イザヤ書XXII、45章1~25節 油注がれた者<
はじめに:
主は、ご自分の救いの手をイスラエルにだけに留めておかれません。諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるように呼びかけられます。しかし、思うようにはいきません。主は、天と地と人を造り、これを仕上げられたお方です。創造者です。『わたしのほかに神はいない』と高らかに宣言します。だから私を信ぜよ、と主は仰せられます。他の神は全て偽の神、偶像です。
「だから、信ぜよ」と言う言葉は、創造者としての前提条件のすべてを、正しいと考えるがゆえに、結論はストレートに導き出されます。その結論とは、神に対する信仰の、絶対性です。「独善的」な思考方法です。他の可能性は、全て否定されます。神は、神そのものです。何物にも左右されません。しかし、それは、信仰の人にはともかくとして、異邦かつ異教の人には受け入れ難いことです。選択の余地がないからです。
信仰の人は、前提条件を疑わずに、御言葉を行動として、展開します。そのため、社会は混乱します。神を信じる者と信じない者との間に対立抗争、差別迫害が起こります。
ここに、悪魔の付け込むスキがあります。悪魔は、優しい顔をして人に近づきます。そのため、人は騙され、偶像の入り込む余地が出て来ます。
45章全体は、未来に対する神の希望であり、預言です。「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」のです。素晴らしい世界が預言されていますが、その預言の実現は、イザヤ書の段階(旧約聖書)では、実現していません。その実現は、キリスト(新約聖書)の出現以後まで待たねばなりません。
「救い」の観点から見る限り、新・旧両聖書は一体化しています。
45章:「主は、油を注がれたクロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする(45:1)』「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る(45:2)」。「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶもの、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ(45:3)」言葉の説明:油をそそぐ:すべてのキリスト者は、神によって油を注がれた者であり御国の建設と言う目的を持ちます。油を注がれた者とは、神によって選ばれた者を指し、祝福、守り、力が、神によって与えられた者を言います。クロス王の活躍:油を注がれたクロス王を通じて主は、救い主としての働きを行われます。彼は、平定した諸国の武装解除を行い、城門を解放しました。主がそれを助けたのです。主は、世界制覇を試みるクロスを助け、彼の前に立ちはだかる諸国を滅ぼします。戦いに敗れた国々の隠された財宝は見つけ出され、それを主はクロスに与え、仰せられます。「わたしが主であり、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ』と。
クロスによるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、かれが、主を知らなかったことです。「私のしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える(45:4)」「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる(45:5)。あなたとは、クロス王のことです・彼は異教徒で、多神教の信者です。それにもかかわらず、主は、彼に「油を注がれた者」と言う肩書をお与えになり、力を帯びさせたのです。その理由は、自分のほかに神はいないことを世界に知らしめることにあったのです。『わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない」。主は、自分のほかに神はいないことを世界に向かって高らかに宣言します。
イスラエルから世界へ、クロスは、そのための最高かつ最良の神のしもべです。クロスはペルシャ帝國の創設者であり、初代の帝王です。彼によって東はインド、西は小アジア、南はエジプトに到る大帝国が形成されました。その背後に、主の力があったことを忘れてはなりません。『それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない(45:6)』。45章1~7節には、ペルシャ王クロスによるイスラエルの解放を告げる約束が語られていますが、6節には、その救いは、イスラエルに限られたものではなく、日の上るところから、沈むところまで、世界中の人々が知るようになると、描かれています。クロスによって神の福音の伝播が行われるのです。主は、自分の唯一性と無比性を世界に向かって高らかに宣言します。『わたしが、主である。ほかにいない』と。
『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者(45:7)』。ここには、主の永遠性(光)と万能性が語られています。主は、光の創造者であるだけでなく、やみの創造者でもあります。また、平和だけでなく災いをも創造するお方です。毒を知らずして、命は救えないのです。ある場合には自分の目的を達成するためには、悪魔すらも利用するお方です(万能性)。
「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した(45:8)」。主は、天から正義を降らせ、地には救いを実らせます。主は、自分の正義によって、イスラエルを救い、それによって、イスラエル自身も自分を義とするのです。ここには神の国が想定されています。この国(神の国)には神の義と救いが満ち溢れています。
