ちょっとしたことがあって、昔のことを思い出しました。
長男がまだ3歳のころ、私は大学卒業後8年間勤めた大阪の研究所をやめて、山口大学に赴任していた夫がすむ山口市へ転居しましたが、これからもなにかしら仕事はやりたいなあと思っていました。やめるまでに学位もとっていたし、技術職でもいいしと思っていましたが、山口には仕事は全然ありませんでした。それで、科学論文の翻訳をやったり、山口大学で非常勤講師をしながら、農学部の動物衛生の研究室で研究生をさせていただいていました。あのころは仕事をやめるということにさほど大きな決意が必要だったわけではなく、なにか新しい生活が待ってるという思いで楽しく山口へ越しましたが、ちょうどポスドク一万人計画が起こったころで、夫は楽観的に「けっこう高い確率でポスドクに採用される可能性がある」とかなんとか言っていて、わたしも無邪気に期待して応募したのですが、そのころ私はすでに32歳になっており、しかも次男を妊娠中で、客観的に考えればかなり無謀な挑戦だったなあと思います。案の定、不採択になりましたが、その知らせを受け取ったのは次男を出産した病院であったような覚えがあります。
そのころ学振のポスドクの年齢制限は32歳だったので、それはわたしにとって最後のチャンスで、でも不採択だからといってさほど落ち込んだわけではありませんでした。なんせ子育て真っ最中で、それどころではなかったし、あくまで楽観的な私はまだまだなにかできるだろうと高をくくっていたのでした。ところが、ちょうどその年、獣医系や医学系はPDの年齢制限を2年延ばす、という決定がなされました。こりゃ私のために年齢制限が延びたなと思った私は、翌年再度応募することにしました。今も忘れませんが、締め切り間際の5月、次男がはしかにかかり、おんぶして大学に行っての作業になり、それはもう大変な修羅場でした。周りの先生にも相当あきれられたことと思いますが、指導教員であった岩田先生が研究計画をがっちり作ってくださり、その年採用になりました。
学振のポスドクは毎月かなりの額の生活費をもらえます。さらに、科研費もいただけます。
おまけに、3年の任期中に、半分までは海外で研究することも許されており、その際に科研費を持って行くこともできました。この恵まれた立場を生かして、1999年、夫が文科省の在外研究で海外に出るのに合わせてわたしも渡米しました。
学振終了後はアメリカでポスドクを続けないかと声をかけてもらい、そのままアメリカの大学で研究に没頭し、2005年に今の大学に赴任することが決まって帰国しました。今、わたしが大学教員をやれているのは、あのとき年齢制限が延びて、学振に採用してもらったからです。そうでなければ、今頃わたしは家庭の主婦か、パートの研究補助員か、とにかく常勤職はとれていなかったのは確実です。学振はポスドク終了後に定期的に「その後の進路調査」を行っており、わたしはそのアンケートがくるたびに「今の私があるのは、あのときPDに採用してもらったからこそです。」と書いています。ほんとに毎回書いてると思います。学振のPDに採用されたことが、その後のわたしの人生を決めました。
あの頃わたしはまだ自分で研究計画を書くこともできないし、自力で論文を通すこともできない半人前でした。将来、大学の先生になれると思ったこともなく、ただ研究は楽しいからずうっとこういう仕事ができたらいいなあと漠然と考えていたにすぎません。思い返しても考えが甘くて実力もない能力もない、しかも子持ちで長時間労働もできない、足りないだらけの人材であったと思うのに、不思議な縁でPDに選んでいただいて、今のわたしがあるのです。
時代はかわって、すでにポスドク一万人計画はとん挫し、研究者としての人生を選ぶことは以前よりずっと大きな決断になってると思うんですが、そういう中でもこの学振のPDは、次のステップに進むために強力な踏切板になることは間違いないと思います。
長男がまだ3歳のころ、私は大学卒業後8年間勤めた大阪の研究所をやめて、山口大学に赴任していた夫がすむ山口市へ転居しましたが、これからもなにかしら仕事はやりたいなあと思っていました。やめるまでに学位もとっていたし、技術職でもいいしと思っていましたが、山口には仕事は全然ありませんでした。それで、科学論文の翻訳をやったり、山口大学で非常勤講師をしながら、農学部の動物衛生の研究室で研究生をさせていただいていました。あのころは仕事をやめるということにさほど大きな決意が必要だったわけではなく、なにか新しい生活が待ってるという思いで楽しく山口へ越しましたが、ちょうどポスドク一万人計画が起こったころで、夫は楽観的に「けっこう高い確率でポスドクに採用される可能性がある」とかなんとか言っていて、わたしも無邪気に期待して応募したのですが、そのころ私はすでに32歳になっており、しかも次男を妊娠中で、客観的に考えればかなり無謀な挑戦だったなあと思います。案の定、不採択になりましたが、その知らせを受け取ったのは次男を出産した病院であったような覚えがあります。
そのころ学振のポスドクの年齢制限は32歳だったので、それはわたしにとって最後のチャンスで、でも不採択だからといってさほど落ち込んだわけではありませんでした。なんせ子育て真っ最中で、それどころではなかったし、あくまで楽観的な私はまだまだなにかできるだろうと高をくくっていたのでした。ところが、ちょうどその年、獣医系や医学系はPDの年齢制限を2年延ばす、という決定がなされました。こりゃ私のために年齢制限が延びたなと思った私は、翌年再度応募することにしました。今も忘れませんが、締め切り間際の5月、次男がはしかにかかり、おんぶして大学に行っての作業になり、それはもう大変な修羅場でした。周りの先生にも相当あきれられたことと思いますが、指導教員であった岩田先生が研究計画をがっちり作ってくださり、その年採用になりました。
学振のポスドクは毎月かなりの額の生活費をもらえます。さらに、科研費もいただけます。
おまけに、3年の任期中に、半分までは海外で研究することも許されており、その際に科研費を持って行くこともできました。この恵まれた立場を生かして、1999年、夫が文科省の在外研究で海外に出るのに合わせてわたしも渡米しました。
学振終了後はアメリカでポスドクを続けないかと声をかけてもらい、そのままアメリカの大学で研究に没頭し、2005年に今の大学に赴任することが決まって帰国しました。今、わたしが大学教員をやれているのは、あのとき年齢制限が延びて、学振に採用してもらったからです。そうでなければ、今頃わたしは家庭の主婦か、パートの研究補助員か、とにかく常勤職はとれていなかったのは確実です。学振はポスドク終了後に定期的に「その後の進路調査」を行っており、わたしはそのアンケートがくるたびに「今の私があるのは、あのときPDに採用してもらったからこそです。」と書いています。ほんとに毎回書いてると思います。学振のPDに採用されたことが、その後のわたしの人生を決めました。
あの頃わたしはまだ自分で研究計画を書くこともできないし、自力で論文を通すこともできない半人前でした。将来、大学の先生になれると思ったこともなく、ただ研究は楽しいからずうっとこういう仕事ができたらいいなあと漠然と考えていたにすぎません。思い返しても考えが甘くて実力もない能力もない、しかも子持ちで長時間労働もできない、足りないだらけの人材であったと思うのに、不思議な縁でPDに選んでいただいて、今のわたしがあるのです。
時代はかわって、すでにポスドク一万人計画はとん挫し、研究者としての人生を選ぶことは以前よりずっと大きな決断になってると思うんですが、そういう中でもこの学振のPDは、次のステップに進むために強力な踏切板になることは間違いないと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます