日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

「伝道者の書」この世は『空』なり

2016年06月18日 | Weblog


伝道者の書」人の道は空の空
「伝道者の書」第Ⅰ章1~7節までを引用します。
「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
一つの時代が去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み。またもとの上るところに帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることが無い。川は流れ込むところに、また流れる」。
ここには「空」とは何かが述べられています。2つの視点から描かれています。
1、人生は不条理であり不可解である。
2、万物は流転して、何一つ永久に保つべき価値は無い。実体のないバーチャルなり。
これは伝道者がわれわれに投げかけた問題提起なのです。いかなる宗教でも最終的には救いを説きます。「空」からの解放は、何によってもたらされるのでしょうか。

伝道者とは誰か
さて、内容に入る前にこの書の作者「伝道者」とは誰かを探ってみたいと思います。聖書は具体的な名前を挙げていません。しかし、そのヒントは次の言葉です。
1、エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば(伝1:1)。
2、伝道者である私はエルサレムでイスラエルの王であった(伝1:12)。
ダビデの子でイスラエルの王と云えばソロモン以外にいません。この説に疑問をはさむもの(例えば聖書学者の月本昭夫)もいますが、それを証明する資料を提出していないので聖書の言葉に従います。
「雅歌」、「箴言」、「伝道者の書」はいずれもソロモンの作と云われています。ソロモンは青年時代に愛の詩を詠い(「雅歌」)、壮年期に智恵の言葉をまとめ(「箴言」)、経験を重ねた晩年になって、この世は全て虚しいと断じた(「伝道者の書」)のです。

 空の空 空の空、一切は空」 
「伝道者の書」は上の言葉から始まります。
人間社会の不条理と矛盾を説き明かし、人間の努力の空しさ、虚無性を追求します。これは人間のありのままの姿を肯定したもので、「人とは何か」の問いかけでもあるのです。人は「原罪」をもつ存在です。この視点を持たない限り、「空」の意味を知ることは出来ません。更に世界の無常性を詠嘆し万物は流転して実体を持たない、これも空なり、と叫びます。
伝道者は云います「わたしは日の下で行われた全てのわざを見たが、何と、すべてがむなしい事よ。風を追うようなものだ(伝1:14)」と。そこには義なるものが救われ、悪なるものが罰せられると云う「因果応報的」な考え方(このような秩序の背後には創造神がいると信じられている)は、ありません。義なるものが、不遇の境遇にあったり、悪人が安楽な生活を送り、賢人が社会の下棲みにあったり、愚者が権力者に成りあがったり、すべては不可解です。人の智恵で推し量るとき、すべては空であって、不条理です。(伝3:16、伝7:15、伝8:14、伝10:6~7参照)。
 神のわざは不可解なり
「と云うのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、智恵あるものも、彼らの働きも、神のみての中にあることを確かめたからである。彼らの前にある全てのものが、愛であるか、憎しみであるか人にはわからない。全ての事は全ての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、清い人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓うものにも、誓うのを恐れる者にも同様である。同じ結末が全ての人に来るということ、これは日の下で行われるすべてのことのうち最も悪い。だから人の子ら心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く(伝:9:1~4)」。
神の前ではすべてが平等である。

 刹那生滅(万物は流転する)  
 毎日新聞(平成28年6月10日)の「余禄」欄に、次のような記事が掲載されていました。仏教用語でいう「刹那生滅」についてです。刹那とは仏教用語で時間の最小単位を現す言葉です。1日の1/648万が、一刹那になると云います。一切のものは、この1刹那ごとに生と滅を繰り返していると言います。この考えを「刹那生滅」と云います。「万物は流転して止まることを知らないのです」。世界の事象は永遠に反復します。一定の時が定められた人生上の出来事も、最終的には永遠の反復の一部に過ぎないのです。
時間の経過の中で万物万象を見るとき、「今」と云う時は存在していません。「今」は時間を止めない限り存在しないのです。時間は留まること無く未来に向かって進んで行きます。一時たりとも同一の姿を持たないのです。まさに「刹那生滅」です。変化の中にものを見るとき、全てのものは実体を持たないバーチャル(虚像)なのです。1刹那ごとに変化していきます。これも「伝道者の書」は「空」と呼びます。では空の意味とは何でしょうか。