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造ったものに抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を造るのか』とか、『あなたの造ったものには手がついていない』などと言うであろうか(45:9)。」ここには、自分を造ったもの(神)に抗議する者に対する批判があります。粘土(神を信じる者)は決して形造る者(神)の、み言葉を疑いません。信じてこれに従います。
「ああ。自分の父に『なぜ子供を産むのか』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか』と言う者(45:10)」。父も母も自分を形造った方です。ここに出てくる父と母は、神を現します。子の出産は、喜びです。しかし、その喜びを受けるには産みの苦しみを伴います。産みの苦しみは、喜びを受けるための必要悪です。苦しみと喜びは一体化しています。キリストは、十字架の死(苦しみ)によって我々の罪を贖いました。それゆえ、私たちは罪から解放された(喜び)のです。ここには主の一方的な愛(憐み)が描かれています。
「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こることを、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか(45:11)。主は、異邦人であり異教の民に語り掛けます。これから起こることとは、「神の国」ことです。わたしの手で造ったものとは、大地や人です。これは、反語です。お前たちに「神の国」を造れるか、大地や人を支配できるか、出来ないであろう、それの出来るのは、わたしのみだと、言っているのです。そして、次の節(12節)に続きます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き述べ、その万象に命じた(45:12)。主は創造主です。天を造り、その下に大地を造り、人を創造しました。福音の幅を広げ、その御業を拡大しました。その御業を主に代わって行ったのがクロス王です。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と、万軍の主は仰せられる(45:13)」。「彼」とは、クロス王です。彼に勝利をもたらし、神の町エルサレムを再建し、捕囚の民を解放したのは、主です。それゆえ、そのための代価も、わいろも必要としなかったのです。主にとって必要なものは、自分に対する信仰のみです。
「主はこう仰せられる。『エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセパ人も、あなたの所にやって来て、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたの所にだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』(45:14)』と。クシュとはエチオピヤを指します。あなたとはクロスではなく、その息子カンビュセスと言われています。その息子がエジプト、クシュ、セパを滅ぼしたのです。亡ぼされた彼らは、彼(カンビュセス)のもとに来て祈ります。「神はあなたの所にだけおられ、ほかになく、ほかに神々はいない」と。ペルシャ王と、ユダヤ人の解放は霊的に密接に結びついているのです。
「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(45:15)」。偶像は、「自分を現す」偽の神です。それに対してイスラエルの神は、人の心の中に住む「霊的存在」です。それゆえ、人の目には見ることのできない「隠された存在」なのです。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る(45:16)。彼らは、罪びとです。裁きを受けます。それに対して、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入る。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない(45:17)」。偶像を拝む者と、イスラエルとの対比です。イスラエルは主に対して永遠に義なる存在です。「神の国」の住民にふさわしいと、主によって、救われています。それゆえ、辱めを受けることはありません。
「天を創造した方、すなわち、神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない(45:18)』と。主は聖書の中で何度も言います。『わたしは、主である。ほかにはいない』と。主は「わたしは、天地万物の唯一の創造主である、ほかにはいない。と、全ての偶像に支配された世界に向かって自分の神性を宣言しているのです。「だから、わたしを信ぜよ」と。神と偶像、その対立には厳しいものがあります。主は、自分の唯一性と無比性を強調し、偶像に対抗せざるを得なかったのです。イスラエルの神を唯一の真の神として普遍的に、世界に向かって宣伝していくことが求められているのです。
「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒れ地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよとは言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者(45:19)」。他の訳文によると「わたしを尋ねるのは無駄だ」とは言わなかった」。になっています。他の異教の書物と聖書の違いは、聖書が正しく神のみ言葉を告げていることです、そして、その語られたみ言葉はすべて成就します。
「諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、教えもしない神に祈る者らは、何も知らない(45:20)」。諸国からの逃亡者とは、ペルシャ帝国によって滅ぼされた国々の民を指します。彼らは、真の神を知りません。それゆえ、彼らは、主が教えもしない偶像を拝んでいます。それ等の民に主は言います。「ともに集まって我がもとに集まれ」と。 「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主でなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない(45:21)」。「これ」とは、神に代わって行われたクロス王の救いの御業です。これを、偶像を信じる者は預言していたか、預言していたとするなら、その証拠を出せ、出すことは出来まい、これのできるものは、わたしのほかにはいない、と主は、偶像を信じる者に挑戦しています。イザヤが、この預言をしたのはこのときから約150年前です。このことを預言できるものは預言者イザヤ以外には、存在しません。イザヤは主に代わって預言したのです。「だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない(45:22)」。地の果てのすべての者とは、異邦かつ異教の民です。その民に主は呼びかけ言います。『わたしを仰ぎ見て救われよ』と。続いて言います。
「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことは出来ない。すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(45:23)」、主の言葉は、真実であるがゆえに取り消されてはならないのです。偶像から発せられる言葉との対比において語られています。イザヤ書において、偶像と言う言葉は多用されています。それだけ重い言葉です。しかし、取り消(否定)されなければなりません。すべての膝は神に向かってかがみ、口から出ることばは、御言葉です。「わたしについて、 『ただ、主にだけ正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつものはみな、主のもとに来て恥じ入る(45:24)」。「主にだけ正義と力がある」と言う言葉は、偶像に向かって言う言葉です。偶像を敬う者とは、主に対していきりたつものです。彼らは主のもとに来て恥じ入るのです。このように、主は、彼らを罰し、お赦しになりません。
「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」。主は、イスラエルの民に『悔い改めて、わたしに帰れ』と、おのれの方向に向きを変えることを求めます。イスラエルの民はそれに従います。神の救いの最終ステージである、神と人とが共に住む聖なる都「新しいエルサレム(神の国)」においては、主は『隠れた存在』をやめ、人は、神のみ顔を仰ぎ見ることが出来るようになります。そこには神の御顔を避けたアダムとエバの姿はありません。これが救いであり、救われることなのです。
はじめに:
主は、ご自分の救いの手をイスラエルにだけに留めておかれません。諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるように呼びかけられます。しかし、思うようにはいきません。主は、天と地と人を造り、これを仕上げられたお方です。創造者です。『わたしのほかに神はいない』と高らかに宣言します。だから私を信ぜよ、と主は仰せられます。他の神は全て偽の神、偶像です。
「だから、信ぜよ」と言う言葉は、創造者としての前提条件のすべてを、正しいと考えるがゆえに、結論はストレートに導き出されます。その結論とは、神に対する信仰の、絶対性です。「独善的」な思考方法です。他の可能性は、全て否定されます。神は、神そのものです。何物にも左右されません。しかし、それは、信仰の人にはともかくとして、異邦かつ異教の人には受け入れ難いことです。選択の余地がないからです。
信仰の人は、前提条件を疑わずに、御言葉を行動として、展開します。そのため、社会は混乱します。神を信じる者と信じない者との間に対立抗争、差別迫害が起こります。
ここに、悪魔の付け込むスキがあります。悪魔は、優しい顔をして人に近づきます。そのため、人は騙され、偶像の入り込む余地が出て来ます。
45章全体は、未来に対する神の希望であり、預言です。「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」のです。素晴らしい世界が預言されていますが、その預言の実現は、イザヤ書の段階(旧約聖書)では、実現していません。その実現は、キリスト(新約聖書)の出現以後まで待たねばなりません。
「救い」の観点から見る限り、新・旧両聖書は一体化しています。
45章:「主は、油を注がれたクロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする(45:1)』「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る(45:2)」。「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶもの、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ(45:3)」言葉の説明:油をそそぐ:すべてのキリスト者は、神によって油を注がれた者であり御国の建設と言う目的を持ちます。油を注がれた者とは、神によって選ばれた者を指し、祝福、守り、力が、神によって与えられた者を言います。クロス王の活躍:油を注がれたクロス王を通じて主は、救い主としての働きを行われます。彼は、平定した諸国の武装解除を行い、城門を解放しました。主がそれを助けたのです。主は、世界制覇を試みるクロスを助け、彼の前に立ちはだかる諸国を滅ぼします。戦いに敗れた国々の隠された財宝は見つけ出され、それを主はクロスに与え、仰せられます。「わたしが主であり、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ』と。
クロスによるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、かれが、主を知らなかったことです。「私のしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える(45:4)」「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる(45:5)。あなたとは、クロス王のことです・彼は異教徒で、多神教の信者です。それにもかかわらず、主は、彼に「油を注がれた者」と言う肩書をお与えになり、力を帯びさせたのです。その理由は、自分のほかに神はいないことを世界に知らしめることにあったのです。『わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない」。主は、自分のほかに神はいないことを世界に向かって高らかに宣言します。
イスラエルから世界へ、クロスは、そのための最高かつ最良の神のしもべです。クロスはペルシャ帝國の創設者であり、初代の帝王です。彼によって東はインド、西は小アジア、南はエジプトに到る大帝国が形成されました。その背後に、主の力があったことを忘れてはなりません。『それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない(45:6)』。45章1~7節には、ペルシャ王クロスによるイスラエルの解放を告げる約束が語られていますが、6節には、その救いは、イスラエルに限られたものではなく、日の上るところから、沈むところまで、世界中の人々が知るようになると、描かれています。クロスによって神の福音の伝播が行われるのです。主は、自分の唯一性と無比性を世界に向かって高らかに宣言します。『わたしが、主である。ほかにいない』と。
『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者(45:7)』。ここには、主の永遠性(光)と万能性が語られています。主は、光の創造者であるだけでなく、やみの創造者でもあります。また、平和だけでなく災いをも創造するお方です。毒を知らずして、命は救えないのです。ある場合には自分の目的を達成するためには、悪魔すらも利用するお方です(万能性)。
「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した(45:8)」。主は、天から正義を降らせ、地には救いを実らせます。主は、自分の正義によって、イスラエルを救い、それによって、イスラエル自身も自分を義とするのです。ここには神の国が想定されています。この国(神の国)には神の義と救いが満ち溢れています。
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造ったものに抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を造るのか』とか、『あなたの造ったものには手がついていない』などと言うであろうか(45:9)。」ここには、自分を造ったもの(神)に抗議する者に対する批判があります。粘土(神を信じる者)は決して形造る者(神)の、み言葉を疑いません。信じてこれに従います。
「ああ。自分の父に『なぜ子供を産むのか』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか』と言う者(45:10)」。父も母も自分を形造った方です。ここに出てくる父と母は、神を現します。子の出産は、喜びです。しかし、その喜びを受けるには産みの苦しみを伴います。産みの苦しみは、喜びを受けるための必要悪です。苦しみと喜びは一体化しています。キリストは、十字架の死(苦しみ)によって我々の罪を贖いました。それゆえ、私たちは罪から解放された(喜び)のです。ここには主の一方的な愛(憐み)が描かれています。
「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こることを、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか(45:11)。主は、異邦人であり異教の民に語り掛けます。これから起こることとは、「神の国」ことです。わたしの手で造ったものとは、大地や人です。これは、反語です。お前たちに「神の国」を造れるか、大地や人を支配できるか、出来ないであろう、それの出来るのは、わたしのみだと、言っているのです。そして、次の節(12節)に続きます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き述べ、その万象に命じた(45:12)。主は創造主です。天を造り、その下に大地を造り、人を創造しました。福音の幅を広げ、その御業を拡大しました。その御業を主に代わって行ったのがクロス王です。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と、万軍の主は仰せられる(45:13)」。「彼」とは、クロス王です。彼に勝利をもたらし、神の町エルサレムを再建し、捕囚の民を解放したのは、主です。それゆえ、そのための代価も、わいろも必要としなかったのです。主にとって必要なものは、自分に対する信仰のみです。
「主はこう仰せられる。『エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセパ人も、あなたの所にやって来て、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたの所にだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』(45:14)』と。クシュとはエチオピヤを指します。あなたとはクロスではなく、その息子カンビュセスと言われています。その息子がエジプト、クシュ、セパを滅ぼしたのです。亡ぼされた彼らは、彼(カンビュセス)のもとに来て祈ります。「神はあなたの所にだけおられ、ほかになく、ほかに神々はいない」と。ペルシャ王と、ユダヤ人の解放は霊的に密接に結びついているのです。
