日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

夏目漱石「門」罪と罰

2007年11月05日 | Weblog
 世間の片隅に、ひっそりと、つましく、世間から隠れて身を寄せ合い、自分たちの愛のみを頼りに生きている一組の夫婦(宗助と御米)があった。彼らは世間から断絶され、自からも世間との交渉を絶ち、何事にも消極的で、遺産相続にたいしても、宗助の弟=小六の身の振り方にも積極的に動こうとはしない。そこには「平和と安定」があったが、反面「退屈と倦怠と怠惰」があった。そんな生活を漱石は長々と描写した後に彼らの過去=罪と罰を語る。
 御米は宗助の友人=安井の妻であった。それを宗助は奪ったのである。世間は容赦なく不徳義な男女として彼らに徳義上の罪を背負わせた。彼らは親を捨てた。親類を捨てた。友達を捨てた。大きく言えば、一般社会を捨てた。もしくはそれらから捨てられた。勿論大学からも捨てられた。それが彼らの過去であった。外に向かって生長する余地を失った二人は内に向かって伸び始めた。その愛ゆえに彼らは自らを幸福と評価した。彼らは一つの有機体あった。そんな彼らにも激しいものが無かったわけではない。それは御米の三回にも及ぶ流産であり、子供を産めない身体になった。彼女はこれを自らの犯した罪に対する「天罰」と受け止めた。さらに大学を止め満州浪人に身をやつした、忘れた筈の安井の消息であった。宗助は安井との再会を恐れて禅寺に逃げ込む。しかし動機において不純であるがゆえに、そこには救いはない。禅寺にいる間に安井は去っていった。その後の二人の生活は何も変わらなかった。「平和と安定」も「退屈と倦怠と怠惰」も共に存在していた。そこには世間に対する諦めと絶望があった。彼らは多くの犠牲を払って結婚をした。その結果世間からの恐るべき復讐を受けた。しかしその代償として得た幸福に関しては、愛の神に感謝することを忘れなかった。彼らはおそらく今後も鞭打たれつつ死に赴くであろう。ただその鞭の先に、すべてを癒す蜜のついていることを、彼らははっきりと認識していたのである。
 なんとまあー、暗く、陰鬱で救いのない作品であろうか?「三四郎」に見られる若々しさはなく、「それから」に見られる世間に挑戦する戦闘的なロマンチシズムもない。彼らは罪の意識に自らを苛み、世間から隠れ、身を寄せ合って生きいる。自らの真実の愛に立ち向かう壁に対して抵抗しようともしない。
 漱石は、「三四郎」の中で明治維新後に生まれた新しい知識人の姿を生き生きと描き、その中で三四郎の美禰子に対する、ほのかな恋と失恋を描く。「それから」では代助は真実の愛に目覚め平岡からその妻=美千代を奪う。「門」では不倫の愛に対するその罪と罰が描かれる。宗助と御米には世間の片隅で互いの愛を確かめながらひっそりと生きることしか許されていない。漱石は当時の社会状況を考えて、これ以上の解決を考えることが出来なかったのであろう。ここに漱石の限界があり、近代リアリズムの限界がある。心(内)の開放を阻むものが世間(外)であるなら、外の開放こそが必要なのである。
 前の「三四郎」の論評の中で、私は近代リアリズムの発展的、批判的な継承者としてプロレタリア文学をあげた。しかし継承者であるべきプロレタリア文学は、近代リアリズムの持つ葛藤を、ブルジョア知識人の贅沢な個人的な悩みと考えこれを切捨て、近代リアリズムと対立した。そしてプロレタリア文学の多くの作家は、資本家と地主は悪玉、労働者と農民は善玉と見る類型的把握から一歩も出ることはなく勧善懲悪思想に堕してしまい、近代リアリズム以前に戻ってしまう。そこには生きた人間の姿は描かれていない。その欠陥を取り除こうと、小林多喜二等の作家の努力も見られる。マルクスやエンゲレスは働くものの開放を基礎にして、全ての人間の解放を夢見ていたのである。それを忘れないで欲しい。
 さらにソ連邦(当時、今のロシア共和国)における社会主義リアリズムは、ゴーリキーの「母」によって確立されたが、当初こそ、その成果をあげたものの、スターリン主義の確立と共に偏狭な形式主義、政治主義に堕していった。さらにソ連社会主義の無謬性という神話に対抗してソ連内部の矛盾を明らかにし、それを徹底的に批判した反体制知識人(ソルジェニーツェン、サハロフなど)は弾圧され、その本来的な発展は阻害された。さらにソ連東欧の社会主義体制の崩壊は芸術活動にも大きな影響を与え、プロレタリア文学と共にその方向性を見失った。ということは近代リアリズムもまた方向を見失ったことを意味している。文学活動を含む芸術活動はどこに行くのだろうか?


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