チャールス、ディケンズ作「クリスマス・キャロル」村岡花子訳
もうすぐクリスマスです。それでこの作品を取り上げてみました。一般的には子供向けと云われています。勿論子供が読んでも楽しい作品です。しかし、大人にこそ読んでほしいのです。今、大人たちが忘れ去った、多くのことが描かれています。日本人にはあまり関係の無いクリスマスですが、現代の消費社会の中で、商業主義に汚染されています。酒を飲むための機会だ、ぐらいに思っている人も多いようです。しかし、宗教が生活の底辺にしみついている欧米人は違います。クリスマスの精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」です。この精神は、あくまでも内面的なものです。外面的なものではありません。人々は家の中でクリスマスを家族と共に、静かに、楽しく過ごし、お互いの愛を確かめ合います。
この作「クリスマス・キャロル」とは、「クリスマス賛歌」という意味で英国の文豪チャールス・ディケンズの作です。賛歌である以上、クリスマスを祝った作品です。是非、読んでください。
この作品は、クリスマスを前にして、三人の幽霊に導かれて、自分の過去、現在、未来を訪れることになったエベネーゼ・スクルージという冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴で、人間の心の温かさ、愛情などとまったく無関係な初老の老人の、改悛と、更生の物語です。この作品の基礎にはキリスト教的博愛と、美徳の精神が貫かれています。豊かな者が、貧しい者を助け、社会をよりよいものにする。クリスマスこそ、その精神を実現するに最もふさわしい時だと作者は云います。スクルージは過去、現在と、自分自身の、その邪悪な精神を見せつけられ、更に、その未来の死後の世界を見せつけられ、自分に対して他人はどう思っているのかを知らされます。そしてその結果の悲惨さを見て、驚き、改悛します。更生後スクルージは「クリスマスの祝い方を知っている人はあの人を置いてない」とまで云われるようになります。
ここでは人の心は本来善なのだと、言っています。どんな邪悪な心をもった人間でも更生の機会さえ与えられれば、本来の姿に戻るのだといっています。エベネーゼ・スクルージはそのよい例なのです。この作品は単なる退屈で、欺瞞に満ちた「道徳訓話」ではありません。そこには国や時代を超えて人の心を魅了する素晴らしいディケンズのストーリーテーリングがあります。貧苦の中から身を起こしたディケンズの自らの体験から出た作品だけに人の心に感動を呼びます。 後にチャールス、ディケンズはこの考え方を、キリスト教的博愛と美徳の精神をもとに社会改革の思想にまで発展させていきます。
これからこの作品「クリスマス・キャロル」の内容の紹介に入ります。
目次
第1章 マーレイの亡霊
第2章 第一の幽霊
第3章 第二の幽霊
第4章 最後の幽霊
第5章 事の終わり
第1章 マーレイの亡霊
この小説の主人公エベネ―ゼ・スクルージは、ロンドンの下町に事務所を構え、薄給で書記のボブ・クラチットを雇い、先に紹介したように我欲一筋の商売を続けています。
明日はクリスマスという夜、そんな彼のところに、かつての共同経営者で7年前に亡くなった、ジェイコブ・マーレイの亡霊が訪れます。
そして彼は言います「一人の人間は失った機会が、いかほど後悔しても取り返しがつかない、ということを知らずにいるのだ」「おれもそうだったのだ」「慈善、憐れみ、寛大、慈悲、これらすべては自分がなすべき仕事だったのだ。しかし、「おれ」は、これらすべてのことに見向きもせず我欲のためにのみ生きてきた。クリスマスこそ、我欲を捨て、あらゆる善意のために生きるべきだったのに、それを「おれ」は忘れていた。その結果、死後、おれは自分が生前に行った行為そのものである重く、長い鎖に纏われて生活するようになった。その苦しさは言葉に表すことは出来ない」、「おまえも、今のような邪悪で、無慈悲な生活を続けていると、私のように鎖に繋がれて、休みなく、安心も無く、悔いの心に苛(さいな)まれて、黄泉(よみ)の世界をさまよい続けることになるぞ」、「おれは7年もの間、重く、長い鎖をひきづってさまよい続けている。さらに将来にわたってさまよい続けなければならない」「このような苦しみをお前には味わって欲しくない」「おまえを救うために「おれ」は来たのだ」「おまえのところには、3人の幽霊が訪れることになっている。彼らはお前を、お前の過去・現在・未来へと導き、そこで、お前が気づいていない、お前自身の邪悪で、無慈悲、金銭欲と物欲に取りつかれた醜い姿を見せつけるであろう。そして、そのことが反省の材料となって、お前を悔い改めさせ、更生の機会を与えるであろう」。「いまなら、まだ、間に合う」。と云ってマーレイの幽霊は去っていきます。
この後、スクルージのもとに「過去のクリスマスの幽霊」「現在のクリスマスの幽霊」「未来のクリスマスの幽霊」が日替わりで訪れます。
第2章 第1の幽霊
なかなか現れない幽霊にスクルージは昨日のことは夢だったのかと思い、イライラします。
しかし予告された1時きっかりに、小人のような姿をした幽霊が現れます。
「私は過去のクリスマスの幽霊だ」「おまえの過去だ」「おまえを改心させるために来たのだ」「どこまでもおまえの力になってやる」
過去の幽霊は壁を通り抜けて、スクルージが、今や全く忘れていた少年時代に誘います。彼はかつて大家のお坊ちゃんでした。しかし家は没落し、そんなことから仲間はずれにされ、いじめにあい、孤独な生活を送っていたのです。しかし、夢を忘れず、本の中に没頭していました。そこには、アリババが、ロビンソンクルーソーが、サルタンに拉致され、花嫁にされそうになり、海賊のコンラッドに助けられた娘がいました。そんな過去の姿に接し、スクルージは涙し、自らを愛しく思い、純真な心を取り戻していきます。
