院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

サンドイッチ

2007-01-15 12:43:49 | Weblog
 手軽なのでサンドイッチをよく買う。でも、中に困ったサンドイッチがある。

 その第一は、パンの端までバターが塗ってないものである。最後は何も付いていないパンだけを食べさせられることになる。これはバターをけちっているのではなく、仕事が雑なだけだろう。

 第二は、コンビニのサンドイッチに多いのだが、具の種類が多すぎるのがある。同じパンの中に玉子やらハムやら、いっぺんに詰め込んである。サンドイッチはいろんな種類を楽しめるからよいのであって、いっぺんに詰め込むのは、寿司で言えば一個の寿司の上にマグロや玉子やイカがいっぺんに乗っているのと同じことである。

 大事な食べ物なのだから、もっと心を込めて、工夫して作って欲しい。

書斎と書庫

2007-01-14 11:57:16 | Weblog
 私は書斎をもっている。4畳半の和室である。こういう部屋を確保するのは私の長年の夢だった。10年前に一戸建てを新築し、そのとき書斎を造った。それまでは書き物は台所のテーブルなどでやっていた。

 書斎の効能はすごい。和室だから横になれる。一人で居たいときには書斎に篭ってしまえばよい。精神衛生上、健やかになれることこの上ない。

 だが、書き物の多い人でも書斎をもっている人は少ないだろう。それは都市の住宅事情によるところが大きい。マンションで書斎があるという物件は少ないだろう。

 ただ、私の書斎はIT機器で満ち満ちている。パソコンで文章を書き、依頼者に添付ファイルで送る時代になってしまったからである。

 書斎に蔵書を置くべきではない。蔵書は場所を取り過ぎる。だから、私は別に書庫を造った。これも4畳半ほどだが、書架を移動式にすれば、その空間全体に天井まで書物を詰め込める。移動式の書架に100万円ほどかかった。でも高いと思わない。家の中が本だらけにならないですんでいるのは、この書庫のおかげである。

 書き物の好きな人、あるいは仕事にしている人には、ぜひ書斎と書庫を造ることをお薦めしたい。クオリティーオブライフが格段に上がります。

能の囃子

2007-01-13 15:25:57 | Weblog
 モダンジャズはクラシックより優れている。それは、モダンジャズがクラシックでは使わない音や和声を使うからである。クラシックをモダンジャズ化することはできるが、その逆はできない。

 ただリズムにおいては、モダンジャズより能の囃子のほうが優れている。モダンジャズは基本的に4拍子か8拍子で、3拍子や16拍子のこともあるけれども、途中で拍子が無茶苦茶のようになることはない。

 ところが能の囃子は(無茶苦茶ではないのだが)8拍子と7拍子が混在して演奏される。そこに4拍子が混じる。それが能特有のリズム感を生み出している。これはモダンジャズには真似のできないことである。

 能の囃子でも「大乗り」と言って、囃子のテンポが速く演奏が佳境に入ってくる部分がある。ここはすべて8拍子となる。そのような部分だけ、モダンジャズとの共演が可能となる。

イベリコ豚

2007-01-12 13:34:48 | Weblog
 このごろイベリコ豚という言葉をよく耳にする。先日、食べる機会があった。

 とてもおいしかった。豚肉とは思えない。柔らかくて香りがよくて、上等の牛肉かおまけだった。

 そのときはすき焼きで食べたのだが、イベリコ豚のステーキというメニューもあった。すき焼きだと味を付けてしまうが、ステーキだったら素の味が分かるだろう。

 食べた場所は東京である。愛知県の端っこではまだイベリコ豚を扱う店はない。早く当地でも手に入るようになってほしい。

 あるアイドルタレントが「豚が食べられないから生ハムも食べられない」と言っていた。でも、そのアイドルはイベリコ豚の生ハムなら食べられるのだという。小娘のくせに生意気にも舌が肥えているなと思った。

 そのアイドルが言うまで、私はイベリコ豚に生ハムがあることを知らなかったし、むろん食べたこともない。残念である。

交代勤務

2007-01-11 13:09:55 | Weblog
 工場には昼勤と夜勤がある。これは機械を遊ばせないためである。

 一週間ごとに昼勤と夜勤が交代になる工場もある。

 睡眠時間はちゃんと取らせているぞと言っても、それは理屈である。

 一週間昼勤で慣れてきたころには夜勤になる。当然、常に時差ぼけのような状態に置かれる。

 このような、動物でもしないような睡眠の取らせ方をするのは酷である。なぜかこれに対して誰も文句を言わない。だから私が言っておく。

民主主義の限界

2007-01-10 13:25:07 | Weblog
 民主主義は人事システムとして最悪のものである。

 どこに幹部を民主的に選ぶ会社があろうか。そんな会社は即座に潰れるだろう。

 映画スターやスポーツ選手が政治家になる。これが民主主義の宿命である。ある程度、成熟した国なら、そのような者が一部に混じっていてもよい。中和されてしまうからよい。

 フィリピンのエストラーダ元大統領を見よ。フィリピンは直接選挙で大統領を選ぶにはまだ成熟していなかったのである。

 民主化すると国が弱体化する。独裁主義にかなわない。だからアメリカは他国の弱体化を狙って民主主義を輸出しようとしているのではないか。

 独裁主義は必ずしも悪ではない。江戸時代300年の太平は、独裁主義によって実現した。世界の国々を見ても、独裁国が多い。民主国は一部の先進国だけである。

 チャーチルが言っていた。「民主主義は最悪の制度である。でも、それ以上の制度が見つからない」と。

古酒

2007-01-09 13:18:06 | Weblog
 ワインやウイスキーは長く寝かせるほどよい酒になると言われている。本当だろうか?

