イザヤ書Ⅺ 27~28章 教えを学ぶ
はじめに:イザヤは、エルサレムに対する神のさばきの言葉を語ると同時に、真の希望とは、主なる神に信頼することからくることを、終末における神のご計画の普遍性を見ることで語っていきます。
27章:「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。その日。麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、誰も、これをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。私はもう怒らない。もしも、茨と、おどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしの砦に頼りたければわたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす(27:1~6)」。 語 意:その日:この章では、前回と同じく、全世界における神のご計画が語られています。主が、大患を地上に下されて、イスラエルの「残りの者」を救われます。そのときが、「その日」です。蛇レビヤタン:悪魔の化身、蛇は、神のさばきにより手足を失い、地を這うものにされました。蛇の前身は、手足を持つ竜だったと思われます。神は裁きの日にこれを殺します。おどろ:棘と書きます。意味は茨と同じです。共に触れると身を傷つけます。神に逆らうものを意味します。アシュラ:火を噴く怪物です。サタンの一種です。神は最後にはこれを縛り、底知れぬ場所に閉じ込めます。麗しいぶどう畑:イスラエルの民をさします。契約の民です。神は、この民を絶えず見守り、守っておられるのです。旧約聖書でのイスラエルは罪に満ちていました。しかし、イエスの十字架による贖いの死によって原罪から解放されて「麗しい民」に変身したのです。だから彼らに対して神は決して「怒らない」のです。それゆえに、イスラエルに敵対するもの(茨とおどろ)が、神と戦うなら、これを神はお赦しにならないのです。しかし和を望む者に対しては、神はその罪を問いません。これを受け入れます。時が来れば:ここには神のご計画が、語られています。イスラエルから全世界へと、将来への展望「神の国」が預言されています。神の素晴らしさをその栄光を全世界の人々に分かち合うのです。そのためには時が必要です。未来完了の世界です。この預言を実現するためには、じっくりと時間をかけて育てる必要があります。それは善行を尽くすことではありません。勿論、それも必要です。しかし、それは必要条件ではあっても、絶対条件ではありません。絶対条件とは、自らの身を慎み、主に寄り添い、すべてを主に委ねる信仰が必要なのです。この「時が来れば」、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」のです(27:6)」。イスラエルから世界へと、信仰の輪は広がっていくのです。しかし、これは、あくまでも進行形であって、いまだ実現していません。
「主は,イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺したものを殺すようにイスラエルを殺されただろうか(27:7)」と述べています。ここには、異教の諸国に対する神のさばきと、イスラエルに対する神のさばきの違いが述べられています。勿論、異教の民には厳しく、滅びが、イスラエルに対しては、次に述べるように、条件付きではあっても救いが語られています。「あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された(27:8)」。救いの前に裁きが語られています。アッシリヤの捕囚や、バビロンの捕囚などイスラエルの民の離散(災厄)のことです。北イスラエルは、アッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、国を失います。捕囚とは、神のさばきなのです。異教の民(アッシリヤ、バビロン)は、完全に滅ぼされましたが、イスラエルの裁きには、救いがあります。回復があります。裁きと救いはセットにしてイスラエル(契約の民)に与えられます。裁きは救いの条件です。
「それゆえ、次のことによって、ヤコブの不義は赦される。祭壇の全ての石を粉々にされた石灰のようにし、アシュラ像と香の台をもう立てなくすること、これが自分の罪を除いて得られる報酬の全てだ(27:9)」。アシュラ像と香の台(偶像)を捨て、神に立ち返ることが必要なのです。そして神のあわれみを受けるのです。しかしイスラエルは、悟りの無い民ゆえに、これを拒否します。その結果、「城壁のある町は、一人寂しく、放っておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草を食み、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りの無い民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これを哀れまず、これを形作った方は、これに恵みを与えない(27:10~11)」。ユダヤ人が離散の民になった後のイスラエルの土地の運命が語られています。神はこの地に住む民にあわれみも、恵も与えないのです。
その次に回復が預言されます。「その日。主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは一人一人拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(27:12~13)」。穀物の穂とは、イスラエルの民です。この離散の民が、帰還できるようになる約束が語られています。ユーフラテス川からエジプト川までの間にイスラエルの民は散らされていました。主はそれらの飛散民をエルサレムに帰還させます。彼らはエルサレムの聖なる山で、主を礼拝するのです。主がアブラハムに約束された地とは、北はユーフラテス川から、南はエジプト川までです。イスラエルの祖国です。