そんなスクルージを優しく見つめながら、幽霊は彼を一つの家庭に導いていきます。そこには妹のファンがいました。彼女は、厳しい性格ゆえにスクルージと仲たがいしていた、ある学校の校長である父親との仲を取り持ち、幸せな生活へと導いていきます。彼女は結婚後一人の男児を出産します。しかし、若くして亡くなります。その一人息子が甥っ子のフレッドだったのです。
幽霊はさらに彼が、かつて奉公していた商店に連れていきます。そこでは主人のフェジウィグ老人とその夫人を中心にしたクリスマスパーティーが開かれていました。その真っ最中に幽霊はスクルージを誘ったのです。素晴らしい踊り、素晴らしいご馳走、素晴らしい仲間がそこにはありました。参加した人々は、和気あいあいとパーティーを楽しんでいました。スクルージも、その一人でした。主人のフェジウィグ老人は誰かれも分け隔てること無く、その場に参加していた人たちと優しく接していました。パーティーは11時には終わります。そこには、まだ金銭欲と物欲に侵される前の純真で、素朴な青年時代のスクルージの姿がありました。
そんな彼が金銭欲と物欲に侵されていきます。彼には、かつて、素晴らしい娘が恋人として存在していました。しかし、別れが訪れます。金銭欲と物欲に侵されていくスクルージに嫌気をさした娘から縁切りされたのです。スクルージは反論します。「世の中は貧乏には実に辛く当たるんだ、それでいながら、一方には富を求めることを非常に厳しく攻撃するんだ」。富を求めることの妥当性を彼は主張します。娘は言います「私はあなたの気高い向上心が一つずつ、一つずつ枯れ落ちて、とうとう、お金儲けという一番大切な欲がすっかりあなたを占領してしまうのを見てきましたのよ、そうじゃありませんか?」「変わってきた性質、変わってしまった心持、暮しが変わり、目的とするものが変わったんです。私の愛なんか何の値打もなくなってしまったのです」。
スクルージはそんな過去の自分を見せつけられ、たまらない気持にります。これ以上哀れな自分の姿を見せないでくれと幽霊に頼みます。
しかし幽霊は、彼を無視して、次に展開した事実を見せつけます。
昔の彼女は立派な母親になっていました。騒々しい、子供たちに囲まれた幸せな母親の姿がそこにはありました。
それに反してスクルージの姿はみじめでした。彼は全く一人ぽっちで事務所の椅子の上に座り込んでいました。共同経営者のマーレイは死の床にありました。お金は沢山持っていたにもかかわらず、彼の心は孤独だったのです。
そんな姿を見せつけられ、「とても見ていられない」とスクルージは叫びます。
幽霊は彼を自宅に戻し、去っていきます。抵抗できない睡魔がスクルージを襲い、深い眠りに陥いります。
第3章 第2の幽霊
約束の時間1時きっかりに「現在のクリスマス」の幽霊が現れます。その姿は見るも気持ちの良い巨人で、頭にはひいらぎの花冠、全身は濃い、ゆったりとした緑色のマント、そして、脚は裸足。その姿は全てがゆったりとしていて、気持ちよげでした。
幽霊はスクルージを自分のマントにつかまらせて、寒いが晴れ渡った、雪に覆われた、町の中を飛んで行きます。町の中はクリスマスを祝う人で満ち溢れていました。クリスマスを利用して自分の欲望を満たしている人々に憎しみを投げつつ、幽霊はスクルージをボブ、クラチットの家に案内します。今ではちょっと考えられない8人の大家族です。ボブ・クラチットと、その夫人、長男のピーター・クラチット、長女のマーサー・クラチット、次女のブレンダ・クラチット、2人の小さな男の子と女の子。そして最後に足が悪く、松葉つえに頼らなければ歩くこともままならないティム坊やです。彼らはクリスマスを迎え陽気にはしゃいでいます。いろいろの場所から集まってきた家族は、全員が集まった段階で、つましいが、心のこもった、ご馳走を食卓に広げます。スクルージは書記のクラチットに充分の給料を支払っていません。貧しい家族です。しかし、この家族は、今日の暮しに満足しています。足るを知る家族です。楽しく愉快に食事を楽しんでいます。はしゃいでいます。量は決して多くはありません。それを分け合って食べています。それに不満を言うものはいません。この家族は、お互いに助け合い、思いやり、愛し合い、支え合って生きています。スクルージの悪口を言う家族にボブは「今日はクリスマスだよ」とたしなめます。「スクルージに乾杯」と祝福します。素晴らしい家族です。ボブは障害をもつティム坊やをとても愛しています。抱きしめて離しません。
そんな素晴らしい家族を目の当たりにしてスクルージは感動します。「ティム坊やはどうなるの?」と訊ねます。幽霊は応えます。「未来のボブの家族にティムはいない。松葉杖だけが見える」。ティム坊やの死を暗示しています。どんな幸せな家族にも影はあります。スクルージは自分の運命が変えられるなら、ティム坊やの運命も変えてほしいと心から願います。
ここに描かれているのは家族愛です。その理想的な姿が描かれています。
ボブ・クラチットは、これからも市井の貧しい一市民として、素晴らしい子供たちに囲まれて生きていくでしょう。彼には将来に対する社会的な野望や夢はありません。ひたすら現在の生活を大切にし、幸せな家庭を築きあげることに専念しています。そこには現代社会が失った貴重なものがあります。二人の男女が結婚し、慈しみ、愛し合い、子供を産み家族を作り、将来に広げていく。極めて平凡なことです。しかし、これこそが大切なことだと思います。
