>ヨブ記(不条理の世界) 1
はじめに
旧約聖書には4つの区分があります。それは、トーラ((モーセ5書)、歴史書、諸書、預言書の4つです。「ヨブ記」は、諸書に含まれ、文学的には「知恵文学」に属します。それは人間から神に問いかけるという特質を持っています。「知恵文学」の中で重要な地位を占めているのがこの「ヨブ記」です。「知恵」とは人生の本質をはっきりと見定めて振る舞うということです。「ヨブ記」はそうした知恵の視点から、神に問いかけるものとして語られています。ヨブは3人の友人と1人の賢者との論争を通じて神に問いかけます。「なぜ」「どうして」「いつまで」と。この問いかけこそ、真理を求めようとする者にとって、きわめて必須な条件です。「ヨブ記」は、真理への探究心を研ぎ澄ます最高のテキストと言えます。
「ヨブ記」の概略
神を敬うことこの上なく、道徳的にも、信仰的にも非の打ちどころのない暮らしを続けていた富裕の人ヨブに、神は2度にわたる過酷な試練を下します。1度目ではヨブはすべての財産を奪われ、2度目で身は皮膚病に犯され、苦しめられます。これは天上における神とサタンの話し合いの結果だったのです。神はヨブをお試しになったのです。これは神のご計画の一つでした。しかし、ヨブはそのことを知りません。ヨブはこの2度にわたる災厄に対しても神を呪うことはしませんでした。1度目の災厄に対しては「私は裸で母の胎から出てきた。また、私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:2)」と、言い、2度目の災厄に対しても「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10)」と、ヨブは神への信仰を守り抜いたのです。その災厄には、聖霊が宿っていると理解できたからです。ヨブは神がサタンを通じて与えた艱難に見事に応えたのです。神はサタンに勝ち、サタンは去り、この後の展開には出て来ません。消え失せたのです。
この後、3人の友人(エリファス、ビルダテ、ツオファル)が見舞いに訪れたときから神学論争が、始まります。罪なくして受けねばならぬこの重荷の意味を問うてヨブは苦悩します。肉体の苦しみと、心の苦しみという二重の苦しみに会います。ヨブは死を望み、自分が生まれたことを呪います。訪れた3人の友人と論争し一人の賢者(エリフ)の意見を聞きます。神の義(信仰)に人間の義(戒律)を対決させて問い詰める本書は、旧約聖書の中でも際立った特色を持ちキルケゴール、ドストエフスキーなどの、哲学者、文学者などに与えた影響は強いものがあります。
義人がゆえなくして苦しむのはなぜか。ヨブは果たして義人なのか。
ここで押さえておかねばならないことは、ヨブは、神ご自身が認め、ヨブ自身も認めるように、神に対して完全に義なる存在なのです(1:8)。ヨブの受けた災厄は、3人の友人が言うような「内なる罪」ゆえではなく、天上における神とサタンの談合ゆえの災厄だったのです。試練だったのです。「戒律」か「信仰」かの問題だったのです。神は彼の信仰を試されたのです。議論はかみ合うわけがないのです。神の答は別のところにあるからです。
見舞いに訪れた3人の友人はヨブの、「自分は、義人なり」という主張を否定します。神が義なる人を罰するわけがない、罪があるから罰するのだ、と。その結果、その罪を悔い改め、神に立ち返らない限り救いはない、と諭します。その理論的根拠は因果応報説です。ヨブは、「自分は義人なり」と反論します。災厄に対しても神への信仰を崩さず。自分の出世を呪い、嬰児のうちに死ななかったこと呪い、死を望みます。自分は神に対して義なる人間である。それなのになぜ罰せられるのか。なぜ、なぜと問います。ヨブの目は3人の友人から離れ、神に向きます。議論には解決がなかったからです。義人である自分が災厄に会う理由を、「なぜ、なぜ」と、神に問います。神はこれを無視します。
4人目の登場人物は、エリフです。エリフはヨブが義人であることを認めています。それゆえ因果応報説をとりません。その上で「義人の受ける災厄」について語ります。この災厄は神がヨブに与えた訓練だと、語ります。「この災厄に耐え、神をあがめよ、と言います。しかし、彼はヨブを罪びとと断罪します。ヨブはエリフの言葉には反論しません。神も無視します。
この後、ヨブは神と対面します。しかしその大きさ、偉大さに恐れおののき、己の高ぶり、小ささを自覚して神の前にひれ伏します。
