イザヤ書Ⅲ 苦しみの所に 6~8章
はじめに:アッシリヤ:「北部メソポタミアのティグリス河の中・上流を中心とし、全オリエントにわたる統一帝国を築いた民族。前2,000年紀初めに勃興し前612年に滅びるが、特に第1イザヤの時代に最盛期を迎え、残忍な征服者として恐れられた。ティグラト・ピレセル3世の治世(前744~721)に、シリア・パレスティナへの遠征を繰り返し、これを侵略して貢物を取り立てた。従わなかったアラムを前732年に、北イスラエルを前722年に滅ぼす。サルゴン2世の時代(前721~705)には、ペリシテ諸都市を中心とする反アッシリヤ連合を粉砕する。さらにセンナケリブの治世(前704~681年)では、バビロニアの反乱を鎮圧し、この時代に初めて表立ってアッシリヤに反旗を翻したユダには、前701年に来寇し、多額の賠償金を課す。こうした歴史の諸段階を反映した記述がイザヤ書の随所にみられる。首都はアシュル、カラハ、ニネベと変わった。なお王宮や神殿を飾ったレリーフや彫刻は、芸術的にも歴史的にも価値が高い」。関根清三訳 岩波書店「イザヤ書」より。
6章: ウジヤ王の死んだ年に、イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見た。主は天使の一人セラフム(人の罪を清める天使)に守られて章:いた。セラフィムとは、天使の一人であり、天使の9つの階級のうち最上位とされています。彼らはそれぞれ6つの翼をもち、おのおのその2つで顔を覆い、2つで両足を覆い、残りの2つで羽ばたく、と言われています。
彼らの歌う合唱によって、神殿は土台から揺らぎ、たちまち煙でいっぱいになります。イザヤは怖くなって叫んだ。「ああ。私は、もう駄目だ。私は唇の汚れたもので、唇の汚れた民の中に住んでいる。しかも万軍の王である主をこの目で見たのだから」と。イザヤは自分の罪を自覚し、絶望します。このイザヤ罪をセラフィムの一人が救ったのです。このセラフィムは言います。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪は贖われたのです(6:7B)」と。 次に、主によって罪を贖われたイザヤへ召命が下ります。イザヤは主の召命の呼びかけに積極的に応じます。イザヤの本格的な預言活動はこれより始まります。それまでの活動は準備段階であったのです。
しかし主がイザヤに与えた民への言葉は「聞き続けよ、だが悟るな、見続けよ、だが知るな」と言うものでした。ここには主の民に対する不信が語られています。民との接触を勧めながらも彼らの過ちに影響されるなと、主は、イザヤに警告しているのです。しかし、主は、イザヤに対して、こんな民に「悔い改めを求めよ」とは言っていません。逆に、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くさせ、その目を堅く閉ざさせ、自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返って癒されることのないように(6:10)」せよ、と命じます。非常に奇妙な命令です。いわゆる頑迷預言と言われるものです。民を頑迷にするために主によって、預言者(イザヤ)が遣わされたのです。イザヤの意図は一貫として民の救済を探求し、同時に罪の悔い改めを実現することによって、頑迷預言の撤回を主に期待したのです。それゆえ、「主よ、いつまでですか」と、問うているのです。これに対して、主は「すべてが滅びるまで(6:11~12参照)」と応じています。しかし、「すべてが滅びるまで」ということは頑迷預言の撤回ではなく、成就を意味します。しかし、すべての木が切り倒されても「切り株」は残るのです。「聖なるすえこそ、その切り株(6:13B)」この切り株から新しい若芽が生えてくるのです。主はこの若芽に期待したのです。若芽とはメシアです。主は。頑迷預言のかなたにメシア(イエス・キリスト)を見ていたのです。
7章: 7章には、主によるイスラエルに対する審判預言が語られています。BC734年のこと、アハズ王の時代。北の大国アッシリヤが攻めてくると言う報告に接し、脅威にさらされたアラムと北イスラエルはパレスチナの諸国を糾合して連合を造り、南ユダにも参加を求めました。しかし、南ユダはこれを拒否します。これに怒った諸国連合は南を攻めたのです。しかし、勝つことは出来なかったが、負けてはいなかったのです。エフライムの地にとどまって南を窺っているという報告を受けます。アハズ王もその民も動揺します。主はイザヤに言います。『息子シェアル・ヤシュブと共にアハズ王に会え。そして言え「気を付けて静かにせよ、恐れるな、彼らは煙る、燃えさしに過ぎない。だから心を弱らすな」と。主は彼らの滅びを預言しています。しかし、「彼らは言う『我々はユダに攻め入り、占領し、タベアルの子を擁して傀儡政権を造ろう』と」それに対して主は言う「そのことは起こらないし、ありえない。それどころか65年のうちにエフライムは粉砕されて民ではなくなる」と。主は彼らがアッシリヤの大軍に滅ぼされることをいみじくも預言したのです。