28章:「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠。その美しい飾りの死んでいく花。これは酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手にとって、すぐ飲み込んでしまう。その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、苦しい冠、栄の飾りの輪となり、さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃してくる者を城門で追い返す者にとって、力となる(28:1~6)」。
語彙;エフライム:北イスラエルの代表的な部族の名。エフライムは、肥沃な土地を持ち、経済的には豊かで、それを誇りとし、その豊かさに溺れ、世の楽しみに浸っていました。肉の欲です。主はこれを「酔いどれの冠」と呼んでいます。当然、肉の欲に溺れて、主のことに目を向ける信仰心に欠けていました。霊的には「しぼんでいく花」だったのです。主は、これを裁かれます。主はアッシリヤを使ってこれを滅ぼします。しかし、ここにも「残りの者」はいます。主を信仰する僅かな人たちです。万軍の主:ここでのこの方の役割は、残りの者にとっては、美しい冠であり、栄の飾りです、裁判官にとっては裁きの霊(正しい裁きの心)となり、城門を守る兵士にとっては、守りの力(勇気)となるのです。
「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、裁きを下すときよろける。どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余すところもない(28:7~8)」。
これらの者とは、現実においては世を支配している者たちです。彼らは、アッシリヤやバビロンの侵攻を前にして危機意識を持たず、呑んだくれていたのです。そればかりでなく、祭司や預言者までもが、物事を霊的に判断し、裁く立場を忘れてこの世の楽しみに浸っていたのです。聖書を読むと聖職者は飲酒を禁じられています。まさにエフライムは、この世的にも、霊的にも、しぼんでいく花だったのです。主は彼らを御足で踏みにじられるのです。しかし、主は尊いお方です。決して自らの手を汚しません。アッシリヤやバビロンを使います。しかし、用済みになれば、これを滅ぼします。いい気なものです。
アッシリヤの侵攻を前にして、エフライム(北イスラエル)の聖職者たちはイザヤの預言を嘲ります。そして言います。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(28:9~10)。彼らは言うイザヤは幼子を諭すように律法を守れと我々聖なる者に言っている。釈迦に説法だ。そんなことは誰もが知っている。あえて説くことでもない、と。しかし、主の説く律法(戒めと規則)は神を信じる者にとっては、最も基本的なことです。基本的なこととは、幼子でも分かるシンプルなものです。あざける者の言葉に応えてイザヤは語ります。「まことに主はもつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる(28:11)」と。もつれた舌、外国語で,語られる言葉は一般の民には理解不能な、分けのわからない言葉です。気の狂った人間の叫びに聞こえます。正常な言葉ではなく、異なった言葉です。いわゆる、異言です。異言とは御霊の賜物の一つです。神が人に乗り移って人が語る神のことばです。神のみが理解出来る御霊(精霊)の言葉です。人は、霊で祈り、霊で賛美します。
「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった(28:12)。」マタイは、その福音書の中で主の言葉を次のように述べています。「すべて疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と。彼ら(酔っぱらった祭司や預言者)が、その罪を悔い改め、神に立ち返ったとき、真の休息が与えられるのです。そこは、平和と平安と安らぎのある世界です。神の国です。しかし彼らは、その言葉を理解せず、聞き入れなかったのです。
「主は彼らに告げられる。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』これは彼らが歩くとき、後ろざまに倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるためである(28-13)」。主は、わかりやすい言葉で、基本的な言葉を語りました。ところが、彼らはこの簡単明瞭な言葉に躓いて倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるのです。彼らは不信仰ゆえに、神に裁かれるのです。「それゆえ、嘲るものたち―――エルサレムにいてこの民(残りの者)を物笑いにする者たちよ。主の言葉を聞け(28-14)」。と、イザヤは、彼らに対して、警鐘を発せられるのです。
