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イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ

2023年09月08日 | Weblog
イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ
 はじめに:これから後半(40~66章)に入ります。前半(1~39章)では、イスラエルに対する神のさばきが語られました。後半部分では神による慰めと将来への希望が語られます。前半ではイザヤが生きていた時代、すなわち、ヒゼキヤ王の時代を背景にして語られましたが、後半では、イザヤの時代より100年も先に起こるバビロンの捕囚からの解放と言う出来事が背景にあります。もちろん、イザヤもヒゼキヤ王もこの世には存在していません。それで後半はイザヤとは別人の作と言う説が有力です。しかし、ヨハネはその著「黙示録」の中で今よりはるかかなたにある「神の国」を預言しています。預言者は、神託を語る人です。預言者イザヤもその神託を語ったのです。神の言葉は、時と所を超えて、永遠、無限に真実です。それゆえ、後半部分もイザヤの作と見做すべきでしょう。
 紀元前586年にエルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ、捕囚の憂き目を見ます。やがてペルシャの王クロスが登場して、ユダの民を捕囚から解放します。ここでは主ご自身の民、すなわち、ユダヤ人に対する主の熱い思いが語られるだけでなく、その熱い思いがどのように実現するか、その担い手としてのメシアが初めて登場します。そこには、単なるバビロンの捕囚からの解放を超えた、神の壮大な終末的救いのご計画が預言されています。主がイスラエルの神となり、イスラエルは「神の選びの民」となるのです。こうして、イスラエルは、人類の祝福の基(源)となり「世界に献身した民族」になるのです。
 40章:預言者イザヤは言います「『慰めよ。慰めよ。私の民を』と、あなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けたと。』」。神の宣言は、懲らしめから慰めに代わります。「慰めよ」と言う言葉は、神への反逆へのさばきとして、一切のものを奪われ、捕囚の中におかれていたユダの民に対する神の手による赦しと解放の宣言です。一方的な恵みの宣言、福音を指します。その言葉はユダの民にとっては「慰め」となるのです。しかし、実際にユダの民を捕囚から解放したのは、ペルシャのクロス王です。クロス王は、神の御手と見做されています。主はユダの民をその罪ゆえに裁きました。しかしその裁きは、決して自己目的ではなかったのです。その罪を悔い改め、自分に立ち返るための手段としたのです。「その労苦は終わり、その労苦は償われ」て、いるのです。そして「そのすべての罪に引き換え、二倍ものものを主の手から受けたのです。
ここには、メシア(イエス・キリスト)による贖いの死があります。キリストは我々の罪を一身に背負って、十字架にかけられたのです。私たちの罪を贖い、回復し、祝福まで注いでくださったのです。二倍以上の恵みを我々は受け取っているのです。
 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒れ地で私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ』(40:3~5)」。バビロンから解放してくださった主が、ユダヤ人の罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。ここには福音伝道の働きが語られています。主の道を整えよと、「荒野で呼ばわる声」がします。荒野、荒れ地とは、いまだ主の恵みが及ばない異邦かつ異教人の地を指します。その地に、主の道を整えよと「呼ばわる声」がするのです。いわゆる異邦伝道です。それ妨げる障害物(山や川や谷)は取り除かれ主の道は整えられていきます。主の御口が語られたからです。主が、お命じになったからです。実際の道を整えよというよりも、神の民(イスラエル)が、神の前にへりくだって悔い改め、主を受け入れ、主と共に歩めと言っているのです。この声は、バプテスマのヨハネではないかといわれています。「私は預言者イザヤが言っているように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です(ヨハネ1:33)」。と、ヨハネは言っています。
「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『なんと呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人々は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは、永遠に立つ。』(40:4~8)」。形あるものは、どんなに華やかで力に満ちていてもいつかは滅びます。しかし形を持たない神の声は、永遠に立つのです。
 「シオンに良い知らせを伝えるものよ。高い山に上れ。エルサレムに良い知らせを伝えるものよ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』(40:9)」。良い知らせ(福音):救い主の到来、神の義の実現を意味します。見よ。あなたがたの神を:キリストの再臨を意味します。「神の国」が、近づいています。
「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主と共にある。その報酬は主の前にある(40:10)」。「福音」は神の国の到来を告げ知らせます。神の支配は真の平和をもたらします。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に小羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く(40:11)」。ここには「神の国」の持つ優しい姿が描かれています。主の力強く統べ治められる御腕は、同時に小羊を引き寄せ抱きしめ、お導きになる腕です。小羊とは、勿論、主を信じ敬う「神の子」たちです。
 これから神は、ご自分の偉大さ、威厳、威光、その超越した姿を描いていきます。そして、ご自分と偶像の神々との対比を行い、イスラエルの神がいかに優れているかを語ります。
 「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか(40:12)」。主は、ご自分を天地の創造者であり、支配者であることを明らかにします。この地のすべてのものは、主の手のひらにあり、転がされているのです。