 日本酒は長く置くと酢になってしまう。でも、先日、日本酒の古酒というのを飲んだ。10年くらい寝かせたらしい。

 正直言っておいしくなかった。なにか紹興酒のようで、妙な味だった。日本酒は長く置くと酢になるのに、なぜ古酒は酢にならないのだろうか?

 古酒には20年もの、30年ものといったのもあるらしい。ワインも古いほどよいとされるが、やっぱり飲み頃というのがあるのではないか。確かに熟成の浅いワインは味わいがない。かといって古ければ古いほどよいということにはならない。

 ウイスキーもそうである。古いということは、おいしさではなく、珍しさというだけのことではなかろうか。

バイオリンと鼓

2007-01-08 12:52:51 | Weblog
 私は中学のときから管楽器をやっていた。だから管楽器の音の良し悪しは今でも分かる。

 ただ、バイオリンの音の良し悪しが分からない。ノコギリを引くような子供の音が悪いのは分かるが、一定線以上の技量の人の音の良し悪しは分からない。みんな良いように聞こえる。

 バイオリンは古い楽器ほど良い音が出ると言われている。楽器が成熟するというのである。ふつう、何でも古くなると劣化する。バイオリンだけが例外なのだろうか?

 鼓も古いほど良いという。古い鼓は値段も古いバイオリンに劣らない。

 それに引き換え、管楽器は消耗品である。古くなるほど音も音程も悪くなる。10年ももたない。

 なぜ、バイオリンと鼓は良くなるのだろうか?私はバイオリンも鼓も悪くなると考えるものである。ただ、楽器の音色は「嗜好品」であるから、だれか権威者が良いと言えば良いことになるのではなかろうか?

 バイオリンと鼓が古いほど良いとすれば、それは骨董的価値であって、いわゆる「味」とか「風合い」という部類に属するものであり、音色そのものではないような気がする。

手話の限界

2007-01-06 13:57:49 | Weblog
 昔、聾の青年が手話通訳者を伴って、患者さんとして来院した。

 普通の言葉で普通の問診をしたが、これを手話通訳してもらっても、ほとんど通じないことに驚いた。

 仕方がないので筆談で問診したら、時間はかかったがこれは通じた。

 手話というものは、「今日は天気が悪い」とか「総理大臣には○○氏が選ばれた」など、ほとんど分かりきったことしか伝えられないのではないか。

 そうでなければ、手話通訳の人がよっぽど下手だったのか?聾学校で手話を教えない理由が分かったような気がした。

バイリンガルは才能

2007-01-05 13:20:54 | Weblog
 日本と外国で長く暮らすと、誰でもバイリンガルになれると思っている人が多い。

 そのため、わざわざ子弟を外国に出す親がいる。しかし、バイリンガルになれるのは、そのうちのごくわずかである。

 ある英語学者が言っていたが、外国で長く暮らして、その国の言葉が自由になると、今度は日本語を忘れる人が大多数なのだそうだ。

 バイリンガルになるには特別な才能が必要らしい。身近な外国経験者を見ていると、目算だが、バイリンガルになれる人は7%くらいである。

 あとの93%は、外国語が得意になれば日本語を忘れ、バイリンガルにはなれないと思う。同じようなことが、絵の才能や、音楽の才能、また碁将棋の才能にも言える。 

英会話

2007-01-04 13:43:29 | Weblog
 英会話がブームである。ちょっと大きな駅前なら必ず英会話学校がある。

 でも、英会話なんてそんなに使わない。道を聞く程度の英会話なら、大枚を払って習う必要もない。

 そもそも日本語でさえ言うべきことを持たない人が、英語で言うことなぞあるのだろうか?

 フィリピンパブのホステスは「お酒おかわりする?」「カラオケはなに歌う?」程度の日本語が話せる。でも、話がちょっとでも込み入るともうダメである。

 その程度の日本語力の人が患者さんとして来院すると、とても困る。なにせ心療内科はレントゲンや血液検査をするわけではなく、すべて言葉で診断する。

 「最近、気分が落ち込んで、何もしたくありませんか?」といった基本的な問診が通じない。お手上げである。英会話学校に行っている人も、この質問に英語で答えることはできないだろう。

年賀状

2007-01-03 13:44:13 | Weblog
 年賀状は生存証明であると、先日書いた。

 印刷の年賀状は心がこもっていないとか、手書きの温もりがほしいとかいうけれども、生存証明に手書きも印刷もない。ただ、必要な情報が来ればよいのだ。電話番号は必ず書かねばならないとも、先日書いた。

 今年、元日に届いた年賀状は、私が出した半分ほどだった。年賀状は元日に届くのが嬉しい。郵便局もそのように努力している。年賀状を出す側は、元日に届くように努力してほしい。2日以降にパラパラと来ると嬉しさも半減である。

 でも、生存証明なのだから、来るだけでもよい。まったく来ないのは、生存していないものと私はみなす。

 来年から年賀状を廃止しますという年賀状を2通もらった。しかし、年賀状は虚礼ではない。書くのが面倒なのだろう。年賀状の意味を取り違えているとしか思えない。年に一度の交流を廃止するというのは、もうさようならということだ。

 年賀状は必ず出すべきだと思う。それが人の道だ。年末が忙しくて、それどころではないという人は、毎年、知り合いを失うだろう。それでよければ、そうするがよい。ただし、寂しい老後になって、年賀状を再開してももう遅いということを覚悟してほしい。