神は、ヨブの「なぜ」には応答しません。神ご自身が、自らを至現されない限り、私たちは神の世界の神秘を知ることは出来ないのです。人は、与えられた運命に抗い、自分の正しさを信じて、なぜ、なぜと問うのは神に対する高ぶりです。そうではなく、神によって与えられた運命を、素直に受け入れ、ひたすら神を信じ神の前で、いかに生きるべきかと問うことこそ真の信仰だと自覚します。神はそれを知ります。神は私たちの思いをはるかに超えて導いてくださる、聖なるお方です。神は、いかなる場合でも主権者であり、ご自身の行動について人に説明する必要はないし、人はそれを「なぜ」と、求めてはならないのです。人は神のすべてを知ることは出来ません。しかし、信者にいかなる災厄が訪れようとも、神は、最終的には、最善の結果を用意されておられるお方です。人はそれを信じ、忍耐をもって待ち望む必要があります。「見なさい、耐え忍んだものは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結果を見たのです。主は、慈愛に富み、あわれみに満ちておられるお方だということです(ヤコブ5:11)」。ヨブは健康を回復し2倍の財が与えられました。ヨブは苦しみを通して神をより深く知り、愛をもって交流できるようになります。ヨブは霊的にも肉的にも救われたのです。「そして、ヨブは自分の子と。その子の子たちを4代目まで見たのです。そして、その長寿(140歳+α)を全うされたのです(42:16~17参照)」。
米村英二氏は、その著「地の塩(中)16ページ」の中で「神が、我々に求めておられるものは『我々のうちに、どれだけ神を慕う思いがあるかである』」と述べています。この言葉は「ヨブ記」の結論と考えてよいでしょう。
なぜ今「ヨブ記」なのか
「黙示録」の勉強を終え、「マタイ」と「ルカ」の福音書を残して聖書の勉強は一応終わりました。しかし、あくまでも一応であって判らないところだらけです。そこで、難解ではあっても興味を持ったものを振り返ってみることにしました。その第1に選んだものが「ヨブ記」です。副題を「不条理の世界」としました。神も認める義なる人「ヨブ」がなぜ、神から災厄を受けねばならならなかったのか、これが「ヨブ記」のテーマです。
神については、今でもわかりません。永遠無限の神を、ちっぽけで有限の私が知ることは出来ないのです。人の「知」は、神の「智」に勝ることは出来ません。神の「智」を素直に認め受け入れることです。それが信仰です。
★ヨブ記の内容構成★
1章:ヨブについて、神とサタンの対話、ヨブの災難1
2章:神とサタンの対話2、ヨブの災難2
3章:ヨブの独白(神への問いかけ)
№ 章・節 内 容 回
4 4:1~5:27 苦難に対するエリファズの神話 1
5 6:1~7:21 エリファズに対するヨブの反論 1
6 8:1~8:22 苦難に対するビルダテの神話 1
7 9:1~10:22 ビルダテに対するヨブの反論 1
8 11:1~20 苦難に対するツオファルの神学 1
9 12:1~14:22 ツオファルに対するヨブの反論 1
10 15:1~35 エリファズのヨブに対する反論2 2
11 16:~17: エリファズに対するヨブの反論 2
12 18:1~21 ビルダテのヨブに対する反論2 2
13 Ⅰ9:1~29 ビルダテに対するヨブの反論 2
14 20:1~29 ツオファルのヨブに対する反論2 2
15 21:1~34 ツオファルに対するヨブの反論 2
16 22:1~30 エリファズのヨブに対する反論3 3
17 23:~24: エリファズに対するヨブの反論 3
18 25:~26: ビルダテのヨブに対する反論3 3
19 27:1~23 ヨブの最後の弁論Ⅰ 1
20 28:1~28 ヨブの最後の弁論2「知恵の賛歌」 2
21 29:~30: ヨブの最後の弁論3「ヨブの昔と今」 3
22 31:1~40 ヨブの最後の弁論4「潔白さの誓い」 4
23 32:~33: エリフの弁論1 1
24 34:~37: エリフの弁論2 2
25 38:~39: 嵐の中から語られる神1 1
26 40:~41 嵐の中から語られる神2 2
27 42:1~6 ヨブ記のエピローグ1、ヨブの「見神」経験 1
ヨブの苦しみ
3章から5章にかけては「ヨブの苦しみ」に対する答えが語られます。
