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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

さくら

2007-06-02 13:45:47 | 画集・ウェヌスたちよ
最近は写真に凝っています。きれいな花や虫や空を撮るのがすき。絵を描くのもすきですが、写真は心が素直に出る感じがしていいですね。

ネットで、いろんな人の絵や写真を見るんですが、絵は、写真と比べると、人の心のつまらない部分が響いてることがよくあります。写真と比べて、ほとんど全部自分でやるからでしょうね。要するに、絵が、「どう、うまいでしょ?」て言ってるの。確かにうまいんですが、ちょっと苦しいなって感じてしまう。

写真は、比較的その「うまいでしょ」がない。それはたぶん、機械によるところが大きいからでしょう。写真家は、芸術家っていうより、職人ですね。だから、芸術をやるぞ!ていう気負いがなくて、いい仕事だなって感覚で見られる、好感のもてるものがたくさんあります。

近現代の芸術が、「えらい芸術家」のやるすごくすごいもの、になっているのは、見るものにたいそう息苦しさを強いる気がします。襟を正して、無理にわかるふりをして、苦しいウンチクを披露しなければならない。おれはわかるやつなんだぞっていうポーズをしなけりゃ、見ることができない。それってあんまり、楽しくない。

絵も、ルネサンスの時代は、画家というより職人でしたから、その絵からは「どうだ、うまいだろ」みたいな臭みが感じられません。職人仕事のよさが出ている。絵にそういう臭みが出てくるのは、バロックとかロココあたりでしょうか。

絵描きという仕事に、そういう俗世的ステータスの臭みを強く染みつけたのは、ラファエロあたりでしょう。ラファエロは多くの絵を残してるけれど、大方は弟子の作品かと思えるほど、作品によってタッチが違う。多くのすばらしい弟子の才能を吸い上げて、自分のステータスに利用してしまったという感じがしないでもない。すなわち彼は、アートを、あまりにも苦しいものにしてしまった。

それはもはや自由な魂の創造ではなくて、俗世的幸せを得るための技術になってしまった。これは苦しい。どんなに美しく描かれても、その奥からは、翼を縛られて狭い籠に閉じ込められた、芸術の魂の悲鳴が聞える。

わたしは、アートは、もっと自由であっていいと思う。自分が描いて楽しい。見てくれる人に、喜んでほしい。美しさを楽しんでほしい。それが本来のアートの喜びではないのかしら。

美しさを楽しむ、喜ぶ。つくる者も、見る者も。いいものはいい。ただそれだけ。

幻の賞賛やわかったような批評はいらない。つくるものとみるものの、美しい魂の響きあい。そういうのがいいと思うんですが。

あ、絵はもっとも最近の作です。少し疲れが出てますが、楽しく描けました。
楽しんでくださればうれしい。


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