子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。(衛霊公)
先生はおっしゃった。君子は何事にも、自分自身を頼りとする。小人は、他人を頼る。
世間では、何事にも「NO」という人が多くいます。何事も「いや」。あれはだめ、これはだめ。何もかも、つまらない、くだらない。そういう人が、かなりいます。そして、こんな世界など、つまらない阿呆ばかりだからって、何もしない。
やってなんになるの? 努力してなんになるの? 馬鹿じゃないの?
上段に構えて、世間を斜めにしてみている人は、世間を馬鹿にしないと、自分をいいものにすることができないからです。努力していないから、やるべきことをやっていないから、何もない。だから、他人を馬鹿にして、自信を失わせ、他人にやらせようとする。
そういう構造が、この世界にはできています。人間などみんな阿呆だよ、くずだよ、何にもならないんだよと言って、自分を見失わせ、だからおれの言うことをききなと、巧みなレトリックで言いふくめる。そして人は、世間体とか常識とか流行とか、なんだか正体のよくわからないものに、いつの間にか、何かをやらされてしまうのです。今は、それが当たり前の世界になっている。
みなが、人を食い、人の価値を奪い、どうにもならぬ阿呆にして、自分の道具にしようとする。そして、支配できる人間の数が多いほど、えらい人間になれるというわけです。
要するに、人を阿呆にしなければ、何もないからなのです。そうでなければ、えらくなれない。それはなぜか、自分など何もならないと思っているからです。こんなものは阿呆だから、他人の力を利用するしかないと思っているのです。
だけど本当は、人間は、なんだってできるものなのです。当たり前に自分にできること、それができる。それがすばらしいことだと、わかっていないだけなのです。
一匹の蟻が、一粒の砂を運ぶ。運べるだけの砂を運ぶ。それだけで、大木のような蟻塚ができることがある。それは、一粒の砂を運べる蟻がいるからです。それがすばらしい。
ほんとうにすばらしいことができる君子は、一回に自分に運べるだけの土を運び、ただそれを続けているだけなのです。