神の義と愛
先のリポートで私は、運命は神がつくり人はそれに従う以外にない、と書いた。それでは人はその人生において何をなすべきか?神に対して人の可能性は何であろうか?私が神について勉強するのは、人間の問題を勉強したいからである。この世は人間だけの世界ではなく、そのかなたに神の存在があると信じたいからである。絶対的存在である神の前に立つ相対的人間。唯物論者は神は人の観念が作り出した幻影であるという。人の神を求める心が疎外して神を作りだしたという。
しかし、自分の前に広がる広大な永遠かつ無限の宇宙を見る時、そこに人知を超えた世界があるのを感じる。宇宙は神がつくり賜うたと認めないわけにはいかない。また、地球上に存在するすべての生物を見る時、そこには生があり死があり、永遠の命を持つものはいない。そこには例外は無い。更に地球上に存在するあらゆる高等動物を見る時、彼らは、精密機械を思わせる同一のシステムを持つ。そこには脳があり、心臓があり、肺があり、胃があり、腸があり、肝臓がある。このようなものを人は作ることは出来ない。神はあらゆるものを作り、あらゆるものを司る。この広大な空間は神の設計図に基ずいて作られたのである。神の前では人は極めて微小な存在であるにすぎない。
神による宇宙空間の創造から、人の誕生までを、旧約聖書の創世記は記述している(旧約聖書創世記1章1~31、2章1~3)。
神の存在を認めたうえで、今度は、神と人との関係について述べてみたい。人の運命について考える時、目にみることの出来ない神の意志は、いかにして人に通ずるのか
時間は不可逆性であるから過去は戻ってこない。未来は不可知であり、何が起こるか判らない。問題は現在である。現在のみが人間の可能性を現実性に転化する。人は最大限自分の望むことに関して出来る限り努力せよ、人事を尽くせ、そして天命を待て。聖書は次のように書いている「わたしは、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。誰であっても求めるものは受け、捜すものは見つけだし、叩くものには、開かれます(ルカの福音書11章9~10)」と。しかし、人の人生は全て順調にいくとは限らない。様々な局面において試練に会い、悩み苦しみ、行き先を見失うことがある。その結果間違った方向に進むかもしれない。この時、神に祈れ、神は全てをお見透しである。これに応えて行き先を示し正しい方向に導いて下さる。聖書は次のように述べている「天の父が、求めるものに精霊を下されないわけがありません(ルカの福音書11章13)」と。これが神の義であり、愛である。神と人間との間の正しい関係である。しかし神は見えない存在であり、具体的な形で諭し導かれるわけではない。神は人に啓示を与え、人はそれを直感する。これが神体験である。これが運命は神が作るという意味である。しかし、愚者はこれに気づかない。気づいていてもこれに従わない。神に反抗して自分の意志を貫こうとする。これが罪である。
さて、次に聖書に基づいて、神の義とは、愛とは何かについて述べていきたいと思う。
ここで私は二つの物語を取り上げる。一つはカインとアベルの物語であり、もう一つは放蕩息子のたとえ話である。聖書は不思議な事に兄には厳しく、弟には寛容である。
新約聖書ルカの福音書15章12~32に書かれている「放蕩息子の物語」から始めよう。ある父親がいた。彼には兄の親孝行息子と、弟の親不幸息子の二人がいた。弟は父から財産のうち自分の取り分を貰って、家を出る。散々放蕩をしたあげく、一文無しになって家に帰ってくる。今までの生活を悔い改め、奉公人としてでも良いから、働かして欲しいと願う。それに対して父親は最高のもてなしで彼を迎える。それに対して孝行息子は怒る。自分は父と共に汗水流して働き、父に一度も逆らった事は無いではないか、それなのに私は一度も弟に与えたような恵みを与えられた事は無かった、と、その不公平さをなじる。それに対して、父は次のように言って兄息子を諭す。「いいか、よく聞きなさい。お前はいつだって、私のそばにいたではないか。私のものは全部お前のものだ。だがな、考えてもみろ、あれはお前の弟なんだよ。死んだと思ってあきらめていたのに、無事に帰って来たんじゃないか。いなくなっていたものが見つかったんだから、お祝いするのは当たり前ではないか(ルカの福音書5章:31)」と。この父を神とみなすならば。孝行息子は常に父といた。インマニュエル。人は神と共にあり。その財産は、天の倉に収められる恵み、永遠の命である。兄息子はすでに救われているのである。救われているものを再び救う必要があるのか?と父は息子に言うのである。それに対して放蕩息子は一文無しになり前非を悔い神に救いを求めたのである。神がこれを救わない事は無いのである。これが神の義であり、愛である。放蕩息子も親孝行息子も共に救われるのである。貧しきものも、豊かなものも、強者も弱者も、知者も愚者も、善人も悪人も神を信じる者は皆な救れるのである。