ヨブは全財産を失い、身ははれものにおおわれ苦しみます。ヨブは呪いの言葉を吐きます。しかし神に義なるヨブは決して神を呪いません。「この後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った(3:1)」のです。神ではなく、生まれた日を呪ったのです。ヨブは自分が生まれなかったら、こんな苦しみはなかった、とその身を嘆き、悲しみます。次に、生まれたとき、なぜ嬰児のうちに死ななかったのかと、その出生を恨みます。生を受け成人した今、自死したいと望みます。しかしこれも果たせません。これは、天において神とサタンが談合したとき、神はサタンに「その命までは取るな」と命じたからです。しかし、ヨブは、それを知りません。際限のない、いつ終わるかわからない災厄に苦しめられます。ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また、穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理を神に問います。
ここでヨブは人生における最も基本的な問いかけをしています。「出生」と「生存」と「死」です。生きるということの意味を神に問うているのです。
次の章からは、この基本的な問題に関して3人の友人との間に議論が展開していきます。
4章~5章:3人の友人のうち第1に登場するのがエリファズです。
彼は2つの点で決定的な過ちを犯しています。
1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか。どこに正しい者で絶たれた者があるか(4:7)」。
2 私の見るところでは、不幸を耕し害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」。
1,2ともに言わんとすることは「因果応報説」です。
1に関して言えば、イエス・キリストも、アベルも神に対して義なる人でした。しかし、二人とも義なる人ゆえに断たれています。ヨブも神が認めた義人です。ヨブは「われは義人なり」と主張します。エリファズの意見(因果応報節)はヨブには当てはまりません。
はじめに
旧約聖書には4つの区分があります。それは、トーラ((モーセ5書)、歴史書、諸書、預言書の4つです。「ヨブ記」は、諸書に含まれ、文学的には「知恵文学」に属します。それは人間から神に問いかけるという特質を持っています。「知恵文学」の中で重要な地位を占めているのがこの「ヨブ記」です。「知恵」とは人生の本質をはっきりと見定めて振る舞うということです。「ヨブ記」はそうした知恵の視点から、神に問いかけるものとして語られています。ヨブは3人の友人と1人の賢者との論争を通じて神に問いかけます。「なぜ」「どうして」「いつまで」と。この問いかけこそ、真理を求めようとする者にとって、きわめて必須な条件です。「ヨブ記」は、真理への探究心を研ぎ澄ます最高のテキストと言えます。
「ヨブ記」の概略
神を敬うことこの上なく、道徳的にも、信仰的にも非の打ちどころのない暮らしを続けていた富裕の人ヨブに、神は2度にわたる過酷な試練を下します。1度目ではヨブはすべての財産を奪われ、2度目で身は皮膚病に犯され、苦しめられます。これは天上における神とサタンの話し合いの結果だったのです。神はヨブをお試しになったのです。これは神のご計画の一つでした。しかし、ヨブはそのことを知りません。ヨブはこの2度にわたる災厄に対しても神を呪うことはしませんでした。1度目の災厄に対しては「私は裸で母の胎から出てきた。また、私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:2)」と、言い、2度目の災厄に対しても「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10)」と、ヨブは神への信仰を守り抜いたのです。その災厄には、聖霊が宿っていると理解できたからです。ヨブは神がサタンを通じて与えた艱難に見事に応えたのです。神はサタンに勝ち、サタンは去り、この後の展開には出て来ません。消え失せたのです。