「あなたがたは、こう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、黄泉と同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えてきてもそれは私たちには届かない。私たちはまやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから(28-15)。』」。死と黄泉とはエジプトを指しています。にわか水とは、アッシリヤのことです。たといアッシリヤの侵攻を受けても、エジプトの後ろ盾があるから、滅ぼされることはない。と高を括っていたのです。「まやかし」「偽り」とはエジプトを指します。神はないがしろにされています。頼りにすべきは主たる神のみなのです。神は高慢と高ぶりを最も嫌われるお方です。やがて、彼らはアッシリヤの脅威にさらされることになります。
「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、慌てることがない(28-16)』。見よ:終末預言(メシア王国、千年王国)を示唆することばです。「一つの石」、「試みを経た石」、「堅く据えられた礎の尊いかしら石」。これらの石は、メシア(イエス・キリスト)を現す比喩的表現です。神が据えられたこれらの石は決して風化することのない、どんな試練の中にあってもそれに耐え、屈服することのない勝利の石です。これを信じる者は、決してあわてることがない。救いが保障されているので、決して、焦るなとイザヤは言います。「わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、黄泉との同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えてくると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。』(28:17-19)」。
「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる(28:20)」。エジプトのことを言っています。神はアッシリヤの侵攻に対して、自分に頼らず、エジプトに頼るユダを戒めています。エジプトはアッシリヤに滅ぼされます。エジプトは役に立たなかったのです。
この後、イザヤは、真の救いは、神のみにあると語っていきます。神の御業は他と比較にならないくらいに強力だからです。それゆえ、神をあざけるな、と警告を発します。イザヤは、神の日(全世界に下る全滅の日)の啓示を聴いていたのです。
次に、イザヤは神のご計画を、農作業を例にとって語っていきます(28:23~29)。農民が地を耕すのは、そこに種を蒔き収穫するためです。そのためには道具も使います。このすべての農作業は、主の導きのもとに行われているのです。農作業は、信仰を現し、収穫は恵みを現します。「これもまた、万軍の主から出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんばかりは、素晴らしい(28:29)」。全能の神は、優れた教師であり、農夫(イスラエルの民)に、素晴らしい知恵を授けるのです。
はじめに:イザヤは、エルサレムに対する神のさばきの言葉を語ると同時に、真の希望とは、主なる神に信頼することからくることを、終末における神のご計画の普遍性を見ることで語っていきます。
27章:「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。その日。麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、誰も、これをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。私はもう怒らない。もしも、茨と、おどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしの砦に頼りたければわたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす(27:1~6)」。 語 意:その日:この章では、前回と同じく、全世界における神のご計画が語られています。主が、大患を地上に下されて、イスラエルの「残りの者」を救われます。そのときが、「その日」です。蛇レビヤタン:悪魔の化身、蛇は、神のさばきにより手足を失い、地を這うものにされました。蛇の前身は、手足を持つ竜だったと思われます。神は裁きの日にこれを殺します。おどろ:棘と書きます。意味は茨と同じです。共に触れると身を傷つけます。神に逆らうものを意味します。アシュラ:火を噴く怪物です。サタンの一種です。神は最後にはこれを縛り、底知れぬ場所に閉じ込めます。麗しいぶどう畑:イスラエルの民をさします。契約の民です。神は、この民を絶えず見守り、守っておられるのです。旧約聖書でのイスラエルは罪に満ちていました。しかし、イエスの十字架による贖いの死によって原罪から解放されて「麗しい民」に変身したのです。だから彼らに対して神は決して「怒らない」のです。それゆえに、イスラエルに敵対するもの(茨とおどろ)が、神と戦うなら、これを神はお赦しにならないのです。しかし和を望む者に対しては、神はその罪を問いません。これを受け入れます。時が来れば:ここには神のご計画が、語られています。イスラエルから全世界へと、将来への展望「神の国」が預言されています。神の素晴らしさをその栄光を全世界の人々に分かち合うのです。そのためには時が必要です。未来完了の世界です。この預言を実現するためには、じっくりと時間をかけて育てる必要があります。それは善行を尽くすことではありません。勿論、それも必要です。しかし、それは必要条件ではあっても、絶対条件ではありません。絶対条件とは、自らの身を慎み、主に寄り添い、すべてを主に委ねる信仰が必要なのです。この「時が来れば」、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」のです(27:6)」。イスラエルから世界へと、信仰の輪は広がっていくのです。しかし、これは、あくまでも進行形であって、いまだ実現していません。
