書簡集2 コリント人への手紙Ⅰ悔い改め神に帰れ
はじめに:
神のみ心によってキリスト・イエスの使者として召されたパウロと兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へとあてられた手紙がコリント人への手紙である。コリントとはギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶコリント地峡の西端にある都市で、古代にはアテナイ・スパルタに伍して繁栄した都市国家であった。パウロの時代、コリントはローマの属州であるアカヤの州都でありその範囲はマケドニヤの南にあった古代ギリシャの大部分まで広がっていた。豊かな貿易の中心地で、ローマ帝国全土から多くの人々が集まっておりその地域において最も多様性のある都市のひとつであった。コリントの宗教文化では偶像崇拝が優位を占めており、町のいたるところに神殿や祭壇が存在していた。パウロが手紙をしたためていた時代コリント人は極めて不道徳な民として知られていた。信者の分裂、誤った教え、不道徳、姦淫、神殿売春、等々。今日、この世に存在する多くの問題点を抱えていた。このことを伝え聞いたパウロが、少なくともコリントの教会の信者だけでもと、その原点であり、礎でもあるキリストへとその信仰を戻そうとして、したためたのがコリント人への手紙である。「コリント人への手紙1」5章を読んでほしい。作者はパウロである。
選びとは何か:
コリント人の教会の人々は、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と、パウロは言う。彼らは選ばれた人々である。その選ばれた民がなぜ神に逆らうのか。そんな民をなぜ神が選んだのか。旧約聖書でイスラエルの民が選ばれた民でありながら神に逆らい続けたのに似ている。パウロはいう「あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方はもはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなた方は代価を支払って買い取られたのです。だから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(6:19~20)」と。要するに神による選びはその体内に「聖霊」が宿っているか否かによって決まるのである。サウル(パウロ)はキリスト者に対する迫害者として現れたが、神による啓示によって回心し霊的存在として蘇ったのである。選びは神の選任事項であって、人の及ぶところではない。この選びは天地創造以前から決まっていることであり、ここに神の壮大なご計画を見るのである。キリスト者こそ、その担い手なのである。自分の中に聖霊を持たない者は、神を理解することも受け入れることもできない。この世の支配者たちはこの真理をだれ一人理解することができなかった。理解していたならば栄光の主を十字架にかけなかったであろう。パウロはいう「主はあなた方に必要なものはすべて与えている。清さを保て、そして悔い改めて、主に立ち返れ」と。しかしあなた方は主に従わず、好き勝手にふるまっている。あたかも主を信じない人みたいです。私の仕事はあなた方の畑に(心)に種子をまくことです。「あなた方は、まだ肉に属しているからです。あなた方の間に妬みや争いがあることからすれば、あなた方は肉に属しているのではありませんか。そしてただの人のように歩んでいるのではありませんか(3:3)」と、パウロはコリントの教会の信者に言う。肉から霊へ。あなた方は高められねばならない。と。福音宣教を必要とする。
コリント人への手紙は第1と第2に分かれており、この書簡は書簡集の中では最も長く全体の4分の1を占めている。
内容構成
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/b9/03ad9e5a2223c5987518d2dd61e44e39.jpg)
これまで私は主に逆らうコリントの民に対する主と神との基本的な関係を取り戻す方法を主題にして述べてきた。これからは基本に対する応用といって良いであろう。
男の役割、女の役割:
男は神に似せて作られたのであり、神の栄光の現れです。最初の男は女から作られたのではなく、最初の女が男から作られたのです。最初の男アダムはエバのために作られたのではなく、エバがアダムのために作られたのです(創世記を読め)。妻は夫に責任があり、夫はキリストに責任があり、キリストは神に責任があるのです。祈るとき、男は帽子を取り、女は帽子をかぶりなさい。女は男の権威の下にある証として頭にかぶり物をつけなければなりません。み使いたちが、それを認めて喜ぶためです。しかし、神の計画では、男と女とは互いに必要としあう存在であることを忘れてはいけません。なぜなら、最初の女は男から生まれたといっても、それ以後男はすべて女から生まれたからです。そして、男も女も神がお造りになったのです。長い髪は女の誇りです。しかし男の被り物は恥です。だから女が教会で祈るときは被り物をつけなさい。どこの教会でもこのことは同じです(11章参照)。
結 婚:
「男が女に触れないのは良いことです。しかし不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対し義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい(7:1~3)」。パウロは言うのです。独身は最善であり、結婚は次善であると、できるなら私のように一人でいなさい。と。パウロがいろいろうるさいことをいうのは、一人のほうが結婚生活に煩わされて神との接触が妨げられるのを恐れたからである。
>死人の復活:
ここに一つの疑問がある。「死んだ者は2度と生き返らない。生き返ったのはキリスト・イエスだけではないのか」と。パウロはこれに反論する。「もし、死人の復活がないのならキリストは今も死んだままです。死者の復活がなかったらキリストも復活されなかったでしょう。死が一人の人を通じてきたように、死者の復活も一人の人を通じてきたからです。すなわち、アダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべてに人が生かされるからです。そして最後の敵である死も滅ぼされるのです。「最初のアダムは生きたものとなった。最後のアダム(イエス・キリスト)は御霊となった。地より生まれたものは地に帰るが、天から来たキリストは死を克服して天に戻る。ここで言われていることは「最後の審判」を指しているのだろうか。
アガペー(神の愛):
この章(13章)では無償の愛が述べられている。この愛に支えられることのないいかなる善と言われている行為も何らの価値を持たない。神が罪びとたる人間に対して一方的に恩寵を与える行為でキリストの自己犠牲的な愛として新約聖書に現れた思想。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(13:4~7)」。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です(13:13)。
異言と預言:
異言とは宗教的恍惚状態において発せられる理解不能な言葉。御霊の力によって語る言葉。それゆえ神によってのみ理解されるが一般の人には理解不能である。
預言とは神から預かった言葉を、徳を高め勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話す言葉である。それゆえ福音宣教の場では預言で語ることが推奨される。異言はそれを解き明かす通訳がいない限り人の前で語ってはならない。混乱を引き起こすだけです。一人静かに神に向かって話しなさい。通訳がいる場合はこの限りではありません。徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために異言を語りなさい。
概 要:
コリントの教会は派閥争いに明けくれていた(1:12)。パウロは彼らにイエス・キリストのもとに一つになれと警告する(3:21~23)また彼らの多くは性的に乱れていた(5~12)。パウロは教会を汚しているものを除き清くなれと命じる(5:13)。彼らは互いを裁判に訴えていた(6:12)。このように、コリントの教会は神によって選ばれた民にもかかわらず穢れていた。神の義とは何かをパウロは彼らに解き明かす。
パウロは彼らに結婚と聖潔について語り(7章)、偶像に捧げられた肉の扱い方(8~10章)、キリスト者の自由(9章)、聖餐式(11:17~34)、霊的賜物(12~14章)、そしてキリストの復活についても語っている(15章)。パウロはコリントのキリスト者がした質問に答え、間違った歩みを正すよう、この手紙で語っている。
はじめに:
神のみ心によってキリスト・イエスの使者として召されたパウロと兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へとあてられた手紙がコリント人への手紙である。コリントとはギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶコリント地峡の西端にある都市で、古代にはアテナイ・スパルタに伍して繁栄した都市国家であった。パウロの時代、コリントはローマの属州であるアカヤの州都でありその範囲はマケドニヤの南にあった古代ギリシャの大部分まで広がっていた。豊かな貿易の中心地で、ローマ帝国全土から多くの人々が集まっておりその地域において最も多様性のある都市のひとつであった。コリントの宗教文化では偶像崇拝が優位を占めており、町のいたるところに神殿や祭壇が存在していた。パウロが手紙をしたためていた時代コリント人は極めて不道徳な民として知られていた。信者の分裂、誤った教え、不道徳、姦淫、神殿売春、等々。今日、この世に存在する多くの問題点を抱えていた。このことを伝え聞いたパウロが、少なくともコリントの教会の信者だけでもと、その原点であり、礎でもあるキリストへとその信仰を戻そうとして、したためたのがコリント人への手紙である。「コリント人への手紙1」5章を読んでほしい。作者はパウロである。
選びとは何か:
コリント人の教会の人々は、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と、パウロは言う。彼らは選ばれた人々である。その選ばれた民がなぜ神に逆らうのか。そんな民をなぜ神が選んだのか。旧約聖書でイスラエルの民が選ばれた民でありながら神に逆らい続けたのに似ている。パウロはいう「あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方はもはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなた方は代価を支払って買い取られたのです。だから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(6:19~20)」と。要するに神による選びはその体内に「聖霊」が宿っているか否かによって決まるのである。サウル(パウロ)はキリスト者に対する迫害者として現れたが、神による啓示によって回心し霊的存在として蘇ったのである。選びは神の選任事項であって、人の及ぶところではない。この選びは天地創造以前から決まっていることであり、ここに神の壮大なご計画を見るのである。キリスト者こそ、その担い手なのである。自分の中に聖霊を持たない者は、神を理解することも受け入れることもできない。この世の支配者たちはこの真理をだれ一人理解することができなかった。理解していたならば栄光の主を十字架にかけなかったであろう。パウロはいう「主はあなた方に必要なものはすべて与えている。清さを保て、そして悔い改めて、主に立ち返れ」と。しかしあなた方は主に従わず、好き勝手にふるまっている。あたかも主を信じない人みたいです。私の仕事はあなた方の畑に(心)に種子をまくことです。「あなた方は、まだ肉に属しているからです。あなた方の間に妬みや争いがあることからすれば、あなた方は肉に属しているのではありませんか。そしてただの人のように歩んでいるのではありませんか(3:3)」と、パウロはコリントの教会の信者に言う。肉から霊へ。あなた方は高められねばならない。と。福音宣教を必要とする。