スクルージと幽霊はボブ・クラチットの家を去り、クリスマスの祝いで混雑した街中に出ていきます。幸せな家族にも、逆に不幸せの家族にも幽霊は祝福を与えます。幸せな家族はより幸せに、不幸せの家族は、幸せになります。一年中のどの日よりも、このクリスマスには、人々は互いに互いを愛し合い、助け合い、楽しげに言葉をかけあいます。
かくして、スクルージと幽霊の二人は、甥のフレッドの家に到着します。
そこでは、甥の家族と、その仲間たちがおり、クリスマスを祝い、お互いに笑い合っていました。お茶とお菓子を飲んだり、食べたりして、様々な話題に興じていました。スクルージ伯父さんの話題が専らでした。甥のフレッドは言います「使うことを知らないお金をため込み、一人ぽっちで、人との素晴らしい付き合いを避け、こんな素晴らしいパーティーに誘っても、クリスマスなんてくだらない、何の儲けになるんだ、と断る、こんな美味しい、ご馳走からも無縁で過ごしている。なんと意固地で不幸な人間なんだろう」と。「しかし、私は、こんな素晴らしい時間があることをスクルージ伯父さんに知ってもらいたい、だから、彼を毎年このパーティーに誘うつもりだ」「チャンスを与えるつもりだ」と云って、スクルージのためにクリスマスの乾杯をします。皆は苦が笑いをしながらもそれに和します。
お茶の時間の後には音楽の時間が始まります。プロ並みのバスの声をうなるストッパー、立て琴の上手いブレッド夫人。彼女はスクルージの知っている曲を数曲奏でて、スクルージを感動させます。
音楽の時間の後はゲームの時間です。罰金遊び、目隠し遊び、26文字だけで文章を作るアルファベット遊び、YES,NO遊び、恋人探し遊びと、クリスマスの祝いを楽しんでいました。スクルージは自分の姿が見えないにもかかわらずその中に混じって共にゲームに興じていました。そこには、かつて経験したことのないクリスマスの喜びがありました。純粋な心をもっていた頃のスクルージに戻っていました。もっと残ってゲームに興じていたかったのですが、幽霊はそれを許しません。この家を離れます。
スクルージと幽霊は再び旅を続けます。
二人は遠くまで行き、多くの家族を訪れ、多くのものを見、それらに祝福を与えました。病人、罪人、悩み苦しんでいる人などなど、善人にも悪人にも。そしてそれらのものは、みんな幸せになりました。
しかし幽霊にも幸せに出来ない邪悪なものがあります。それは人間の裏側に潜む怪物です。
ひとは勝手で、恐れを知らない欲望のために生きています。ひとの世界は、無知と欠乏にあふれています。そこには理性の入り込む余地はありません。世界の人口は無知ゆえに増え続けています。その結果としての欠乏があることを知りません。限られた資源と食糧を巡って戦争がおこります。難民が増大します。欠乏が増大します。この悪循環が現在の低開発地域の状況です。この結果として現れるものが「滅亡」です。世界はこの危機をどう乗り切るつもりなのでしょうか?
デイッケンズはこんな状況に警鐘を鳴らしています。まだ間に合うでしょうか?
スクルージは幽霊に訊ねます。「この子達(人間)に逃れる場所も資力もないのですか?」
幽霊は応えます。「監獄は無いのかね?」「授産場はないのかな?」
監獄は滅亡を、授産場は再生を意味している、と私は思います。
第4章 最後の幽霊
貧しくも心優しいボブ・クラチットと甥のフレッドの家庭を去ったスクルージと第2の幽霊は、さらに旅を続けます。様々な家庭を訪れ、祝福を与え幸せをもたらします。病は癒え、不幸な人は幸せになります。
第2の幽霊は去り、第3の幽霊「未来の幽霊」が現れます。黒ずくめの衣装に身を包み、決してスクルージと口を聞こうとしません。彼はスクルージを未来の世界「死後」の世界へと導いて行きます。
取引所や街中で、ある男の死が噂されています。人々は「あの悪魔」といい、「因業爺い」といい、「くたばった」とののしり、葬式の参列者もいないだろうと、陰口をたたきます。スクルージはその噂が自分であることに気づきません。自分とは無縁な人間としてそばを通り過ぎます。スクルージは自分の事務所を訪れます。何故か、そこには自分の姿はありませんでした。
更に、犯罪と汚穢と不幸に汚された、不潔、かつ危険な悪の巣窟=貧民街を二人は訪れます。その街の、ある場所で白髪の故買屋ジョー爺さんが盗品の買い付けをしていました。そこに男女の盗人が入ってきます。一人の死体から身ぐるみはぎとって、その衣装を売りに来たと云います。分捕り品の値段の交渉が始まります。「これ以上は、ぴた、一文出せないぞ」と、爺さんは、現金を配ります。浅ましい姿がそこにはありました。「あの男は、死んで初めて我々を儲けさせてくれた」と、盗人たちは笑います。
暗い空虚な家の中に、盗人たちによって身ぐるみはがされた裸の死体をスクルージは認めます。顔は黒い布で覆われているので誰かは確認できません。誰ひとり死体の世話を焼き、見守り、泣いてくれる人もいなければ、悲しがる人もいないのです。盗人たちによって身ぐるみはがされ、盗みにまかされた孤独で無残な姿がそこに、晒されていました。生前の彼の行為がもたらした当然の結果だったのです。
彼の死が貢献した唯一の事は、彼から借金をし、その取り立てに苦しめられていた一家でした。その債権が誰の手に移ろうとも、彼以上に酷い債権者はいない筈です。彼らは喜びに顔をほころばせます。
幽霊は彼を墓地にいざないます。墓碑銘は「エブニゼル・スクルージ」。そこで初めて、スクルージは無残に曝されていた死体が自分自身であると知るのです。