「主は,イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺したものを殺すようにイスラエルを殺されただろうか(27:7)」と述べています。ここには、異教の諸国に対する神のさばきと、イスラエルに対する神のさばきの違いが述べられています。勿論、異教の民には厳しく、滅びが、イスラエルに対しては、次に述べるように、条件付きではあっても救いが語られています。「あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された(27:8)」。救いの前に裁きが語られています。アッシリヤの捕囚や、バビロンの捕囚などイスラエルの民の離散(災厄)のことです。北イスラエルは、アッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、国を失います。捕囚とは、神のさばきなのです。異教の民(アッシリヤ、バビロン)は、完全に滅ぼされましたが、イスラエルの裁きには、救いがあります。回復があります。裁きと救いはセットにしてイスラエル(契約の民)に与えられます。裁きは救いの条件です。
「それゆえ、次のことによって、ヤコブの不義は赦される。祭壇の全ての石を粉々にされた石灰のようにし、アシュラ像と香の台をもう立てなくすること、これが自分の罪を除いて得られる報酬の全てだ(27:9)」。アシュラ像と香の台(偶像)を捨て、神に立ち返ることが必要なのです。そして神のあわれみを受けるのです。しかしイスラエルは、悟りの無い民ゆえに、これを拒否します。その結果、「城壁のある町は、一人寂しく、放っておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草を食み、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りの無い民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これを哀れまず、これを形作った方は、これに恵みを与えない(27:10~11)」。ユダヤ人が離散の民になった後のイスラエルの土地の運命が語られています。神はこの地に住む民にあわれみも、恵も与えないのです。
その次に回復が預言されます。「その日。主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは一人一人拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(27:12~13)」。穀物の穂とは、イスラエルの民です。この離散の民が、帰還できるようになる約束が語られています。ユーフラテス川からエジプト川までの間にイスラエルの民は散らされていました。主はそれらの飛散民をエルサレムに帰還させます。彼らはエルサレムの聖なる山で、主を礼拝するのです。主がアブラハムに約束された地とは、北はユーフラテス川から、南はエジプト川までです。イスラエルの祖国です。
28章:「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠。その美しい飾りの死んでいく花。これは酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手にとって、すぐ飲み込んでしまう。その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、苦しい冠、栄の飾りの輪となり、さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃してくる者を城門で追い返す者にとって、力となる(28:1~6)」。
語彙;エフライム:北イスラエルの代表的な部族の名。エフライムは、肥沃な土地を持ち、経済的には豊かで、それを誇りとし、その豊かさに溺れ、世の楽しみに浸っていました。肉の欲です。主はこれを「酔いどれの冠」と呼んでいます。当然、肉の欲に溺れて、主のことに目を向ける信仰心に欠けていました。霊的には「しぼんでいく花」だったのです。主は、これを裁かれます。主はアッシリヤを使ってこれを滅ぼします。しかし、ここにも「残りの者」はいます。主を信仰する僅かな人たちです。万軍の主:ここでのこの方の役割は、残りの者にとっては、美しい冠であり、栄の飾りです、裁判官にとっては裁きの霊(正しい裁きの心)となり、城門を守る兵士にとっては、守りの力(勇気)となるのです。
「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、裁きを下すときよろける。どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余すところもない(28:7~8)」。
これらの者とは、現実においては世を支配している者たちです。彼らは、アッシリヤやバビロンの侵攻を前にして危機意識を持たず、呑んだくれていたのです。そればかりでなく、祭司や預言者までもが、物事を霊的に判断し、裁く立場を忘れてこの世の楽しみに浸っていたのです。聖書を読むと聖職者は飲酒を禁じられています。まさにエフライムは、この世的にも、霊的にも、しぼんでいく花だったのです。主は彼らを御足で踏みにじられるのです。しかし、主は尊いお方です。決して自らの手を汚しません。アッシリヤやバビロンを使います。しかし、用済みになれば、これを滅ぼします。いい気なものです。
