日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記8章 30~31章

2022年06月04日 | Weblog
ヨブ記8 30章~31章
はじめに:ビルダテの登場をもってヨブと友人たちの論争は終わりました。ここで生じる素朴な疑問は、エリファズとビルダデの2人は3度登場するのにツオファルだけは2度しか登場していないのは、なぜかということです。1回足りないのです。そこで27章を2つに分けて1~6節をヨブ、7~23節をツオファルと主張する聖書学者もいます。確かにその部分は、ツオファルの考えと似ています。しかし私は聖書に忠実でありたいと思います。聖書は完璧な書だからです。しかし、では、なぜ2回なのかという疑問は残ります。おそらくツオファルにはヨブと争う意思も気力も失ったからだと考えられます。ヨブは友人たちの根拠のない告発に対して、理屈をもって応答するのではなく。神への誓いをもって「無実の立証」を行っています(31章参照)。それゆえ、ツオファルはヨブとの論争に敗北を認めたのです。不戦敗です。
30章:厳しすぎる現実: 29章でヨブは「昔日のごとくであれば良かったのに」と、かつての繁栄を語りました。この章(30章)ではそれらの日々と、今の境遇の落差を嘆いています。権威のある存在として、尊敬され、親しまれ、愛されていたのに災厄に会い、すべてを失い身は崩れ、醜い姿に変わった時、人々の反応は厳しいものだったのです。その態度を180度転換させたのです。ヨブより若い世代はそんなヨブを見てあざ笑ったのです。「彼らの父は、私(ヨブ)が軽く見て、私の群れの番犬と一緒にさえしなかったものだったのです(30:1)」とヨブは述べています。彼らは社会からはじき出され、住むところを持たず、谷の斜面や土や岩の穴に住み、藪の中でつぶやき、イラクサの下に群がっていたのです。彼らは、痴れ者の子たち、つまらぬものの子らで、国から、むちで叩きだされた敗残者であり、ヨブがかつて、面倒を見ていた者たちだったのです。「それなのに、今や私は彼らのあざけりの歌となり、その笑い種になっている(30:9)」「神が私の綱を解いて、私を卑しめられたので、彼らも私の前で手綱(慎み)を捨てた(30:11)」のです。これが、かつての権力者、富んだ者が落ちぶれたときに示す、世の人の自然の姿なのです。おそらく彼らも「災厄は神罰なり」と思っていたのでしょう。これは人の罪です。ヨブは何の罪もないのに罪びととされたのです。「彼らはわたしを忌み嫌い、私から遠ざかって、私の顔に情け容赦もなく、唾を吐きかける(30:10)」。正しきものが苦難を受ける。これはイエス・キリストの姿と重なります。「彼らは私の右に立ち私に向かって滅びの道を推し進め、今やそれを押しとどめる者はいない」それゆえに、「恐怖が私に降りかかり私の威厳をあの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った(30:15)」「私があなたに向かって呼ばわってもあなたはお答えになられない。私が立っていてもあなたは顧みられない(30:20)」とヨブは、不条理な災厄を恨みます。ヨブは四面楚歌の中、孤独地獄に苦しめられています。
ヨブは肉と心の痛みに苦しみます。一つは、肉体の崩れであり、二つ目は不条理な災厄に対する神の沈黙です。この二つはヨブにとっては痛みとして現れます。ここでは主に肉体の痛みに関して述べられています(30:16~31)。「心を自分に注ぐ(30:16)」とは肉体の痛みを指します。ここではヨブが肉体の病によって苦しむ姿が描かれています。その苦しみは激しく、永遠に続くかのようです。ヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならぬのか」と神に問います。「災厄は神罰なり」という応報論には納得できないからです。しかし、神は応答しません。沈黙を続けます。これはヨブにとっての試練なのです。忍耐を持って対処しなければならないのです。神は、この時、ヨブにとっては、残酷な存在以外の何物でもなかったのです。ヨブを攻め立てます。神の意図を推測してヨブは言います。「私は知っています。あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家(黄泉の国)に帰らせることを(30:23)」と。