日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

神とは何?

2012年10月16日 | Weblog
 この文章は日野キリスト教会の60歳以上の男性の集まり『楽庵会』で報告したものである。ここに転載する。
  神とは何?教会に行っていると云うと、必ず受ける質問がある。「神様って存在するのか、存在するなら証明しろ」と。僕は分からないと応える。居るかもしれないし、居ないかもしれない。いずれにしても客体としての神は存在しない。神は異次元の存在であり、不可知である。それ故見ることは出来ない。要するに物理学では解明できない。実態が無いからである。しかし、心理学でなら解明できる。心の問題だからである。神の存在を信じ、信仰するものには神は存在する。信じない者には神は存在しない。きわめて主観的な存在である。信仰とは、あくまでも心の問題であって、科学的に解明できないし、すべきものでもない。
神の存在が実態が無いということは、神と人間の間には完全な断絶があることを示している。ではこの断絶を埋めるものは何か?それはキリストであり、教会である。その教典として存在するものが4つの福音書(ルカ、マルコ、マタイ、ヨハネの福音書)からなる聖書である。神と子(キリスト)と聖霊、三位一体として神とみなされる。
 このようにキリスト者は、自分は唯一の神の僕と信じているが、神の立場からすればキリスト教は多くの宗教の中の一つに過ぎない。神は全ての宗教の上に立つ絶対的存在である。しかしキリスト者は、それを認めない。そこから生まれるものが排他的な宗教的偏見である。遠くは中世の十字軍、近年ではヒットラーによるユダヤ人に対するホロコースト、現代も続くアラブ諸国とイスラエルの抗争。宗教以外の様々な要素が含まれているとはいえ、そこに宗教的偏見のあることを否定することは出来ない。そこには憎しみがあるだけで、自分以外の宗教は全て邪教であって、悪魔の教えとなる。そこには宗教的寛容は無い。ここまで来るとキリスト教は本来の神の手から離れる。
 神と人は断絶している。教会が頼りにならないとすれば、神はいかにして自分の意志を人に伝達するのか?「神は啓示し、人はそれを直感する」これはトルストイがその著『アンナカレーニナ』の中で言った言葉である。東北大震災は神による人類に対する怒りであり、警告であると云った著名人がいた。人類は今、神がつくりたもうた地球を破壊している。自然破壊は進み、森林は伐採され砂漠化が進行している。種の中には絶滅に瀕しているものがいる。この結果炭酸同化作用は破壊され、温暖化の原因になっている。その結果、オゾン層には穴が開き、北極の氷は溶解し、その結果として陸地の水没化が遠からず現実化すると云われている。このように人は神から与えられた恵みを犯し続けている。神に返そうとしない。再びバベルの塔を築いている。神の怒りが人類に与えられるのは当然である。この神からの啓示(警告)を人は真摯に受け止めねばならない。
 東北大震災の時、津波の到来を予知し、自転車に乗って、駆け回り、避難を呼びかけ、多くの住民を救ったが、みずからは津波にのみ込まれて死んでいった人がいた。何故、神は彼を助けなかったのか、神はいない。と叫んだ人がいた。しかし、これはあくまでも人間の立場である。神には神の立場がある。神はその罪に対して罰を与えたのである。罰せられるべき人を救うと云う事は、神に対する反逆であり、神の立場からすればその死は当然なのである。神の命令に従い、自分の愛すべき息子イサクを、アブラハムは生贄に捧げようとした。しかし神はイサクを救った。神は自らに対するアブラハムの従順さを評価したからである(旧約聖書、創世記22章1~15)。しかし、反逆者を神は救わない。
 ここには二つの問題がある。キリスト教は排他的存在で良いのか?世界平和を実現するために何をなすべきか?宗教的寛容は世界平和にとって貢献するのではないか?教会が今までのように聖書の字句の解釈に終わってはならないのである。教会の枠を超えなくてはならない。
 次の問題は宗教者と神の関係である。ひとは神からの啓示(警告)を素直に受け止め、それを実行に移すためには何をなすべきか?与えられた神からの恵みを再生し、神に返していくためには何をなすべきか?
 世界平和と、地球の再生。大きな大きな課題である。期待と希望に満ちた課題である。

この文章を発表し、その合評会において、いろいろと意見が出たが、一番身に応えたのが、「文章の当否は別にして、この文章を読んだ被災地の方の気持ちを思うと、怒りを覚える」と言われたことである。被災してから1年半、まだ気持ちも整理できず、町も修復されていない段階で、住民自身には何の落ち度もないのに、罪びと呼ばわりは余りにむごすぎ、無神経に過ぎると云うのである。それに対しては謝罪したい。何も言うことは無い。



コメントを投稿