 「だれが、主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主は誰と相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(40:13~14)」ここに書かれていることはすべて反語です。だれがは、だれも、です。主は万能です。だれも主に優って、教えたり授けたりは出来ないのです。ここには偶像批判があります。神の上に神を置いてはならないのです。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか(40:18)」。ここには偶像批判があります。「すべてこの世のものは、主の前では無いに等しく、主にとっては、むなしく形もないものとみなされるのです(40:15~17参照)」。
 神は、人類の最初の人アダムとエバを自分の似姿として造られました。しかし、彼らは、その罪により楽園を追われることによって、似姿であることをやめます。その末であるイスラエルの民も偶像を信じ、神に逆らい似姿にはなれなかったのです。人が似姿を回復するには、イエス・キリストの登場まで待たねばならないのです。イエスは聖処女マリヤと聖霊との間に生まれた永遠の祭司です。イエスは十字架の死を経験しますが、3日目に蘇り、今も生きており、我々に寄り添っています。永遠かつ無限の存在です。まさに神の似姿です。更に、イエスの贖いの死によって、人もその罪を赦されて「神の似姿」を回復します。
 ここに旧約聖書と新約聖書の違いを見ることができます。旧約聖書は裁きの書であり、新約聖書は救いの書であると言われています。 主は、永遠かつ無限の存在です。神とはあくまでも霊的な存在であって、その姿を見ることも触ることもできない隠れた存在です。聖書は言います。「神は自分の似姿として、人を造られた」と。しかし、神は姿をもたない霊的な存在です。そこで、人は逆に人の姿の中に神を見ます。その結果、「人の似姿が神」となります。恐れ多いことです。ここに「偶像」を生み出す基礎があります。偶像の作者たちは、具体的に自分のイメージに基づいて、想像上の「神」を、目に見える形(物)に造りあげます。しかし、形あるものはどんなに豪華絢爛、堅牢であっても、必ず滅びます。有限かつ儚い存在です(40:18~20参照)」。そこに偶像(物)と、神(霊)との決定的な違いがあります。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ(40:8)」。のです。草や花は「物=偶像」です。しかし、言葉は形を持たない「霊=神」です。
 次にイザヤは、神とは何かとその存在を明らかにしていきます。
 「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋のうえに住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる(40:21~22)」「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさを虚しいものにされる(40:23)」。ここには主の創造性が語られています。主は天地の創造者です。それ以外のものは、君主も裁き司も主によって造られその支配下にあります。主は、天に住まわれ、そこより地にある人を見守っておられるのです。
 「かれらが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす(40;24)。」金銀財宝を使って。やっと造られた偶像は、神の前には太刀打ちできません。すべて滅ぼされ、嵐の前の藁のように散らされます。
 「『それなのに、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか』と聖なる方は仰せられる(40:25)」。反逆する偶像を滅ぼされる主は、自分に較べうる偶像は存在しないと威厳を示し、無比性を明らかにします。イスラエルの神に優る神は存在しないのです。ここには偶像を造ることの愚かしさが語られています。「神の似姿」とは、あくまでも精霊であって、物であってはならないのです。
 「目を高く上げ、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つその名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも洩れるものはない(40:26)」。だれが星の数ほどある万象を数えて呼び出し、その膨大なものの一つ一つを造り、数えて、名をつけて呼ばれているかとイザヤは問うています。それはもちろん、神である主です。このように、この方は精力に満ち、その力は強く、なされることに洩れることはないのです。ここには神の至高性と全能性が語られています。
 「ヤコブよ。なぜ言うのか、イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と(40:27)」。イスラエルは、アッシリヤ、バビロンに侵攻され、捕らわれ、捕囚と、災厄に犯され続けています。イスラエルの民は言います「我々の神なら、なぜ我々を助けようとしないのか」と。しかし、イスラエルの民は、神に選ばれた契約の民です。神がイスラエルの民を見捨てるわけはないのです。
 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力の無い者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない(40:26~31)」。ここには、神の永遠性、創造性、万能性が語られています。イスラエルの民は、当然救われてしかるべきなのです。と言うことは、イスラエルの受けた災厄の原因は、主の側にではなく、イスラエルの側にあることを示しています。神は決して選ばれた民を見捨てません。主はイスラエルに手を差し伸べているのです。「主を待ち望む者は新しく力を得る」のです。しかし、イスラエルの民は、偶像を信じ、主の差し伸べる手を拒否したのです。災厄からの救いは、イスラエルの民の悔い改めと、神に立ち返ることにあるのです。神はお優しい方です。自分を信じ、敬う者には、鷲のように翼をかって上ることを赦し、走ってもたゆまず疲れることのない体を、お与えになるのです。神は自分を信じる者を堅くお守りになるのです。その彼方に「神の国」を見ています。神の国の住人は、勿論、回復した「神の似姿」です。
令和5年10月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会