それは現実のものとなったのです。しかしこの言葉はあくまでも65年後の預言です。主は再びイザヤを通じてアハズこう言われた。「「あなたの神、主から、しるしを求めよ。黄泉の深み、あるいは、上の高いところから」と。アハズは応えて言います。「『私は求めません。主を試みません』と。アハズ王は厳しい現実の前に立ち、主を信じることが出来なかったのです。「主を試みません」と一見信仰的姿を示しますが、実際には、アハズは主を拒否したのです。婉曲に断ったのです。救いを神に求めるよりも、人に求めたのです。その人とはアッシリヤ帝国だったのです。アハズはアッシリヤの助けを借りて、当面の敵アラム(シリヤ)・エフライム連合には打ち勝ちます。しかし、その後、アッシリヤの脅威にさらされます(7:16参照)。「昨日の友は、今日の敵」、なのです。
そんなアハズ王に対してイザヤは言います。「「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を生み、その名を「インマニュエル」と、名付ける―――」。インマニュエルはイエス・キリストの呼び名の一つです。「主は、われらと共にあり」と言う意味であり、救いのしるしを現しています。人に頼るアハズに対して、「真の救いは主のほかになし」。と、イザヤは言っているのです。
「この子(インマニュエル)は、悪を退け、善を選ぶころまで、凝乳と蜂蜜を食べる(7:15)」。キリストは、その贖いの死まで、主に対して義なる存在であったことを示しています。更に、貴重な食べ物である凝乳や蜂蜜を食することのできる平和な環境(神の国)が生まれてくることも預言しています。それはメシアの到来の日です。そしてこの子がキリストとして成長する以前に、アハズ王に敵対していた二人の王(レッィンとペカ)は、滅びます。残るは、アッシリヤの脅威です。
18節以降、イザヤは、「その日(7:18,20,21,23)になると」と言う言葉を用いて、主の審判を語ります。救済預言(16節以前=インマニュエル預言)と審判預言(18~25)の間にアッシリヤ来寇預言(7:17)があります。アッシリヤの来寇は、エルサレムの罪に対する神の審判なのです。
「その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあの蠅、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。すると彼らはやって来て、みな険しい谷、岩の割れ目、すべての茨の茂み、すべての牧場に巣くう(7:18~19)」。地上のどんなに巨大なものも神の掌中にあります。エジプトであれ、アッシリヤであれ、その支配から免れることは出来ないのです。イスラエルの罪を裁くために主は彼らを使ったのです。主はアッシリヤを使って、その日、残酷の限りを尽くし、その尊厳を傷つけます(7:20参照)。また、「その日になると、一人の人がやって来て雌の小牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる(7:21~22)」。イエスは、5個のパンと2匹の魚で男だけで5000人の人の食欲を満たします(マタイの福音書14:14~19)。同様に、イザヤも、わずか、雌の小牛一頭と羊二頭で、国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食するようにしたのです(7:21~22)」。主の恵みは人の意識を超えて偉大なのです。審判預言の中でこの部分だけは救済預言です。審判の中に救済もあることを、この部分は語っています。
次も審判預言です。「その日になると、ぶどう千株もある銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろ(藪)のものとなるのです。全土がいばらとおどろになるので、耕作地は捨てられ、人は弓をとり、狩人になり獣を狩る以外にないのです。そこは牛の放牧地、羊の踏みつけるところとなる(7:23~25参照)。これは、主がないがしろにされ、人の力があがめられた結果なのです。
8章:1、神が共におられる
この章の初めに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と言う言葉が出て来ます。これはイザヤが主から与えられた第二子の名前です。その意味は「分捕り物を急ぎ、戦利品を速やかに」と言う意味です。略奪者(アッシリヤ)が来てアラムとエフライムを滅ぼし、財宝を奪っていくことを、この子を通して預言しているのです。事実まだこの子が小さいうちに、この預言は実現しアハズに敵対するシリヤ(アラム)と北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、その財宝は略奪されたのです。アハズはこれを喜びます。しかし皮肉なことに、今度は自らが、アッシリヤに攻められることになるのです。しかし、アッシリヤは、多くの死者(18万5千人)を出し、その包囲網を解き退散したのです(37:36~37参照)。そこには神の恵みがあったのです。