スクルージは自分が見せつけられた運命を変えてくれるように幽霊に懇願し、自分のこれまでの生活を一変させる事を幽霊に誓います。幽霊は、頷いたかの素振りを見せて、黙って去っていきます。
第5章 事の終わり
スクルージは最後の幽霊に導かれて、自らの死後の世界を見せつけられます。金銭欲や物欲に取りつかれた人間がどのような醜い姿をさらすことになるかを嫌となるほど知らされます。彼は最後の幽霊に頼んで、改悛し、更生することを誓います。その言葉には嘘は無かったのです。心情にあふれていました。最後の幽霊は微笑み、愛しげに彼を見つめて消えていきます。
「今までの醜い影を消して消せないことは無いのだ、消せるとも、きっと消せるとも!」。彼は行く手に横たわる「時」が自分のものであると予感し、埋め合わせの利くものであると自覚します。
それからの彼の生活は変わります。冷酷、無慈悲、エゴイストで守銭奴であった彼は、幽霊との出会いによって人間の心の温かさ、愛情の尊さに気付きます。彼は善行に生きることを誓ったのです。
彼は今まで薄給で雇い、辛い思いをさせていたボブ・クラチットに思いをはせます。クリスマスのお祝いに、匿名で七面鳥を送ることを決心します。一人の坊やを呼び多額のお駄賃を与え、買いにやらせます。
何の儲けも与えない、蔑みの対象でしかなかったクリスマスなのに、最上の晴れ着に身を包みスクルージは外に出ます。そこで昨日、寄付を求めてきた二人の紳士に出合います。断ったことを謝し、多額の寄付を申し出て紳士を驚かせます。
その後、クリスマスの招待を断った甥のフレッドの家を訪れます。「--------ご馳走になりに来たんだ、入れてくれるかい」。甥のフレッドはもちろん歓迎し、彼を受け入れます。これほど真心のこもった歓迎を彼はこれまで味わったことはありませんでした。素晴らしい宴会、素晴らしいご馳走、素晴らしい遊び、素晴らしい和気あいあいの空気が、そこにはありました。そこでスクルージはクリスマスは素晴らしさを、はじめて実感したのです。
翌日スクルージは事務所に行きます。書記のボブ・クラチットは遅れてきます。恐縮するボブ・クラチットを問題にもせず、給料を上げることを約束し、優しい上司になることを誓います。家族の援助を誓い、実際には死んでいなかったティム坊やの第二の父親になることを約束します。最後の幽霊はスクルージの運命を変えると同時に、ティム坊やの運命まで変えていたのです。
かくして、スクルージはそれ以来、彼の住む地域の、かつて無いほどの善き友となり、善き主人になり、素晴らしい人間に変身しました。ひとはその変身ぶりを笑いました。しかし彼はそんなことなど何ら気にもせず、ひたすら善行に努め、町の活性化のために尽くしたのです。
その結果、「もしも生きている人間で、クリスマスの祝い方を知っているものがいるとすれば、彼こそ、その人だ」と、いつも云われるようになったのです。
あとがき
ノブレス・オブリージュという言葉があります。「貴族の義務」と一般的には、訳されます。直訳は「高貴さは義務を強制する」です。その意味は、財産、権力、社会的地位の保持には責任を伴う、ということです。本来、この言葉は基本的には心理的な自負、自尊の精神ですが、外形的な義務と受け止めると社会的圧力と見なされます。勿論、法的義務ではないので、これを成さなかったからといって法的に処罰されることはありません。しかし、社会的、道徳的批判、指弾を受けることはあります。
日本の唯一の貴族は天皇を中心とする皇族です。彼らは幼いころから「帝王学」を学びます。ですからその日常生活は質素だといいます。その基礎には「民、百姓が飢え、苦しんでいるときに、自分達だけが贅沢をしてはならない」という基本理念があります。また、地域において災害が起こった時には、必ずその地を訪れ、慰労します。それを義務と心得ているからです。この行為がその地の人々の心をどんなに慰め、力を与えるかは、想像を絶するものがあります。これは一例です。一般的に広げて言えば、富裕者、有名人、権力者は社会的責任をもって振る舞うべきだという社会的責任論になります。特権は、それをもたない人々への義務によって釣り合いが保たれるのです。
しかしこれはあくまでも個人的なものであって社会的にみれば限界があります。特権者の特権と贅沢の隠れ蓑になってはならないのです。
この考え方を社会的にまで広げ、システム化したものが福祉国家論です。その基礎にはキリスト教的博愛と美徳の精神があります。富んだものから資金を吸収し、それを貧しい物に配分する。極端な金持ちもいなければ、極端な貧乏人もいない、平準化した社会を目指しています。一方社会主義を目指す勢力もいました。福祉国家は、基本的には資本主義社会です。しかし、資本主義社会の持つ「自由」と社会主義社会の持つ「平等」を同時に実現しようとします。しかし社会主義者は、この考えを日和見主義と批判し、キリスト教的博愛の精神と、その基礎となる資本主義を否定します。しかし最終的目的は同じです。
これらの理念の拮抗した社会が、1840年代のイギリス帝国の状況だったのです。この時代イギリス帝国の経済状態は、ようやく、その資本主義の発展が成熟期を迎え、一方には富が、他方には貧困が蓄積され激しい階級対立を生み出していました。この時代に生まれた作品が「クリスマス・キャロル」だったのです。この作品には社会主義者のように社会革命を掲げ、社会改革を遂行しようとする革命思想はありません。キリスト教的博愛と美徳の精神のもとに社会改革を試みようとする理念が、その底流に流れています。
チャールス・ディケンズ作「クリスマス・キャロル」村岡花子訳
新潮文庫 新潮社版