この後、3人の友人(エリファス、ビルダテ、ツオファル)が見舞いに訪れたときから神学論争が、始まります。罪なくして受けねばならぬこの重荷の意味を問うてヨブは苦悩します。肉体の苦しみと、心の苦しみという二重の苦しみに会います。ヨブは死を望み、自分が生まれたことを呪います。訪れた3人の友人と論争し一人の賢者(エリフ)の意見を聞きます。神の義(信仰)に人間の義(戒律)を対決させて問い詰める本書は、旧約聖書の中でも際立った特色を持ちキルケゴール、ドストエフスキーなどの、哲学者、文学者などに与えた影響は強いものがあります。
義人がゆえなくして苦しむのはなぜか。ヨブは果たして義人なのか。
ここで押さえておかねばならないことは、ヨブは、神ご自身が認め、ヨブ自身も認めるように、神に対して完全に義なる存在なのです(1:8)。ヨブの受けた災厄は、3人の友人が言うような「内なる罪」ゆえではなく、天上における神とサタンの談合ゆえの災厄だったのです。試練だったのです。「戒律」か「信仰」かの問題だったのです。神は彼の信仰を試されたのです。議論はかみ合うわけがないのです。神の答は別のところにあるからです。
見舞いに訪れた3人の友人はヨブの、「自分は、義人なり」という主張を否定します。神が義なる人を罰するわけがない、罪があるから罰するのだ、と。その結果、その罪を悔い改め、神に立ち返らない限り救いはない、と諭します。その理論的根拠は因果応報説です。ヨブは、「自分は義人なり」と反論します。災厄に対しても神への信仰を崩さず。自分の出世を呪い、嬰児のうちに死ななかったこと呪い、死を望みます。自分は神に対して義なる人間である。それなのになぜ罰せられるのか。なぜ、なぜと問います。ヨブの目は3人の友人から離れ、神に向きます。議論には解決がなかったからです。義人である自分が災厄に会う理由を、「なぜ、なぜ」と、神に問います。神はこれを無視します。
4人目の登場人物は、エリフです。エリフはヨブが義人であることを認めています。それゆえ因果応報説をとりません。その上で「義人の受ける災厄」について語ります。この災厄は神がヨブに与えた訓練だと、語ります。「この災厄に耐え、神をあがめよ、と言います。しかし、彼はヨブを罪びとと断罪します。ヨブはエリフの言葉には反論しません。神も無視します。
この後、ヨブは神と対面します。しかしその大きさ、偉大さに恐れおののき、己の高ぶり、小ささを自覚して神の前にひれ伏します。
神は、ヨブの「なぜ」には応答しません。神ご自身が、自らを至現されない限り、私たちは神の世界の神秘を知ることは出来ないのです。人は、与えられた運命に抗い、自分の正しさを信じて、なぜ、なぜと問うのは神に対する高ぶりです。そうではなく、神によって与えられた運命を、素直に受け入れ、ひたすら神を信じ神の前で、いかに生きるべきかと問うことこそ真の信仰だと自覚します。神はそれを知ります。神は私たちの思いをはるかに超えて導いてくださる、聖なるお方です。神は、いかなる場合でも主権者であり、ご自身の行動について人に説明する必要はないし、人はそれを「なぜ」と、求めてはならないのです。人は神のすべてを知ることは出来ません。しかし、信者にいかなる災厄が訪れようとも、神は、最終的には、最善の結果を用意されておられるお方です。人はそれを信じ、忍耐をもって待ち望む必要があります。「見なさい、耐え忍んだものは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結果を見たのです。主は、慈愛に富み、あわれみに満ちておられるお方だということです(ヤコブ5:11)」。ヨブは健康を回復し2倍の財が与えられました。ヨブは苦しみを通して神をより深く知り、愛をもって交流できるようになります。ヨブは霊的にも肉的にも救われたのです。「そして、ヨブは自分の子と。その子の子たちを4代目まで見たのです。そして、その長寿(140歳+α)を全うされたのです(42:16~17参照)」。
米村英二氏は、その著「地の塩(中)16ページ」の中で「神が、我々に求めておられるものは『我々のうちに、どれだけ神を慕う思いがあるかである』」と述べています。この言葉は「ヨブ記」の結論と考えてよいでしょう。
なぜ今「ヨブ記」なのか
「黙示録」の勉強を終え、「マタイ」と「ルカ」の福音書を残して聖書の勉強は一応終わりました。しかし、あくまでも一応であって判らないところだらけです。そこで、難解ではあっても興味を持ったものを振り返ってみることにしました。その第1に選んだものが「ヨブ記」です。副題を「不条理の世界」としました。神も認める義なる人「ヨブ」がなぜ、神から災厄を受けねばならならなかったのか、これが「ヨブ記」のテーマです。