コリント人への手紙は第1と第2に分かれており、この書簡は書簡集の中では最も長く全体の4分の1を占めている。
内容構成
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/b9/03ad9e5a2223c5987518d2dd61e44e39.jpg)
これまで私は主に逆らうコリントの民に対する主と神との基本的な関係を取り戻す方法を主題にして述べてきた。これからは基本に対する応用といって良いであろう。
男の役割、女の役割:
男は神に似せて作られたのであり、神の栄光の現れです。最初の男は女から作られたのではなく、最初の女が男から作られたのです。最初の男アダムはエバのために作られたのではなく、エバがアダムのために作られたのです(創世記を読め)。妻は夫に責任があり、夫はキリストに責任があり、キリストは神に責任があるのです。祈るとき、男は帽子を取り、女は帽子をかぶりなさい。女は男の権威の下にある証として頭にかぶり物をつけなければなりません。み使いたちが、それを認めて喜ぶためです。しかし、神の計画では、男と女とは互いに必要としあう存在であることを忘れてはいけません。なぜなら、最初の女は男から生まれたといっても、それ以後男はすべて女から生まれたからです。そして、男も女も神がお造りになったのです。長い髪は女の誇りです。しかし男の被り物は恥です。だから女が教会で祈るときは被り物をつけなさい。どこの教会でもこのことは同じです(11章参照)。
結 婚:
「男が女に触れないのは良いことです。しかし不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対し義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい(7:1~3)」。パウロは言うのです。独身は最善であり、結婚は次善であると、できるなら私のように一人でいなさい。と。パウロがいろいろうるさいことをいうのは、一人のほうが結婚生活に煩わされて神との接触が妨げられるのを恐れたからである。
>死人の復活:
ここに一つの疑問がある。「死んだ者は2度と生き返らない。生き返ったのはキリスト・イエスだけではないのか」と。パウロはこれに反論する。「もし、死人の復活がないのならキリストは今も死んだままです。死者の復活がなかったらキリストも復活されなかったでしょう。死が一人の人を通じてきたように、死者の復活も一人の人を通じてきたからです。すなわち、アダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべてに人が生かされるからです。そして最後の敵である死も滅ぼされるのです。「最初のアダムは生きたものとなった。最後のアダム(イエス・キリスト)は御霊となった。地より生まれたものは地に帰るが、天から来たキリストは死を克服して天に戻る。ここで言われていることは「最後の審判」を指しているのだろうか。
アガペー(神の愛):
この章(13章)では無償の愛が述べられている。この愛に支えられることのないいかなる善と言われている行為も何らの価値を持たない。神が罪びとたる人間に対して一方的に恩寵を与える行為でキリストの自己犠牲的な愛として新約聖書に現れた思想。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(13:4~7)」。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です(13:13)。
異言と預言:
異言とは宗教的恍惚状態において発せられる理解不能な言葉。御霊の力によって語る言葉。それゆえ神によってのみ理解されるが一般の人には理解不能である。
預言とは神から預かった言葉を、徳を高め勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話す言葉である。それゆえ福音宣教の場では預言で語ることが推奨される。異言はそれを解き明かす通訳がいない限り人の前で語ってはならない。混乱を引き起こすだけです。一人静かに神に向かって話しなさい。通訳がいる場合はこの限りではありません。徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために異言を語りなさい。
概 要:
コリントの教会は派閥争いに明けくれていた(1:12)。パウロは彼らにイエス・キリストのもとに一つになれと警告する(3:21~23)また彼らの多くは性的に乱れていた(5~12)。パウロは教会を汚しているものを除き清くなれと命じる(5:13)。彼らは互いを裁判に訴えていた(6:12)。このように、コリントの教会は神によって選ばれた民にもかかわらず穢れていた。神の義とは何かをパウロは彼らに解き明かす。
パウロは彼らに結婚と聖潔について語り(7章)、偶像に捧げられた肉の扱い方(8~10章)、キリスト者の自由(9章)、聖餐式(11:17~34)、霊的賜物(12~14章)、そしてキリストの復活についても語っている(15章)。パウロはコリントのキリスト者がした質問に答え、間違った歩みを正すよう、この手紙で語っている。
>平成31年4月9日(火)報告者守武 戢 楽庵会
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