主はイザヤに言います。「この民は、ゆるやかに流れるシロハの流れをないがしろにしてレッインとレマルヤの子を喜んでいる」と。シロハの流れとは、エルサレム東方の丘にあるギボンの泉から湧き出た水を、エルサレムの町に沿って運ぶ水道であり、住民にとってはいのちの水なのです。主の守りと導きの象徴です。この水(主)をないがしろにし、レツィンとレマルヤの子の滅亡を喜んでいる民に対して主は怒ります。ユーフラテス(アッシルヤ)を溢れさせ、ユダに流れ込ませ、洪水をおこし、民を溺死させるのです。ユダは、陥落寸前にまで追い込まれます。
「インマニュエル。その広げた翼は、あなたの国一杯に広がる(8:8B)」。インマニュエルと言う言葉があります。それゆえ「その広げた翼」とは主を指します。「国々の民よ。うち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯して、わななけ。わななけ。図り事を立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それはならない。神が、私たちと共におられるからだ(インマニュエル)」。どんなに主に逆らっても、主は契約の民を守られるのです。「国々の民」とは、アッシリヤ、アラム、北イスラエルをさします。
2、主が、聖所となられる(8:11~16)
私たちは絶えず主を恐れるか、人を恐れるかの選択に迫られます。私たちが恐れなければならないのは「万軍の主」なのです。この方を恐れ、この方をおののきとしなければならないのです。
「この民の道に歩まないように(主)はわたしを諌めて仰せられた。『この民が謀反と呼ぶことを謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを、恐れるな、おののくな』」この民の道とは、アハズおよび、その民の歩んだ道を指します。彼らは主をないがしろにして、裏切られるのも知らず、アッシリヤを選んだのです。その道を歩むなと言うのです。そして助言します「万軍の主。この方を、聖なる方とし、この方をあなたがたの恐れ、おののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまづきの岩、エルサレムの住人には罠となり、落とし穴となる。多くのものがそれにつまずき、倒れて砕かれ、罠にかけられて捕らえられる」。
聖所:主が共におられる場所。主の臨在する安全な場所。
イスラエルの二つの家:アマルとエフライム(シリヤと北イスラエル)。
この同じ方(主)が聖所になったり、つまずきの石になったりします。信仰するものか、不信仰のものかによって分かれます。
「このあかしを束ねよ。この教えを、わたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」主のあかしと教えを心に束ねて、しっかり蓄えておくようにと、イザヤは言います。主の、御言葉のみが私たちの道を照らし進むべき道を導いてくださるのです。聖書の言葉を、確信をもって、また聖霊をもって受け入れ、信じていくときにこそ、私たちは自分が主に愛され、選ばれた者であることの確信を得ることが出来るのです。
3,主を待ち望め(8:17~22)
ヤコブの家から身を隠しておられるお方:当時のイスラエルの状況を現しています。ヤコブの家=イスラエルは不信仰者に満ちていました。主は、怒って地上から身をお隠しになったのです。それゆえに、イザヤは主の恵みを求めます。この方を待ち望み期待をかけたのです。「見よ。私と主が私に下さった子供たちとは、シオンの山に住む万軍の主からの、イスラエルでのしるしとなり不思議となっている(8:18)」と語ります。主が私に下さった子供たちとはシェアル・ヤシュブ(7:3)とマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(8:3)を指します。彼らは不信仰者で満ちたイスラエルにおいては信仰のあかしであり、また不思議な存在だったのです。「人々があなたがたに『霊媒や、さえずり、口寄せ、を尋ねよ』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか(8:19)」と主は仰せられます。霊媒、さえずり、口寄せ、とは、あくまでも偶像であって、これらに尋ねよということは、死んだ神を崇拝する偶像崇拝になるのです。それに対して人は教えと、証し、を尋ねなければならないのです。「この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない(8:20)」のです。「彼は迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神を呪う。地を見ると、見よ、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者(8:21~22)」。主をないがしろにする者は厳しく裁かれるのです。
令和4年6月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会