しかし神はサタンに命じています。「傷つけても、死に至らすな」と、ヨブと死とは無縁なのです。このような死を直前とした限界状況の中で、ヨブは、神に問います「自分は善を行ったのに、なぜ悪が訪れたのか、光を待ち望んだのに、なぜ暗闇が来たのか(30:26)」と。「律法の行いから、神への信仰へと」、という真摯な気持ちを持ちながらも、ヨブはその苦しみゆえにそれに徹することが出来なかったのです。ヨブは、神の沈黙と、友人たちのあざけりに対して怒り、腹わたは煮えくり返り、悩みは募り、嘆き悲しんで、野に生息するジャッカルや駝鳥のようになり、自由を求めて歩き回り、集いの中に立って叫び求めたのです。ヨブは神の支配からのがれようとしたのです。しかし、その望みはかなうわけがなく、当然の報いとして、「私(ヨブ)の皮膚は黒ずんで剥げ落ち、骨は熱で焼けている(30-30)」そして「私の立琴は喪のためになり、私の笛は泣き悲しむ声となった(30-31)」のです、
 このように、ヨブにとっての不条理な災厄はやむことなく続きます。
 31章では、ヨブはその受けた災厄に対し、その不当性を語り、身の潔白を証ししていきます。この章(31章)でヨブのことばは終わります。後にエリフが登場し、その神学を語ります(32-37章)。
 31章:無実の実証(1~40):31章は「潔白の誓い」というヘブライの慣習法に従ってヨブが自分の無実を主張する章です。「潔白の誓い」とは、被告人が証人を得るのが困難な場合に適用されるものであり、証人がいないがゆえに、必ず真実でなければならないのです。後にそれが虚言と判断された時、厳しい罰を受けてもよいという約束のもとに成り立っています。
 今、ヨブにとって必要なことは「災厄は神罰なり」という友人たちの主張を覆して自分の無実を実証すことにあります。この章においてヨブは具体的に自分の潔癖さを証し、していきます。

1、 若い女(1-4):私は自分の目と契約を結んだ。「誰でも情欲をもって女を見る者は、心の中で姦淫を犯しているのです(マタイ5:28)」。ヨブは、この罪から離れていた。
2、 偽り(5-8):正しいはかりで私を測ればよい。そうすれば、私の潔白が証明される。
3、 姦淫(9-12):私の心が女に惑わされたら、私の妻を粉ひきにしてもよい、他人が彼女と寝てもよい。ありえない現実を言う。
4、 不公正(13-15):私がしもべや、はしためと争ったときは、私は権力を使わず、公正に調査しその意見をないがしろにしない。神の前ではすべての人は平等だから。
5、 無慈悲(16-23):私は世の社会的弱者(みなしご、やもめ、貧民など)に対して慈悲の心を忘れたことはない。
6、 富への愛(24-25):私には富に対する欲はない。金銭からも、物からも自由である。
7、 偶像崇拝(26-28):照り輝く日や月の光を見ても、唯一神を忘れて拝んだことはない。
8、 復讐(29-30):私は、自分を憎む者に下される災いを喜んだこともなければ、その命を求めたこともない。
9、 差別(31-32):私は異国の人を差別し、天幕の戸口を閉めることなく開放している。
10、 罪の隠蔽(33):私はアダムのように罪を犯し、それを隠蔽したことはない。
11、 人への恐れ(34):私はピラトのように群衆の怒りを恐れ、自分の意志曲げてイエスに死刑判決を下したような罪は犯してはいない。
12、 神に対する罪(35-40):私に対する告訴状があれば、それを身に着け、全能者に近づきたい。罪咎があるなら、その裁きを受けたい。しかし私の良心は潔白である。着服の罪もない。
 これでヨブのことばは終わった。
3人の友人は口を閉ざします。ヨブに抗弁できなかったのです。
 「主はサタンに仰せられた。『お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないのだが』(ヨブ記1:8)」と。このようにヨブは最初から救われており、目に見える形をとって「無実の立証」を行ったのです。
令和3年12月7日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
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