(新嘗祭、Wikipedia より。)
「儀式」については文化人類学や社会学、宗教学などの分野で多くの知見があるだろう。それらについて、私は知識がないが、私なりに分類してみると大雑把に次の3つがある。
(1)集団の構成員が対人関係を取り結ぶ場合、各自自由に創造的にやっていてはロスが多くなるだろう。そこで、対人関係のマニュアル化が図られた。それが、儀式がもつ一つの機能ではあるまいか?葬式がその例である。
(2)いわゆる通過儀礼というものである。成人式(元服)や結婚式がそれである。何らかの形で、どんな民族でもこれらの儀式をもっている。儀式以前と儀式以後が違うという節目を集団構成員に知らしめるイベントである。
(3)儀式のための儀式。儀式そのものが目的化している儀式である。いきおい儀式は複雑になる。江戸幕府の将軍就任の儀式は、庶民や他の大名への権威づけという意味があっただろうが、とにかく複雑だったらしい。
バラモン教の儀式は、子どものころから訓練しないと覚えきれないほど複雑だったという。儀式の専門職がバラモンで、儀式自体をなりわいとしていた。
儀式は冷めた人から見ると、しばしば滑稽である。むかし、伊丹十三が監督した「お葬式」という映画(私は未見)があったが、葬式を戯画化した作品ではあるまいか?
数年前は「荒れる成人式」というのがあった。あれは成人式がかしこまった世界だから荒れたのであって、もともと枠のない自由な集会だったら荒らす必要性がなかった。
こうして儀式は現在、しばしば「反抗」の対象となったが、儀式を軽んじると所属する集団の存立が危うくなることに注意しなくてはならない。儀式は一見無駄に見えても、ほんとうは共同体の自己保存に不可欠な行為だと私は見ている。だから抹香臭いと感じても、あなどらずに合わせなくてはならないのだ。
(この記事と昨日の記事に類似性を見いだされたかたは私とセンスが似ている。決まりきったことと、それに対する反発のダイナミズムが、歴史とか人生といったものをを織りなしていくのではあるまいか?)