次にカインとアベルの話に移る。カインもアベルも共にアダムと、イブの息子であり、カインは兄、アベルは弟である。カインは農業を生業いとし、アベルは牧畜を生業いとしていた。ある時二人は神に捧げものをする。神は、アベルの捧げものには喜びを与え、カインの捧げものは無視する。カインはその不公平さに怒り、顔を伏せた。神はそれに対して次のように言う。「なぜあなたは憤っているのか。なぜ顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば。受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だがあなたはそれを収めるべきである」と。神はカインの誤りを指摘し、その誤りを収めろ、と言ったのである。ここには神の義がある。アベルは牧畜従事者として羊の初子の中から最上のものを神にささげたのである。それに対してカインは農耕従事者として地の作物をささげたのである。これのどこに誤りがあるのか?小羊は、神の子イエスキリストを現している。それ故、その捧げ物は神にとっては最上のものだったのである。神は血を魂を捧げものとして要求したのである。アブラハムはその息子イサクが救われた時、イサクの代わりに全焼の生贄として雄羊をささげている(創世記22章1~13)。カインはそれを理解しなかった。捧げるものを間違ったのである。捧げ直すことは可能であったかもしれない。しかし、愚か者のカインは神の導きに従わなかった。カインはアベルをねたみ、これを殺害する。神はこれを罰する。カインの畑は、実りを無くし、カインは放浪の旅に出る。しかし、この旅は危険に満ちている。神はこのカインの命を保証する。
この二つの話において、兄たちは神の義を愛を理解せず、その意思を不公正と判断し、これに怒りをぶつける。しかし、神は全ての人に対して、公平であり、これに恵みを与える。これが神の義であり、愛である。ここには神にとって受ける愛と(親孝行息子の愛)、授ける愛(親不幸息子に対する愛)の二つが語られている。人は神から受けるだけでなく能動的に与える愛を行わねばならない。与える愛とは神の教えに従って、人生を真剣に生きることである。神にその恵みを返していく愛である。その事により人の人生は活性化する。間違いを恐れるな、間違った場合神は教え導いて下さる。人はそれに従えば良いのだ。これが運命は神が作るという意味である。人事を尽くして天命を待て。これが神と人との間の正しい関係なのである。
先のリポートで私は、運命は神がつくり人はそれに従う以外にない、と書いた。それでは人はその人生において何をなすべきか?神に対して人の可能性は何であろうか?私が神について勉強するのは、人間の問題を勉強したいからである。この世は人間だけの世界ではなく、そのかなたに神の存在があると信じたいからである。絶対的存在である神の前に立つ相対的人間。唯物論者は神は人の観念が作り出した幻影であるという。人の神を求める心が疎外して神を作りだしたという。
しかし、自分の前に広がる広大な永遠かつ無限の宇宙を見る時、そこに人知を超えた世界があるのを感じる。宇宙は神がつくり賜うたと認めないわけにはいかない。また、地球上に存在するすべての生物を見る時、そこには生があり死があり、永遠の命を持つものはいない。そこには例外は無い。更に地球上に存在するあらゆる高等動物を見る時、彼らは、精密機械を思わせる同一のシステムを持つ。そこには脳があり、心臓があり、肺があり、胃があり、腸があり、肝臓がある。このようなものを人は作ることは出来ない。神はあらゆるものを作り、あらゆるものを司る。この広大な空間は神の設計図に基ずいて作られたのである。神の前では人は極めて微小な存在であるにすぎない。
神による宇宙空間の創造から、人の誕生までを、旧約聖書の創世記は記述している(旧約聖書創世記1章1~31、2章1~3)。
神の存在を認めたうえで、今度は、神と人との関係について述べてみたい。人の運命について考える時、目にみることの出来ない神の意志は、いかにして人に通ずるのか
時間は不可逆性であるから過去は戻ってこない。未来は不可知であり、何が起こるか判らない。問題は現在である。現在のみが人間の可能性を現実性に転化する。人は最大限自分の望むことに関して出来る限り努力せよ、人事を尽くせ、そして天命を待て。聖書は次のように書いている「わたしは、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。誰であっても求めるものは受け、捜すものは見つけだし、叩くものには、開かれます(ルカの福音書11章9~10)」と。しかし、人の人生は全て順調にいくとは限らない。様々な局面において試練に会い、悩み苦しみ、行き先を見失うことがある。その結果間違った方向に進むかもしれない。この時、神に祈れ、神は全てをお見透しである。これに応えて行き先を示し正しい方向に導いて下さる。聖書は次のように述べている「天の父が、求めるものに精霊を下されないわけがありません(ルカの福音書11章13)」と。これが神の義であり、愛である。神と人間との間の正しい関係である。しかし神は見えない存在であり、具体的な形で諭し導かれるわけではない。神は人に啓示を与え、人はそれを直感する。これが神体験である。これが運命は神が作るという意味である。しかし、愚者はこれに気づかない。気づいていてもこれに従わない。神に反抗して自分の意志を貫こうとする。これが罪である。
