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イザヤ書Ⅱ第2部(40~65章)慰めよ慰めよわたしの民を

2016年10月16日 | Weblog


 イザヤ書Ⅱ  第2部(40~55章) 慰めよ、慰めよ、わたしの民を
 荒れ果てた荒野の中を2人の足跡が続いていました。それは、時に弱く、時に乱れていました。しかし、この二つの足跡は、いつしか一つの足跡に変わっていました。一人が疲れ切って倒れてしまったからでしょうか?
 この二つの足跡は、神と人との足跡だったのです。共に歩んでいながら、相容れなかったのです。乱れは葛藤を現しています。いつしか足跡が一つに変わったのは、神が人を捨てたからでは無く、背負って歩いていたからです(46章3~4節参照)。

 歴  史
 第Ⅰイザヤの時代から約1世紀、時代は大きく変わります。イスラエルに脅威を与えていたアッシリアは、その力を失い、新興勢力であった新バビロニアに滅ぼされます。この帝国は、ネブカドネザル王の時代に最盛期を迎え、アッシリアの圧力の前、細々と生き残っていたユダ王国とその首都エルサレムに侵攻しこれを滅ぼします。ソロモンによって建てられた第一神殿は破壊され、ヒゼキヤ王を始め住民の主だった者は捕囚としてバビロンに連行されます(バビロンの捕囚)。このバビロン帝国もネブカドネザル王の死後、四半世紀後、ペルシャ帝国初代の王クロスによって滅ぼされます。クロス王は捕囚の民ユダヤ人にその祖国への帰還を命じ、第2神殿の建設を許します。この捕囚、帰還、神殿建設と云う過程が第二イザヤの活動した時代です。この歴史がイザヤ書、第2部(40章~55章)の内容です。

 契  約
 イザヤ書を読む場合、神と人との契約について考える必要があります。その契約は4つあります。それは、
1.神とアダム(エバ)との契約→永遠不滅の契約
2.神とノアとの契約→普遍救済型契約(人類)
3.神とアブラハムとの契約→個別救済型契約(民)
4.神とダビデとの契約→個別救済型契約(国)
の4つになります。
 神とアダムとの契約は、自分に対して従順ならエデンの園での永遠の生活を保障しようというものです。しかし、これは破られます。原罪。
 神とノアの契約は人類の生存の保障です。主は人類及びすべての生き物を滅ぼした後、「2度と大水を起こして人類を滅ぼすことは無い」と契約しています。これは一方的契約であり片務契約です。主は心の中で云います「わたしは決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ。わたしは決して、再びわたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい(創世記8:21、9:1~17)」と。ここでも原罪が語られています。
 次はアブラハムとの契約です。神は言います。「わたしの前で全きものであれ、ならば、あなた方に土地を与え、子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と。
 ダビデとの契約:「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ(Ⅱサムエル記7:16)」と。
この契約を遡るとダビデ→アブラハム→ノア→アダムと、エデンの園(千年王国)に行きつきます。第2イザヤの思想は、結局は、民の救済という原点に立ち返るのです。バビロンの捕囚から解放されて、神の民が帰還を果たす。それに終わらず、その彼方に終末の救いを見るのです。神は契約を大切にするお方です。そのゆえにどんなにイスラエルの民が自分に逆らっても、一時的にはこれを罰することはあっても、決してこれを滅ぼすことは無いのです。

 慰めよ、慰めよ、わたしの民を
 40章1節は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と云う主の言葉から始まります。主ご自身のあつい思いがイザヤを通じてイスラエルの民に語られます。
 この冒頭の反復によって強調される慰めの中に、第2イザヤ書の中核があり、捕囚の民の苦しみを除き、その思いをなだめ、晴れやかにすると云う、主の切なる思いを窺い知ることが出来ます。ここに初めてペルシャの大王クロスが出てきます。クロスはユダとエルサレムの民を捕囚から救った救い主だったのです。アッシリアとバビロニアが主の裁きの杖であったように、クロス大王は、その中に神を隠す偉大な存在だったのです。主はクロスに油を注ぎ「わたしの牧者、わたしの望むことはすべて成し遂げる」と云います。目に見ることの出来ない主は、目に見える姿としてクロスを現し、その望むことを実現しようとしたのです。主の望むこととは、廃墟となったユダとエルサレムの町を復興し、神殿を再建し、その基礎の上に、かつて、栄華を誇ったダビデとソロモンの神に義なる国の再建にあったのです。
 イザヤは言います。「その労苦は終わり、その咎は贖われた。その罪に引き換え、2倍のものを主の手から受けた」と。2倍ものものとは「捕囚からの解放」であり祖国の再建だったのです。そして、「主の道を整えよ」と云います。主の道の行きつく先は、終末であり、千年王国なのです。ここに主と民との契約は完成します。

 クロス大王(2世): 
 アケメネス朝ペルシャの初代国王。クロスは古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設しました。現代のイラン人は、クロスをイランの建国者と称えています。
 クロスはBC546年リディアを滅ぼし、BC538年に新バビロニアを滅ぼし「バビロン捕囚」として捕えられていたユダヤ人を解放し祖国エルサレムへの帰還を許しています。旧約聖書は、クロスを「解放者」と呼んでいます。クロスは「ゾロアスター教」の信仰者であったが、その教えを征服地に強制することをしませんでした。それ故、ユダヤの民は、その宗教的寛容に助けられて、その信仰を維持することが可能だったのです。ユダヤ人は、クロスを「救世主」として讃えています。
 イザヤ書45章で主はクロスに対して「あなたはわたしを知らない」としながらも、彼に『肩書を与え、力を帯びさせる』。わたしを知らないは、わたしの信者ではない、と云うことです。しかし、主はクロスに油を注いでいます。「イザヤ書の中ではクロスの役割は大きい、彼の中に主は隠れているのです。主は自分の偉大さを示し、クロスに改宗を迫っています。クロスは半遊牧民のマッサゲタイとの戦いで戦死します。

 イエスの十字架上での贖い(代償的苦難) 
 第53章では、刑場でのイエスの姿が描かれています。イエスは何の罪も無いのに十字架にかからなければなりませんでした。しかし彼は十字架に架けたものに恨み事一つ言わず、「彼らの罪をお許し下さい」と叫んでいます。彼はイスラエルの神に対する背きの罪を一身に引き受け死んでいったのです。「私たちの背きの罪のために、刺し通され、私たちの咎のために砕かれたのです。」しかし、これは主がなさった事だったのです。聖書は言います「主は私たちの全ての咎を彼に負わせたのです。彼を砕いて痛めつけることは、主の御心であったのです。もし彼が自分の命を罪科のための生贄とするなら、彼は末永く子孫を見ることが出来、主の御心は彼によって成し遂げられる。彼は自分の激しい苦しみの跡を見て、満足する」と。これは聖書の持つ逆説です。十字架上のイエスの苦しみは、主の激しい苦しみでもあったのです。共に苦しんでいたのです。いやもっと苦しんでいたかもしれません。それは復活のためには通らねばならない生みの苦しみだったのです。主は愛のお方です。冷ややかに見つめることなど出来ないのです。決して「見捨て」たのではないのです。ここにはイエスの主にたいする黙従が描かれています。黙従は神に対する完全な信頼です。イエスの磔刑は罪科に対する主への生贄を現しています。主への生贄は、完全かつ清く無ければなりません。イエスこそ、それに相応しい方だったのです。神に対して完璧の人だったのです。
                 平成28年10月11日(火) 報告者 守武 戢  楽庵会


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