もうすぐクリスマスです。それでこの作品を取り上げてみました。一般的には子供向けと云われています。勿論子供が読んでも楽しい作品です。しかし、大人にこそ読んでほしいのです。今、大人たちが忘れ去った、多くのことが描かれています。日本人にはあまり関係の無いクリスマスですが、現代の消費社会の中で、商業主義に汚染されています。酒を飲むための機会だ、ぐらいに思っている人も多いようです。しかし、宗教が生活の底辺にしみついている欧米人は違います。クリスマスの精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」です。この精神は、あくまでも内面的なものです。外面的なものではありません。人々は家の中でクリスマスを家族と共に、静かに、楽しく過ごし、お互いの愛を確かめ合います。
この作「クリスマス・キャロル」とは、「クリスマス賛歌」という意味で英国の文豪チャールス・ディケンズの作です。賛歌である以上、クリスマスを祝った作品です。是非、読んでください。
この作品は、クリスマスを前にして、三人の幽霊に導かれて、自分の過去、現在、未来を訪れることになったエベネーゼ・スクルージという冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴で、人間の心の温かさ、愛情などとまったく無関係な初老の老人の、改悛と、更生の物語です。この作品の基礎にはキリスト教的博愛と、美徳の精神が貫かれています。豊かな者が、貧しい者を助け、社会をよりよいものにする。クリスマスこそ、その精神を実現するに最もふさわしい時だと作者は云います。スクルージは過去、現在と、自分自身の、その邪悪な精神を見せつけられ、更に、その未来の死後の世界を見せつけられ、自分に対して他人はどう思っているのかを知らされます。そしてその結果の悲惨さを見て、驚き、改悛します。更生後スクルージは「クリスマスの祝い方を知っている人はあの人を置いてない」とまで云われるようになります。
ここでは人の心は本来善なのだと、言っています。どんな邪悪な心をもった人間でも更生の機会さえ与えられれば、本来の姿に戻るのだといっています。エベネーゼ・スクルージはそのよい例なのです。この作品は単なる退屈で、欺瞞に満ちた「道徳訓話」ではありません。そこには国や時代を超えて人の心を魅了する素晴らしいディケンズのストーリーテーリングがあります。貧苦の中から身を起こしたディケンズの自らの体験から出た作品だけに人の心に感動を呼びます。 後にチャールス、ディケンズはこの考え方を、キリスト教的博愛と美徳の精神をもとに社会改革の思想にまで発展させていきます。
これからこの作品「クリスマス・キャロル」の内容の紹介に入ります。
目次
第1章 マーレイの亡霊
第2章 第一の幽霊
第3章 第二の幽霊
第4章 最後の幽霊
第5章 事の終わり
第1章 マーレイの亡霊
この小説の主人公エベネ―ゼ・スクルージは、ロンドンの下町に事務所を構え、薄給で書記のボブ・クラチットを雇い、先に紹介したように我欲一筋の商売を続けています。
明日はクリスマスという夜、そんな彼のところに、かつての共同経営者で7年前に亡くなった、ジェイコブ・マーレイの亡霊が訪れます。
そして彼は言います「一人の人間は失った機会が、いかほど後悔しても取り返しがつかない、ということを知らずにいるのだ」「おれもそうだったのだ」「慈善、憐れみ、寛大、慈悲、これらすべては自分がなすべき仕事だったのだ。しかし、「おれ」は、これらすべてのことに見向きもせず我欲のためにのみ生きてきた。クリスマスこそ、我欲を捨て、あらゆる善意のために生きるべきだったのに、それを「おれ」は忘れていた。その結果、死後、おれは自分が生前に行った行為そのものである重く、長い鎖に纏われて生活するようになった。その苦しさは言葉に表すことは出来ない」、「おまえも、今のような邪悪で、無慈悲な生活を続けていると、私のように鎖に繋がれて、休みなく、安心も無く、悔いの心に苛(さいな)まれて、黄泉(よみ)の世界をさまよい続けることになるぞ」、「おれは7年もの間、重く、長い鎖をひきづってさまよい続けている。さらに将来にわたってさまよい続けなければならない」「このような苦しみをお前には味わって欲しくない」「おまえを救うために「おれ」は来たのだ」「おまえのところには、3人の幽霊が訪れることになっている。彼らはお前を、お前の過去・現在・未来へと導き、そこで、お前が気づいていない、お前自身の邪悪で、無慈悲、金銭欲と物欲に取りつかれた醜い姿を見せつけるであろう。そして、そのことが反省の材料となって、お前を悔い改めさせ、更生の機会を与えるであろう」。「いまなら、まだ、間に合う」。と云ってマーレイの幽霊は去っていきます。
この後、スクルージのもとに「過去のクリスマスの幽霊」「現在のクリスマスの幽霊」「未来のクリスマスの幽霊」が日替わりで訪れます。
第2章 第1の幽霊
なかなか現れない幽霊にスクルージは昨日のことは夢だったのかと思い、イライラします。
しかし予告された1時きっかりに、小人のような姿をした幽霊が現れます。
「私は過去のクリスマスの幽霊だ」「おまえの過去だ」「おまえを改心させるために来たのだ」「どこまでもおまえの力になってやる」
過去の幽霊は壁を通り抜けて、スクルージが、今や全く忘れていた少年時代に誘います。彼はかつて大家のお坊ちゃんでした。しかし家は没落し、そんなことから仲間はずれにされ、いじめにあい、孤独な生活を送っていたのです。しかし、夢を忘れず、本の中に没頭していました。そこには、アリババが、ロビンソンクルーソーが、サルタンに拉致され、花嫁にされそうになり、海賊のコンラッドに助けられた娘がいました。そんな過去の姿に接し、スクルージは涙し、自らを愛しく思い、純真な心を取り戻していきます。