「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(45:15)」。偶像は、「自分を現す」偽の神です。それに対してイスラエルの神は、人の心の中に住む「霊的存在」です。それゆえ、人の目には見ることのできない「隠された存在」なのです。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る(45:16)。彼らは、罪びとです。裁きを受けます。それに対して、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入る。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない(45:17)」。偶像を拝む者と、イスラエルとの対比です。イスラエルは主に対して永遠に義なる存在です。「神の国」の住民にふさわしいと、主によって、救われています。それゆえ、辱めを受けることはありません。
「天を創造した方、すなわち、神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない(45:18)』と。主は聖書の中で何度も言います。『わたしは、主である。ほかにはいない』と。主は「わたしは、天地万物の唯一の創造主である、ほかにはいない。と、全ての偶像に支配された世界に向かって自分の神性を宣言しているのです。「だから、わたしを信ぜよ」と。神と偶像、その対立には厳しいものがあります。主は、自分の唯一性と無比性を強調し、偶像に対抗せざるを得なかったのです。イスラエルの神を唯一の真の神として普遍的に、世界に向かって宣伝していくことが求められているのです。
「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒れ地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよとは言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者(45:19)」。他の訳文によると「わたしを尋ねるのは無駄だ」とは言わなかった」。になっています。他の異教の書物と聖書の違いは、聖書が正しく神のみ言葉を告げていることです、そして、その語られたみ言葉はすべて成就します。
「諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、教えもしない神に祈る者らは、何も知らない(45:20)」。諸国からの逃亡者とは、ペルシャ帝国によって滅ぼされた国々の民を指します。彼らは、真の神を知りません。それゆえ、彼らは、主が教えもしない偶像を拝んでいます。それ等の民に主は言います。「ともに集まって我がもとに集まれ」と。 「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主でなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない(45:21)」。「これ」とは、神に代わって行われたクロス王の救いの御業です。これを、偶像を信じる者は預言していたか、預言していたとするなら、その証拠を出せ、出すことは出来まい、これのできるものは、わたしのほかにはいない、と主は、偶像を信じる者に挑戦しています。イザヤが、この預言をしたのはこのときから約150年前です。このことを預言できるものは預言者イザヤ以外には、存在しません。イザヤは主に代わって預言したのです。「だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない(45:22)」。地の果てのすべての者とは、異邦かつ異教の民です。その民に主は呼びかけ言います。『わたしを仰ぎ見て救われよ』と。続いて言います。
「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことは出来ない。すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(45:23)」、主の言葉は、真実であるがゆえに取り消されてはならないのです。偶像から発せられる言葉との対比において語られています。イザヤ書において、偶像と言う言葉は多用されています。それだけ重い言葉です。しかし、取り消(否定)されなければなりません。すべての膝は神に向かってかがみ、口から出ることばは、御言葉です。「わたしについて、 『ただ、主にだけ正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつものはみな、主のもとに来て恥じ入る(45:24)」。「主にだけ正義と力がある」と言う言葉は、偶像に向かって言う言葉です。偶像を敬う者とは、主に対していきりたつものです。彼らは主のもとに来て恥じ入るのです。このように、主は、彼らを罰し、お赦しになりません。
「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る(45:25)」。主は、イスラエルの民に『悔い改めて、わたしに帰れ』と、おのれの方向に向きを変えることを求めます。イスラエルの民はそれに従います。神の救いの最終ステージである、神と人とが共に住む聖なる都「新しいエルサレム(神の国)」においては、主は『隠れた存在』をやめ、人は、神のみ顔を仰ぎ見ることが出来るようになります。そこには神の御顔を避けたアダムとエバの姿はありません。これが救いであり、救われることなのです。
>令和6年1月12日(火) 報告者守武 戢 楽庵会
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