世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ブラックベリ・パイのある朝食

2016-06-10 04:15:52 | 霧の風景


ウィレム・クラース・ヘダ、17世紀オランダ、バロック。

人間のいやなところばかりを見ていると気が立ってくる。少しは別のものを見よう。抑えた色調やグラスの中の透明な水を見つめているだけでも、気持ちが静まってくる。人間の活動の重苦しさに耐えかねているときは、命のないものの静けさに安らぎを感じることもある。
これは休息だ。ここでしばし心を整え、次の難題に向かうことにしよう。






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小麦畑のキリスト

2016-06-09 04:15:33 | 霧の風景


トマス・フランシス・ディクシー、19世紀イギリス、ロマン主義。

これはイギリス流の欺瞞が描かせたキリストである。美しく描いてはいるが、これはイエスではない。イエスの風体をした馬鹿である。他人から盗んだ美を着て、粗末に見える白い服をまとい、穏やかな表情を作り、それはそれは完璧にイエスに化けているのだ。人間は、イエスになりたいのだよ。なぜならイエスには罪がないからだ。馬鹿は愚かな罪を何度も犯しているから、罪を犯したことのない善良で清らかなイエスに化けたがるのだ。だが、イエスは多くの人間に憎まれ、むごたらしく殺された。しかしこの絵のイエスには、そんな受難を経験したことのある人間の悲しみが、まったく見えないのである。馬鹿はそういう苦しい試練は何も経験しないままに、イエスのように美しく崇高なるまでに偉くなりたいのだ。それが欺瞞というものである。






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チェチリア・ガッレラーニの肖像

2016-06-08 04:30:26 | 霧の風景


レオナルド・ダ・ヴィンチ、15世紀イタリア、盛期ルネサンス。

これは偽物の美人だが、画家が天使なので素晴らしい絵になっている。これは人間の美女というより天使そのものである。レオナルドはモデルを通して、自分自身を描いているのだ。暗闇の中に浮かび上がる女性は、貴族の愛人という悲しい存在だ。それは人間の中にいて自分だけが皆と違うという孤独を常に感じていたレオナルドにも通じるのである。天使は人間社会の中で生きるとき、いつもこの絵のような静謐な孤独を感じているのだ。レオナルドは庶子であった。愛しても報われない愛のために生きなければならない。そういう愛人というものの姿は、影の時代における天使の人生を、強く表現するものである。






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ルーナ

2016-06-07 04:18:05 | 霧の風景


チャールズ・エドワード・ハレ、19世紀イギリス。

これも偽物の美女であるが、顔と中身に激しい差があることを感じるであろう。性格が悪い美人というものを描いた絵の、これは典型である。20世紀が近くなると、こういう美人が増え始めた。目で見れば美しいが、何となく嫌な感じがするという美女がたくさん出てきたのだ。人間の勉強の進み方に、大きな格差が出てきたからだ。進んだ者は大いに進んだが、勉強をしてこなかった者は大変なことになった。現代もこういう美女は非常に多い。だが、人類の魂の進化を目前にしたこの時代、こういう美女は崩壊の危機にある。正体がばれてきたのだ。もうすぐ、どんなにがんばってもこういう女は美女には見えなくなる。人間の心が成長し、中身を見ることができるようになるからだ。そうなれば、悪魔の世界はもう終わりだ。こういう偽物の美女が、美しく見えていたからこそ、嘘が世界にまかり通っていたからである。






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ニコライ・リムスキー・コルサコフの肖像

2016-06-06 04:12:39 | 霧の風景


ヴァレンティン・アレクサンドロヴィチ・セローフ、19世紀ロシア、印象派。

こうした北方的父性をよく描くロシアの絵画は、わたしの好むところであるが、今回語りたいのはそのことではない。
古代ギリシャの時代は、男は平気で裸で表を歩いていた。男の裸体がそれは美しいものであったからだ。だが時代が進むと、男は衣服に身を包み、滅多に裸体を見せなくなる。だんだんと醜くなってきたからだ。男は暴虐をなしあらゆる罪を重ねた結果、恐ろしく滑稽な姿になってきたのである。それを補うために、衣服のデザインが進化した。男は様々な装身具を身につけ、体臭をごまかすために香水もつけるようになった。近現代の男が着るスーツというものは、そういう男のファッションが最も進化したものである。そのデザインと機能性は、絶妙に美しい男の姿を完璧に表現している。それを着れば、どんな男も美しく見えるというものなのである。だがそういうものを是非とも必要としているということは、男にとって非常に悲しいことだと言える。真実の男というものは、どんな服を着ていても美しく見えるものだからだ。