そんなスクルージを優しく見つめながら、幽霊は彼を一つの家庭に導いていきます。そこには妹のファンがいました。彼女は、厳しい性格ゆえにスクルージと仲たがいしていた、ある学校の校長である父親との仲を取り持ち、幸せな生活へと導いていきます。彼女は結婚後一人の男児を出産します。しかし、若くして亡くなります。その一人息子が甥っ子のフレッドだったのです。
幽霊はさらに彼が、かつて奉公していた商店に連れていきます。そこでは主人のフェジウィグ老人とその夫人を中心にしたクリスマスパーティーが開かれていました。その真っ最中に幽霊はスクルージを誘ったのです。素晴らしい踊り、素晴らしいご馳走、素晴らしい仲間がそこにはありました。参加した人々は、和気あいあいとパーティーを楽しんでいました。スクルージも、その一人でした。主人のフェジウィグ老人は誰かれも分け隔てること無く、その場に参加していた人たちと優しく接していました。パーティーは11時には終わります。そこには、まだ金銭欲と物欲に侵される前の純真で、素朴な青年時代のスクルージの姿がありました。
そんな彼が金銭欲と物欲に侵されていきます。彼には、かつて、素晴らしい娘が恋人として存在していました。しかし、別れが訪れます。金銭欲と物欲に侵されていくスクルージに嫌気をさした娘から縁切りされたのです。スクルージは反論します。「世の中は貧乏には実に辛く当たるんだ、それでいながら、一方には富を求めることを非常に厳しく攻撃するんだ」。富を求めることの妥当性を彼は主張します。娘は言います「私はあなたの気高い向上心が一つずつ、一つずつ枯れ落ちて、とうとう、お金儲けという一番大切な欲がすっかりあなたを占領してしまうのを見てきましたのよ、そうじゃありませんか?」「変わってきた性質、変わってしまった心持、暮しが変わり、目的とするものが変わったんです。私の愛なんか何の値打もなくなってしまったのです」。
スクルージはそんな過去の自分を見せつけられ、たまらない気持にります。これ以上哀れな自分の姿を見せないでくれと幽霊に頼みます。
しかし幽霊は、彼を無視して、次に展開した事実を見せつけます。
昔の彼女は立派な母親になっていました。騒々しい、子供たちに囲まれた幸せな母親の姿がそこにはありました。
それに反してスクルージの姿はみじめでした。彼は全く一人ぽっちで事務所の椅子の上に座り込んでいました。共同経営者のマーレイは死の床にありました。お金は沢山持っていたにもかかわらず、彼の心は孤独だったのです。
そんな姿を見せつけられ、「とても見ていられない」とスクルージは叫びます。
幽霊は彼を自宅に戻し、去っていきます。抵抗できない睡魔がスクルージを襲い、深い眠りに陥いります。
第3章 第2の幽霊
約束の時間1時きっかりに「現在のクリスマス」の幽霊が現れます。その姿は見るも気持ちの良い巨人で、頭にはひいらぎの花冠、全身は濃い、ゆったりとした緑色のマント、そして、脚は裸足。その姿は全てがゆったりとしていて、気持ちよげでした。
幽霊はスクルージを自分のマントにつかまらせて、寒いが晴れ渡った、雪に覆われた、町の中を飛んで行きます。町の中はクリスマスを祝う人で満ち溢れていました。クリスマスを利用して自分の欲望を満たしている人々に憎しみを投げつつ、幽霊はスクルージをボブ、クラチットの家に案内します。今ではちょっと考えられない8人の大家族です。ボブ・クラチットと、その夫人、長男のピーター・クラチット、長女のマーサー・クラチット、次女のブレンダ・クラチット、2人の小さな男の子と女の子。そして最後に足が悪く、松葉つえに頼らなければ歩くこともままならないティム坊やです。彼らはクリスマスを迎え陽気にはしゃいでいます。いろいろの場所から集まってきた家族は、全員が集まった段階で、つましいが、心のこもった、ご馳走を食卓に広げます。スクルージは書記のクラチットに充分の給料を支払っていません。貧しい家族です。しかし、この家族は、今日の暮しに満足しています。足るを知る家族です。楽しく愉快に食事を楽しんでいます。はしゃいでいます。量は決して多くはありません。それを分け合って食べています。それに不満を言うものはいません。この家族は、お互いに助け合い、思いやり、愛し合い、支え合って生きています。スクルージの悪口を言う家族にボブは「今日はクリスマスだよ」とたしなめます。「スクルージに乾杯」と祝福します。素晴らしい家族です。ボブは障害をもつティム坊やをとても愛しています。抱きしめて離しません。
そんな素晴らしい家族を目の当たりにしてスクルージは感動します。「ティム坊やはどうなるの?」と訊ねます。幽霊は応えます。「未来のボブの家族にティムはいない。松葉杖だけが見える」。ティム坊やの死を暗示しています。どんな幸せな家族にも影はあります。スクルージは自分の運命が変えられるなら、ティム坊やの運命も変えてほしいと心から願います。
ここに描かれているのは家族愛です。その理想的な姿が描かれています。
ボブ・クラチットは、これからも市井の貧しい一市民として、素晴らしい子供たちに囲まれて生きていくでしょう。彼には将来に対する社会的な野望や夢はありません。ひたすら現在の生活を大切にし、幸せな家庭を築きあげることに専念しています。そこには現代社会が失った貴重なものがあります。二人の男女が結婚し、慈しみ、愛し合い、子供を産み家族を作り、将来に広げていく。極めて平凡なことです。しかし、これこそが大切なことだと思います。
