。そして言います「怒りによって自らを引き裂くものよ、あなたのために地が見捨てられ、岩がその場所から移されるであろうか」と。ヨブの言う「我は義なり」という主張に対し、その言葉を、神に逆らう言葉として攻め立てます。この議論も因果応報論です。ヨブは16章で新しい発見をしています。神との関係に希望を見出しています。神は怒りの神であるだけでなく、憐みの神でもあるのです。ヨブはそれを幻の中で体験しています。しかしビルダデはそれを知りません。ヨブの破滅と滅亡の道を示します。その結果として、悔い改めを求めます。 キリストはその贖いによって、罪びとをお許しになっているのです。勿論、この時代にキリストは存在していません。しかし、 神の中に聖霊としてキリストが隠されているのです。新約聖書の時代、そのキリストが人の姿をして神の中から、現れるのです。
 ビルダデのことばは、さらに激しくなります。ヨブに対することばは、もはや諫言を超えた呪いです。慰め手ではなく、迫害者です。しかしヨブは変えられています。「あなたがたを迫害するもののために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません(ロマ書12;14)」と。
19章:ビルダデに対するヨブの反論
 いつまでも同じ論法(因果応報論)で自分に対応する3人の友人に対して,ヨブは絶望して言います「自分の受けている災厄が自分の内なる罪ゆえであるなら、その罪は、聖霊によって、既に贖われており残ってはいない。それなのに神は、罪のない私に災厄を与えておられる(19:4~6)」、その不条理に対して「これは暴虐だと叫んでも正されず、助けを求めても応答はない」。そればかりでなく、私が正しい道を歩もうと欲しても行く手に闇を置いて阻んでおられる。神は私から栄光をはぎ取り、冠を取り去る。そして自分を敵と見做して、私の天幕の周りに陣を敷く」と、ヨブは、一方で神を信じながらも、信じきれない自分に、苦しみます。ヨブは心と体の二つの苦しみの中で悩み、葛藤しています。
 もはや、ヨブの周りには味方はいません。敵ばかりです。かつて、豊かで、健康であった時には、崇め奉り、愛を示していた人々は、その境遇が激変した今、その手の平を返し、あざけり、唾を吐きかけ敵意すら見せます。ヨブは、痩せ衰えています。友人たちに叫びます「私を哀れめ、私を哀れめ、神のみ手が私を打ったからだ。なぜ、あなたがたは、神のように私を追い詰め、私の肉で満足しないのか」と、ヨブは肉だけでなく、心も病んでいるのです。
 ヨブは神の前で「義なる存在」であることのあかしを残したいと思います。「私の真実のことばが、岩の上に書き留められれば良いのに」と。岩は永遠を意味します。永遠に残されることを祈ったのです。永遠なる神と共にありたいと祈ったのです。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを(19:25)」と。主が再臨された時、その姿を見ることが出来るであろうと、高らかに宣言します。そして自分を卑しめ、攻撃するものに対して、再臨の主が「剣をもって裁かれるであろう」と、自分の正当性を主張します。そして、すべて(持ち物、体)を失っても、自分の苦しみが報われて、将来的に、神を見、神と共に生きる時がやってくる。その日を、希望をもって待ち望もう、それがヨブの信仰なのです。
 20章:ツオファルの2度目の登場
 「『私の悟りの霊』が私に対する侮辱に応える」と、ヨブの攻撃に対するツオファルの反論が行われます。そしてヨブの罪と罰が語られます。
 「悪者の繁栄は短く、神を敬わない者の楽しみは、つかの間だ」とこのままだと永遠の滅びがあなた(ヨブ)を待ち構えていると、脅します。あなたは陰府の国に堕とされ、その子は貧乏人対しても憐みを請うようになろう。奪われた財産、損なわれた健康を、取り戻そうと望んでも、その実現は空しい」。「飲み込んだものは毒となり、富を飲み込んでも、神はこれを吐かす」。「蜜と凝乳の流れる川を見ることが出来ず、財産を取り戻しても、それを享受できず、商いによって得た富も、楽しめない」。
 さばきは罪ゆえにあるのです。1、寄るべなきものを見捨てた罪、2,他人の建てた家をかすめ取った罪、3、むさぼりの罪。だから満ち足りたと思っていても、その心は貧しい。と、ツオファルは、ヨブを厳しく責めます。
 次にヨブの行った罪に対する神のさばきをツオファルは語ります。勿論それは彼の独断です。のです
1, 空腹を満たそうとしても神はこれを赦さず
2, 鉄の武器を免れても、青銅の弓が彼を射とおす。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う。
3, 全ての闇が彼の宝として隠される。それゆえ、怒りの火が天から下って彼を焼き尽くし、生き残っていた家族をも失う。
 このように、「天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消え失せる(20:27~28)」。
 「これが、悪者の神からの分け前、神によって定められた相続財産である(20:29)」。分け前とは、その罰をあらわし、相続財産とは、その裁きを現すのです。
 このように、ツオファルは、ヨブが犯したと思われる罪を暴き出し、その神による裁きを述べるのです。それは、相も変らぬ「因果応報論」であって、ヨブには、到底受け入れることのできない神学なのです。 
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