神については、今でもわかりません。永遠無限の神を、ちっぽけで有限の私が知ることは出来ないのです。人の「知」は、神の「智」に勝ることは出来ません。神の「智」を素直に認め受け入れることです。それが信仰です。
★ヨブ記の内容構成★
1章:ヨブについて、神とサタンの対話、ヨブの災難1
2章:神とサタンの対話2、ヨブの災難2
3章:ヨブの独白(神への問いかけ)
№ 章・節 内 容 回
4 4:1~5:27 苦難に対するエリファズの神話 1
5 6:1~7:21 エリファズに対するヨブの反論 1
6 8:1~8:22 苦難に対するビルダテの神話 1
7 9:1~10:22 ビルダテに対するヨブの反論 1
8 11:1~20 苦難に対するツオファルの神学 1
9 12:1~14:22 ツオファルに対するヨブの反論 1
10 15:1~35 エリファズのヨブに対する反論2 2
11 16:~17: エリファズに対するヨブの反論 2
12 18:1~21 ビルダテのヨブに対する反論2 2
13 Ⅰ9:1~29 ビルダテに対するヨブの反論 2
14 20:1~29 ツオファルのヨブに対する反論2 2
15 21:1~34 ツオファルに対するヨブの反論 2
16 22:1~30 エリファズのヨブに対する反論3 3
17 23:~24: エリファズに対するヨブの反論 3
18 25:~26: ビルダテのヨブに対する反論3 3
19 27:1~23 ヨブの最後の弁論Ⅰ 1
20 28:1~28 ヨブの最後の弁論2「知恵の賛歌」 2
21 29:~30: ヨブの最後の弁論3「ヨブの昔と今」 3
22 31:1~40 ヨブの最後の弁論4「潔白さの誓い」 4
23 32:~33: エリフの弁論1 1
24 34:~37: エリフの弁論2 2
25 38:~39: 嵐の中から語られる神1 1
26 40:~41 嵐の中から語られる神2 2
27 42:1~6 ヨブ記のエピローグ1、ヨブの「見神」経験 1
ヨブの苦しみ
3章から5章にかけては「ヨブの苦しみ」に対する答えが語られます。
ヨブは全財産を失い、身ははれものにおおわれ苦しみます。ヨブは呪いの言葉を吐きます。しかし神に義なるヨブは決して神を呪いません。「この後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った(3:1)」のです。神ではなく、生まれた日を呪ったのです。ヨブは自分が生まれなかったら、こんな苦しみはなかった、とその身を嘆き、悲しみます。次に、生まれたとき、なぜ嬰児のうちに死ななかったのかと、その出生を恨みます。生を受け成人した今、自死したいと望みます。しかしこれも果たせません。これは、天において神とサタンが談合したとき、神はサタンに「その命までは取るな」と命じたからです。しかし、ヨブは、それを知りません。際限のない、いつ終わるかわからない災厄に苦しめられます。ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また、穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理を神に問います。
ここでヨブは人生における最も基本的な問いかけをしています。「出生」と「生存」と「死」です。生きるということの意味を神に問うているのです。
次の章からは、この基本的な問題に関して3人の友人との間に議論が展開していきます。
4章~5章:3人の友人のうち第1に登場するのがエリファズです。
彼は2つの点で決定的な過ちを犯しています。
1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか。どこに正しい者で絶たれた者があるか(4:7)」。
2 私の見るところでは、不幸を耕し害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」。
1,2ともに言わんとすることは「因果応報説」です。
1に関して言えば、イエス・キリストも、アベルも神に対して義なる人でした。しかし、二人とも義なる人ゆえに断たれています。ヨブも神が認めた義人です。ヨブは「われは義人なり」と主張します。エリファズの意見(因果応報節)はヨブには当てはまりません。
楽庵会
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