スクルージと幽霊はボブ・クラチットの家を去り、クリスマスの祝いで混雑した街中に出ていきます。幸せな家族にも、逆に不幸せの家族にも幽霊は祝福を与えます。幸せな家族はより幸せに、不幸せの家族は、幸せになります。一年中のどの日よりも、このクリスマスには、人々は互いに互いを愛し合い、助け合い、楽しげに言葉をかけあいます。
かくして、スクルージと幽霊の二人は、甥のフレッドの家に到着します。
そこでは、甥の家族と、その仲間たちがおり、クリスマスを祝い、お互いに笑い合っていました。お茶とお菓子を飲んだり、食べたりして、様々な話題に興じていました。スクルージ伯父さんの話題が専らでした。甥のフレッドは言います「使うことを知らないお金をため込み、一人ぽっちで、人との素晴らしい付き合いを避け、こんな素晴らしいパーティーに誘っても、クリスマスなんてくだらない、何の儲けになるんだ、と断る、こんな美味しい、ご馳走からも無縁で過ごしている。なんと意固地で不幸な人間なんだろう」と。「しかし、私は、こんな素晴らしい時間があることをスクルージ伯父さんに知ってもらいたい、だから、彼を毎年このパーティーに誘うつもりだ」「チャンスを与えるつもりだ」と云って、スクルージのためにクリスマスの乾杯をします。皆は苦が笑いをしながらもそれに和します。
お茶の時間の後には音楽の時間が始まります。プロ並みのバスの声をうなるストッパー、立て琴の上手いブレッド夫人。彼女はスクルージの知っている曲を数曲奏でて、スクルージを感動させます。
音楽の時間の後はゲームの時間です。罰金遊び、目隠し遊び、26文字だけで文章を作るアルファベット遊び、YES,NO遊び、恋人探し遊びと、クリスマスの祝いを楽しんでいました。スクルージは自分の姿が見えないにもかかわらずその中に混じって共にゲームに興じていました。そこには、かつて経験したことのないクリスマスの喜びがありました。純粋な心をもっていた頃のスクルージに戻っていました。もっと残ってゲームに興じていたかったのですが、幽霊はそれを許しません。この家を離れます。
スクルージと幽霊は再び旅を続けます。
二人は遠くまで行き、多くの家族を訪れ、多くのものを見、それらに祝福を与えました。病人、罪人、悩み苦しんでいる人などなど、善人にも悪人にも。そしてそれらのものは、みんな幸せになりました。
しかし幽霊にも幸せに出来ない邪悪なものがあります。それは人間の裏側に潜む怪物です。
ひとは勝手で、恐れを知らない欲望のために生きています。ひとの世界は、無知と欠乏にあふれています。そこには理性の入り込む余地はありません。世界の人口は無知ゆえに増え続けています。その結果としての欠乏があることを知りません。限られた資源と食糧を巡って戦争がおこります。難民が増大します。欠乏が増大します。この悪循環が現在の低開発地域の状況です。この結果として現れるものが「滅亡」です。世界はこの危機をどう乗り切るつもりなのでしょうか?
デイッケンズはこんな状況に警鐘を鳴らしています。まだ間に合うでしょうか?
スクルージは幽霊に訊ねます。「この子達(人間)に逃れる場所も資力もないのですか?」
幽霊は応えます。「監獄は無いのかね?」「授産場はないのかな?」
監獄は滅亡を、授産場は再生を意味している、と私は思います。
第4章 最後の幽霊
貧しくも心優しいボブ・クラチットと甥のフレッドの家庭を去ったスクルージと第2の幽霊は、さらに旅を続けます。様々な家庭を訪れ、祝福を与え幸せをもたらします。病は癒え、不幸な人は幸せになります。
第2の幽霊は去り、第3の幽霊「未来の幽霊」が現れます。黒ずくめの衣装に身を包み、決してスクルージと口を聞こうとしません。彼はスクルージを未来の世界「死後」の世界へと導いて行きます。
取引所や街中で、ある男の死が噂されています。人々は「あの悪魔」といい、「因業爺い」といい、「くたばった」とののしり、葬式の参列者もいないだろうと、陰口をたたきます。スクルージはその噂が自分であることに気づきません。自分とは無縁な人間としてそばを通り過ぎます。スクルージは自分の事務所を訪れます。何故か、そこには自分の姿はありませんでした。
更に、犯罪と汚穢と不幸に汚された、不潔、かつ危険な悪の巣窟=貧民街を二人は訪れます。その街の、ある場所で白髪の故買屋ジョー爺さんが盗品の買い付けをしていました。そこに男女の盗人が入ってきます。一人の死体から身ぐるみはぎとって、その衣装を売りに来たと云います。分捕り品の値段の交渉が始まります。「これ以上は、ぴた、一文出せないぞ」と、爺さんは、現金を配ります。浅ましい姿がそこにはありました。「あの男は、死んで初めて我々を儲けさせてくれた」と、盗人たちは笑います。
暗い空虚な家の中に、盗人たちによって身ぐるみはがされた裸の死体をスクルージは認めます。顔は黒い布で覆われているので誰かは確認できません。誰ひとり死体の世話を焼き、見守り、泣いてくれる人もいなければ、悲しがる人もいないのです。盗人たちによって身ぐるみはがされ、盗みにまかされた孤独で無残な姿がそこに、晒されていました。生前の彼の行為がもたらした当然の結果だったのです。
彼の死が貢献した唯一の事は、彼から借金をし、その取り立てに苦しめられていた一家でした。その債権が誰の手に移ろうとも、彼以上に酷い債権者はいない筈です。彼らは喜びに顔をほころばせます。
幽霊は彼を墓地にいざないます。墓碑銘は「エブニゼル・スクルージ」。そこで初めて、スクルージは無残に曝されていた死体が自分自身であると知るのです。
スクルージは自分が見せつけられた運命を変えてくれるように幽霊に懇願し、自分のこれまでの生活を一変させる事を幽霊に誓います。幽霊は、頷いたかの素振りを見せて、黙って去っていきます。