 空とは何か(空は無では無い) 
 容器の中に水が入っていなければ、容器の中の水が無であって、容器は無ではありません。存在しています。この場合、水の入っていない容器が「空」なのです。水が「無」なのです。聖書の言葉に「見れども見えず、聞けども悟らず」と云う言葉があります。これはイエスが人の無知を嘆いた言葉です。この場合、真なるものが見えず、悟ることのない人の智恵が「無」であって、イエスの言葉が「空」なのです。神の言葉は人知を超えています。人の智恵はイエスの言葉を悟らないのではなく、悟れないのです。「伝道者の書」は言います。「私は自分の心にこう語って云った。『いまや、私は、私より先にエルサレムにいた誰よりも智恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と、知識を得た。』私は一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った(伝1:16~17)」、「私は一心に智恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみ業であることがわかった。人は、日の下で行われるみ業を見極める事は出来ない。人は労苦して捜し求めても、見出すことは無い。智恵ある者が知っていると思っても、見極める事は出来ない(伝8:16~17)」、「何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを告げる事は出来ない(伝8:7)」。「神のなされることは、全て、時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神の行われるみ業を、始めから終りまで見極めることが出来ない(伝3:11)」。
 ここで云われている事は、人による、神を求めるいかなる努力もその結末は、人の判断や、能力を超えており、空なるものであって、神の智恵を知ることは出来ない、と云うことを示しています。人にとって神は「空」なるものであって、人知を超えているのです。「空」とは神の智恵なのです。このように、「伝道の書」は、神のもと人生の大いなる不条理の中、無力に立ちつくす人間の姿を描いています。しかし、それだけでしょうか。それだけなら人生は空なりと叫ぶ憐れな人間像が描かれるだけです。宗教はいかなるものでも救いを語ります。人に対する恵みを語ります。

  「われ思う、故にわれあり」 
 デカルトの有名な言葉に「われ思う、故にわれあり」と云う言葉があります。この言葉は「伝道者の書」を読む上で考えなければならない言葉を示しています。この言葉を説明する前に、この言葉を逆転してみます。「われあり、故にわれ思う」となります。この言葉は、あくまでも「われ」が中心です。「われ」が無い限り、「思う事」は出来ないのです。これが人の知恵です。われとは「煩悩」の固まりです。不条理、かつ不可解な世界に住んでいます。「伝道者の書」はこれを空なりと表現します。
この言葉を本来のものに戻してみます。「われ思う、故にわれあり」となります。われの前に神が来ます。ヨハネの福音書を読んでください。ヨハネの福音書は「初めに言葉あり。言葉は神なり」で始まります。この場合の神はイエス・キリストです。イエス・キリストは、万物の創造の前に来ます。この言葉の主役はイエス・キリストとなります。
「われ思う、故にわれあり」と云う言葉はまさに神の知恵なのです。イエス・キリストは、万物の創造の前に来ます。この言葉の主役はイエス・キリストとなります。神の智恵とは何か。それが「伝道者の書」のテーマです。
デカルト:フランスの哲学者。近世哲学の祖。解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする。あらゆる知識の絶対確実な基礎を求めて一切を方法的に疑った後、疑えない確実な真理として、「考える自己」を見出し、そこから神の存在を基礎づけた(〈広辞苑より〉のです。

 神の智恵 
 「伝道者の書」には永遠かつ無限なる時空を超えた神と、有限にして生成消滅する人が対照的に描かれています。人は有限なる命の中、永遠にして万能な、神の智恵を知ることが出来ません。ここには人と神との間の断絶があります。
しかし、祈ることは出来ます。神の恵みを求める事は出来ます。人の成すことは、すべてが空であって虚しい。しかし神のなさることはすべてが時にかなって美しいのです。
 「伝道者の書」は言います「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、全ての業を裁かれるからだ(伝12,13~14)」と。神の智恵は義なる者にも悪なるものにも、全てのものに対して平等です。これを不条理と感じ、虚しいと感じるのは人の浅はかな智恵なのです。神の愛は広く、深く、優しく人の世界を、包んでいるのです。
平成28年6月14日(火)
報告者 守武 戢 楽庵会



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