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悲劇の詩神としてのシドンズ夫人

2016-06-05 04:23:16 | 霧の風景


ジョシュア・レイノルズ、18世紀イギリス、ロココ。

イギリス絵画には、こういう欺瞞を許すという伝統がある。シドンズ夫人がどういう女性であるか知らないが、この程度で詩神、ミューズを名乗ることを恥ずかしいと思わないことが恥ずかしい。レイノルズは、嘘で作った人間の表面的価値を、重要なものとして高い技術で画面に表現するが、それは芸術家としては根本的な矛盾をはらむ苦しい仕事だ。ゆえに彼の作品自体が、欺瞞に満ちた微妙なものになる。美しく見えるだけに、それは見る者の心を苦しめる。こうしたイギリス絵画の世界は、やがてオランピアを描いたマネの出現によって、一気に色あせるのである。






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干し草車

2016-06-04 04:20:18 | 霧の風景


ジョン・カンスタブル、19世紀イギリス、ロマン主義。

美しい風景だ。これはかのじょの好みである。静かに横たわる銀の川、みずみずしい緑、思いを吸い上げてくれるような高い空。かのじょはよく緑の中にいた。人間よりも植物の方が好きだったからだ。人間に近寄ると、立ち上ってくる情念の煙が苦手だった。だからいつも、人から離れて森や草原の中にいた。空を見上げては、いつか帰れる自分の本当の故郷を思っていた。だが、自分にはここでしなければならないことがある。その思いがかのじょをこの世界に引き留めていた。しかしもうその使命も終わった。かのじょは解放されたのだ。もう二度と人間の世界に戻って来なくていい。この風景は、そんなかのじょにとって、地球世界での思い出を語る、一つの形見となるだろう。






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聖カタリナの神秘の結婚

2016-06-03 04:19:47 | 霧の風景


コレッジョ、16世紀イタリア、マニエリスム。

アレクサンドリアの知事の娘であったカタリナは、母に導かれてキリスト教に改宗して間もなく、聖母マリアに抱かれた幼子イエスと結婚する幻を見たという。この伝説をテーマにした絵画は多い。これもその一つである。
カタリナとイエスの結婚を後ろから見ている男の聖人は、矢を持っていることからして聖セバスティアヌスらしいが、そのほほえみは微妙に硬い。女が男以外のものと結婚するのをよく思わない男の痛い本音が見える。画家も男であるから、自分の心をごまかし切ることができなかったのだろう。
カタリナは異教の賢人を次々と論破し、多くの異教徒を改宗させ、当時のローマ皇帝の求婚も断ったため、捕えられて処刑されたという。昔から男は、自分の思い通りにならない女を、いろいろな手を使って殺してきたのである。カタリナの伝説は、そのような多くの事実を吸い取ったものであろう。






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ベルムーデス夫人の肖像

2016-06-02 04:11:05 | 霧の風景


フランシスコ・デ・ゴヤ、18世紀スペイン、ロマン主義。

華やかな帽子やドレスや、自分を大きく見せる髪形などが、少々ちぐはぐに見えるのは、本人の目が強いからだ。自分をよく見せる必要などないのに、よく見せようとしているからである。眼光と風貌があっているので、本物の女性だが、当時の閉鎖的社会の中で、個性のすり減ってしまった魂の姿が見える。この女性は自分を生かすために自分を殺さざるを得ないのだ。派手なドレスや髪形は、それがないと自分に耐えられない人間なのだという、人間への侮辱でもある。馬鹿が支配する厳しい社会の中を生きる、本当の人間の一つの姿であると言える。






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月への旅

2016-06-01 04:20:13 | 霧の風景


ギュスターヴ・ドレ、19世紀フランス、ロマン主義。

ドレは第一級の挿絵画家であるが、この絵は愚である。行き過ぎたファンタジーだ。宇宙開発は人類の叡智のなせる業ではなく、あまりにも滑稽な馬鹿なのである。ボイジャーもキュリオシティもはやぶさも、大枚の金をかけてやった人類の大恥なのだ。それは究極の神を侮辱したことになるのである。人類はいつか、ボイジャーが神の領域を侵したように、遠い宇宙から訪問者を受け入れることになるだろう。それを見たとき、人類は、かつて自分たちが、浅はかな知恵で一体何をしたのかを、ようやく思い知ることになるだろう。






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