第5章 事の終わり
スクルージは最後の幽霊に導かれて、自らの死後の世界を見せつけられます。金銭欲や物欲に取りつかれた人間がどのような醜い姿をさらすことになるかを嫌となるほど知らされます。彼は最後の幽霊に頼んで、改悛し、更生することを誓います。その言葉には嘘は無かったのです。心情にあふれていました。最後の幽霊は微笑み、愛しげに彼を見つめて消えていきます。
「今までの醜い影を消して消せないことは無いのだ、消せるとも、きっと消せるとも!」。彼は行く手に横たわる「時」が自分のものであると予感し、埋め合わせの利くものであると自覚します。
それからの彼の生活は変わります。冷酷、無慈悲、エゴイストで守銭奴であった彼は、幽霊との出会いによって人間の心の温かさ、愛情の尊さに気付きます。彼は善行に生きることを誓ったのです。
彼は今まで薄給で雇い、辛い思いをさせていたボブ・クラチットに思いをはせます。クリスマスのお祝いに、匿名で七面鳥を送ることを決心します。一人の坊やを呼び多額のお駄賃を与え、買いにやらせます。
何の儲けも与えない、蔑みの対象でしかなかったクリスマスなのに、最上の晴れ着に身を包みスクルージは外に出ます。そこで昨日、寄付を求めてきた二人の紳士に出合います。断ったことを謝し、多額の寄付を申し出て紳士を驚かせます。
その後、クリスマスの招待を断った甥のフレッドの家を訪れます。「--------ご馳走になりに来たんだ、入れてくれるかい」。甥のフレッドはもちろん歓迎し、彼を受け入れます。これほど真心のこもった歓迎を彼はこれまで味わったことはありませんでした。素晴らしい宴会、素晴らしいご馳走、素晴らしい遊び、素晴らしい和気あいあいの空気が、そこにはありました。そこでスクルージはクリスマスは素晴らしさを、はじめて実感したのです。
翌日スクルージは事務所に行きます。書記のボブ・クラチットは遅れてきます。恐縮するボブ・クラチットを問題にもせず、給料を上げることを約束し、優しい上司になることを誓います。家族の援助を誓い、実際には死んでいなかったティム坊やの第二の父親になることを約束します。最後の幽霊はスクルージの運命を変えると同時に、ティム坊やの運命まで変えていたのです。
かくして、スクルージはそれ以来、彼の住む地域の、かつて無いほどの善き友となり、善き主人になり、素晴らしい人間に変身しました。ひとはその変身ぶりを笑いました。しかし彼はそんなことなど何ら気にもせず、ひたすら善行に努め、町の活性化のために尽くしたのです。
その結果、「もしも生きている人間で、クリスマスの祝い方を知っているものがいるとすれば、彼こそ、その人だ」と、いつも云われるようになったのです。
あとがき
ノブレス・オブリージュという言葉があります。「貴族の義務」と一般的には、訳されます。直訳は「高貴さは義務を強制する」です。その意味は、財産、権力、社会的地位の保持には責任を伴う、ということです。本来、この言葉は基本的には心理的な自負、自尊の精神ですが、外形的な義務と受け止めると社会的圧力と見なされます。勿論、法的義務ではないので、これを成さなかったからといって法的に処罰されることはありません。しかし、社会的、道徳的批判、指弾を受けることはあります。
日本の唯一の貴族は天皇を中心とする皇族です。彼らは幼いころから「帝王学」を学びます。ですからその日常生活は質素だといいます。その基礎には「民、百姓が飢え、苦しんでいるときに、自分達だけが贅沢をしてはならない」という基本理念があります。また、地域において災害が起こった時には、必ずその地を訪れ、慰労します。それを義務と心得ているからです。この行為がその地の人々の心をどんなに慰め、力を与えるかは、想像を絶するものがあります。これは一例です。一般的に広げて言えば、富裕者、有名人、権力者は社会的責任をもって振る舞うべきだという社会的責任論になります。特権は、それをもたない人々への義務によって釣り合いが保たれるのです。
しかしこれはあくまでも個人的なものであって社会的にみれば限界があります。特権者の特権と贅沢の隠れ蓑になってはならないのです。
この考え方を社会的にまで広げ、システム化したものが福祉国家論です。その基礎にはキリスト教的博愛と美徳の精神があります。富んだものから資金を吸収し、それを貧しい物に配分する。極端な金持ちもいなければ、極端な貧乏人もいない、平準化した社会を目指しています。一方社会主義を目指す勢力もいました。福祉国家は、基本的には資本主義社会です。しかし、資本主義社会の持つ「自由」と社会主義社会の持つ「平等」を同時に実現しようとします。しかし社会主義者は、この考えを日和見主義と批判し、キリスト教的博愛の精神と、その基礎となる資本主義を否定します。しかし最終的目的は同じです。
これらの理念の拮抗した社会が、1840年代のイギリス帝国の状況だったのです。この時代イギリス帝国の経済状態は、ようやく、その資本主義の発展が成熟期を迎え、一方には富が、他方には貧困が蓄積され激しい階級対立を生み出していました。この時代に生まれた作品が「クリスマス・キャロル」だったのです。この作品には社会主義者のように社会革命を掲げ、社会改革を遂行しようとする革命思想はありません。キリスト教的博愛と美徳の精神のもとに社会改革を試みようとする理念が、その底流に流れています。
チャールス・ディケンズ作「クリスマス・キャロル」村岡花子訳
新潮文庫 新潮社版
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