さて、次に聖書に基づいて、神の義とは、愛とは何かについて述べていきたいと思う。
ここで私は二つの物語を取り上げる。一つはカインとアベルの物語であり、もう一つは放蕩息子のたとえ話である。聖書は不思議な事に兄には厳しく、弟には寛容である。
新約聖書ルカの福音書15章12~32に書かれている「放蕩息子の物語」から始めよう。ある父親がいた。彼には兄の親孝行息子と、弟の親不幸息子の二人がいた。弟は父から財産のうち自分の取り分を貰って、家を出る。散々放蕩をしたあげく、一文無しになって家に帰ってくる。今までの生活を悔い改め、奉公人としてでも良いから、働かして欲しいと願う。それに対して父親は最高のもてなしで彼を迎える。それに対して孝行息子は怒る。自分は父と共に汗水流して働き、父に一度も逆らった事は無いではないか、それなのに私は一度も弟に与えたような恵みを与えられた事は無かった、と、その不公平さをなじる。それに対して、父は次のように言って兄息子を諭す。「いいか、よく聞きなさい。お前はいつだって、私のそばにいたではないか。私のものは全部お前のものだ。だがな、考えてもみろ、あれはお前の弟なんだよ。死んだと思ってあきらめていたのに、無事に帰って来たんじゃないか。いなくなっていたものが見つかったんだから、お祝いするのは当たり前ではないか(ルカの福音書5章:31)」と。この父を神とみなすならば。孝行息子は常に父といた。インマニュエル。人は神と共にあり。その財産は、天の倉に収められる恵み、永遠の命である。兄息子はすでに救われているのである。救われているものを再び救う必要があるのか?と父は息子に言うのである。それに対して放蕩息子は一文無しになり前非を悔い神に救いを求めたのである。神がこれを救わない事は無いのである。これが神の義であり、愛である。放蕩息子も親孝行息子も共に救われるのである。貧しきものも、豊かなものも、強者も弱者も、知者も愚者も、善人も悪人も神を信じる者は皆な救れるのである。
次にカインとアベルの話に移る。カインもアベルも共にアダムと、イブの息子であり、カインは兄、アベルは弟である。カインは農業を生業いとし、アベルは牧畜を生業いとしていた。ある時二人は神に捧げものをする。神は、アベルの捧げものには喜びを与え、カインの捧げものは無視する。カインはその不公平さに怒り、顔を伏せた。神はそれに対して次のように言う。「なぜあなたは憤っているのか。なぜ顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば。受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だがあなたはそれを収めるべきである」と。神はカインの誤りを指摘し、その誤りを収めろ、と言ったのである。ここには神の義がある。アベルは牧畜従事者として羊の初子の中から最上のものを神にささげたのである。それに対してカインは農耕従事者として地の作物をささげたのである。これのどこに誤りがあるのか?小羊は、神の子イエスキリストを現している。それ故、その捧げ物は神にとっては最上のものだったのである。神は血を魂を捧げものとして要求したのである。アブラハムはその息子イサクが救われた時、イサクの代わりに全焼の生贄として雄羊をささげている(創世記22章1~13)。カインはそれを理解しなかった。捧げるものを間違ったのである。捧げ直すことは可能であったかもしれない。しかし、愚か者のカインは神の導きに従わなかった。カインはアベルをねたみ、これを殺害する。神はこれを罰する。カインの畑は、実りを無くし、カインは放浪の旅に出る。しかし、この旅は危険に満ちている。神はこのカインの命を保証する。
この二つの話において、兄たちは神の義を愛を理解せず、その意思を不公正と判断し、これに怒りをぶつける。しかし、神は全ての人に対して、公平であり、これに恵みを与える。これが神の義であり、愛である。ここには神にとって受ける愛と(親孝行息子の愛)、授ける愛(親不幸息子に対する愛)の二つが語られている。人は神から受けるだけでなく能動的に与える愛を行わねばならない。与える愛とは神の教えに従って、人生を真剣に生きることである。神にその恵みを返していく愛である。その事により人の人生は活性化する。間違いを恐れるな、間違った場合神は教え導いて下さる。人はそれに従えば良いのだ。これが運命は神が作るという意味である。人事を尽くして天命を待て。これが神と人との間の正しい関係なのである。
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