アッシリヤの侵攻を前にして、エフライム(北イスラエル)の聖職者たちはイザヤの預言を嘲ります。そして言います。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(28:9~10)。彼らは言うイザヤは幼子を諭すように律法を守れと我々聖なる者に言っている。釈迦に説法だ。そんなことは誰もが知っている。あえて説くことでもない、と。しかし、主の説く律法(戒めと規則)は神を信じる者にとっては、最も基本的なことです。基本的なこととは、幼子でも分かるシンプルなものです。あざける者の言葉に応えてイザヤは語ります。「まことに主はもつれた舌で、外国の言葉で、この民に語られる(28:11)」と。もつれた舌、外国語で,語られる言葉は一般の民には理解不能な、分けのわからない言葉です。気の狂った人間の叫びに聞こえます。正常な言葉ではなく、異なった言葉です。いわゆる、異言です。異言とは御霊の賜物の一つです。神が人に乗り移って人が語る神のことばです。神のみが理解出来る御霊(精霊)の言葉です。人は、霊で祈り、霊で賛美します。
「主は、彼らに『ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休みがある』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった(28:12)。」マタイは、その福音書の中で主の言葉を次のように述べています。「すべて疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と。彼ら(酔っぱらった祭司や預言者)が、その罪を悔い改め、神に立ち返ったとき、真の休息が与えられるのです。そこは、平和と平安と安らぎのある世界です。神の国です。しかし彼らは、その言葉を理解せず、聞き入れなかったのです。
「主は彼らに告げられる。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』これは彼らが歩くとき、後ろざまに倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるためである(28-13)」。主は、わかりやすい言葉で、基本的な言葉を語りました。ところが、彼らはこの簡単明瞭な言葉に躓いて倒れ、手足を折られ、罠にかかって捕らえられるのです。彼らは不信仰ゆえに、神に裁かれるのです。「それゆえ、嘲るものたち―――エルサレムにいてこの民(残りの者)を物笑いにする者たちよ。主の言葉を聞け(28-14)」。と、イザヤは、彼らに対して、警鐘を発せられるのです。
「あなたがたは、こう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、黄泉と同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えてきてもそれは私たちには届かない。私たちはまやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから(28-15)。』」。死と黄泉とはエジプトを指しています。にわか水とは、アッシリヤのことです。たといアッシリヤの侵攻を受けても、エジプトの後ろ盾があるから、滅ぼされることはない。と高を括っていたのです。「まやかし」「偽り」とはエジプトを指します。神はないがしろにされています。頼りにすべきは主たる神のみなのです。神は高慢と高ぶりを最も嫌われるお方です。やがて、彼らはアッシリヤの脅威にさらされることになります。
「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、慌てることがない(28-16)』。見よ:終末預言(メシア王国、千年王国)を示唆することばです。「一つの石」、「試みを経た石」、「堅く据えられた礎の尊いかしら石」。これらの石は、メシア(イエス・キリスト)を現す比喩的表現です。神が据えられたこれらの石は決して風化することのない、どんな試練の中にあってもそれに耐え、屈服することのない勝利の石です。これを信じる者は、決してあわてることがない。救いが保障されているので、決して、焦るなとイザヤは言います。「わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、黄泉との同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えてくると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。』(28:17-19)」。
「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる(28:20)」。エジプトのことを言っています。神はアッシリヤの侵攻に対して、自分に頼らず、エジプトに頼るユダを戒めています。エジプトはアッシリヤに滅ぼされます。エジプトは役に立たなかったのです。
この後、イザヤは、真の救いは、神のみにあると語っていきます。神の御業は他と比較にならないくらいに強力だからです。それゆえ、神をあざけるな、と警告を発します。イザヤは、神の日(全世界に下る全滅の日)の啓示を聴いていたのです。
次に、イザヤは神のご計画を、農作業を例にとって語っていきます(28:23~29)。農民が地を耕すのは、そこに種を蒔き収穫するためです。そのためには道具も使います。このすべての農作業は、主の導きのもとに行われているのです。農作業は、信仰を現し、収穫は恵みを現します。「これもまた、万軍の主から出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんばかりは、素晴らしい(28:29)」。全能の神は、優れた教師であり、農夫(イスラエルの民)に、素晴らしい知恵を授けるのです。
令和5年4月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会