院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

新聞とTVの時代終わる

2007-09-14 13:14:17 | Weblog
 つい先ごろまで「最近TVや新聞が面白くありませんか?」、「見ても頭に入りませんか?」というのが、うつ病診断のときの決まり文句だった。

 ところが最近、「TVも新聞ももともと見ないんです」と答える人が増えてきて、上の決まり文句が使えなくなってしまった。

 言われてみれば、最近のTVは面白くない。昔はNHKの大河ドラマなんて、面白くて面白くて次週が待ち遠しいほどだったが、このごろの大河ドラマはそもそも意味が分からない。かと言って他のチャンネルは、お笑いタレントが大騒ぎしているようなバカ番組ばかりである。

 TVもとうとう視聴者に見放されてきたようだ。

 新聞がつまらないことは、再三この欄で書いたけれども、的外れな論説や、特定の外国の肩を持つ記事ばかりで、有料で読むに値しない。

 ちょっと旅行をしただけで、郵便受けに新聞紙が束になって詰め込んであるのも気に入らない。私は新聞の宅配を止めてから10年になるが、精神衛生上良いことこの上ない。お金もだいぶ得をした。この10年で浮いた新聞代は40万円ほどになる。けっこうな金額である。

 もう新聞とTVの時代は終わった。インターネットにもそろそろ飽き始めている。

全国各地の専門店

2007-09-13 11:55:28 | Weblog
 東京・新宿に化石の専門店を見つけた。

 化石を売買するだけで商売になるなんて、東京でしか考えられない。化石愛好家が集まるのだろう。やっぱり東京の集客力はすごい。

 化石専門店なんて、東京でしか不可能だろう。やっぱり、東京は日本の中心である。

 静岡県・湖西に和太鼓専門店がある。ここは東京でないことがすばらしい。きっと固定客がいるに違いない。太鼓を買うならここと決めている人たちがいるから、商売が成り立つのだろう。

 東京に和太鼓専門店があるのかどうか、私は知らない。古典芸能に関する品々は、必ずしも東京がメッカではないようだ。

 東京には蜂蜜を何百種類も集めた蜂蜜専門店がある。ストラデバリウスを扱っているバイオリン専門店も東京にしかないだろう。

 でも、各地にその地に独特な専門店がある。お香の専門店は京都や高山にある。

 東京でなくても成立するような専門店が各地に欲しいと思っている。眼鏡なら鯖江市であるが、多くは東京へ出荷される。

 東京に出荷しない専門店は貴重である。北海道、六か亭のバーターサンドは北海道外に出さない。問題のあった「白い恋人」もそうだった。

 東京でしか商売にならない専門店は、いらない。そこに行かなければ買えないという専門店が全国各地にほしいと思っている。

整備新幹線構想

2007-09-12 07:50:24 | Weblog
 この夏、北海道道東を妻とレンタカーで走った。

 観光地を避けたので、人も車もほどんどいなかった。緑の草原や林がずっと続いていた。

 家の少なさに驚いた。ほとんど手付かずの自然が北海道には残っているのだ。

 この地を開発すれば、本州の大都市に人口が集中しないですむとも思ったが、私たちが旅行したのは真夏であり、冬は全部、雪に覆われてしまうのだろう。だから、都市ができないのだろうと想像した。

 それなのに東京の喧騒はどうだ。ものすごい人口密集である。昔は東京はこうではなかった。銀座にも表参道にも原っぱがあった。

 ここまで人口を集約して、経済効率を上げるべきなのか疑問に思う。

 わけあって東京に微小な土地を買った。坪330万円。突拍子もない価格である。

 山陰などにも北海道のように広々とした土地はあるだろう。人口を分散して、高速鉄道網で結んだらどうか?

 だから、私は整備新幹線構想に賛成である。

パラフィン鍋

2007-09-11 13:11:00 | Weblog
 安い旅館に行くと、夕飯が口取りから天ぷらまですでに全部出ていることがある。当然さめた天ぷらを食べさせられることになる。

 値段が値段だから、タイミングよく熱い料理を順々に出すことなぞできないのだろう。それはまあ仕方がない。

 でも、あの七輪のような陶器にパラフィンが入っていて、小さな鍋をかける料理は何なのだ。前に言ったかもしれないが、「煮る」というのは料理の中でも難しい技である。それを客とパラフィンに任せてしまうのはどうかしている。

 全部さめた料理では申し訳ないから、あのような姑息な鍋でごまかしているとしか思えない。

 ちゃんとした料亭なら、パラフィン鍋は絶対に出てこない。旅行で旅館に泊まるたびに、パラフィン鍋に遭遇して嘆息する私である。

妊婦たらい回し事件

2007-09-10 11:55:17 | Weblog
 名コラムニスト故山本夏彦氏は「一言で言え」が口癖だった。どんなことでも本質が分かっていれば一言で言える。書いても3行で書けると言った。

 2.26事件に関する書籍はたくさんある。ぜんぶ合わせれば何万ページにもなるだろう。でも、2.26事件がなぜ起こったのかについては、一言で言えると夏彦氏は言う。
それは・・・

  「蔵相(政府)が軍の予算を削ったから」

というものである。

 このほど奈良で「妊婦たらい回し事件」が起きた。その原因として、産婦人科医が少ないとか、病院と消防の連携の不備とかが指摘されているけれども、本質はそんなところにはない。

 なぜ、「妊婦たらい回し事件」が起きたかを、一言で言うと・・・

  「政府が医療費を削ったから」

である。

 医療費削減により、いま公立病院はほとんど赤字である。どこでもいつでも医者にかかれて、最善の医療を施される国は日本しかない。それなのに、医療費を削減する。だから、これまでどおりの医療が受けられなくなるのである。

 医療費30兆円を高いと思うか?私は安いと思う。パチンコ産業という狭い世界を見ても30兆円である。

 これ以上、医療費を削ると、思わぬところに犠牲者が出てくるだろう。

ディナーショウ

2007-09-09 10:29:23 | Weblog
 少し前、辺見マリのディナーショウに行った。辺見マリは元アイドルで、すでにオバさんになっていたけれども、十分美人だった。

 料金は分からない。キップをもらって行ったからである。でも、お一人様3万円くらいだろう。

 私はディナーショウというのは、食べながら鑑賞するものだと思っていた。しかし、現実は食べ終わってから鑑賞するというシステムになっていた。

 席が相席なのも気になった。妻と二人で行ったのだが、二人で一席なのではなく、別のカップルが同席だった。

 辺見マリは出し惜しみせず、最初から「やめて」を歌った。それは、良かった。ディナーショウは自前のバックバンドを連れてくる。辺見マリの場合、バックバンドがとても下手だった。そこらへんの学生バンドより下手だった。

 こんな演奏なら、食事が終わってから聞くまでもなく、食べながら聞くレベルである。

 ディナーショウはつまらない。もう二度と行く気はない。

 ディナーショウで、今一番高いのは松田聖子だそうである。だいたい一回4万円である。食べながら聞くのならまだよいが、食べ終わってからショウというのが気に食わない。

 芸人は出自が河原こじきである。芸術家ではない。だから、演奏までに食事を終わらせろというのは傲慢である。

 これからクリスマスシーズンになると、あちらこちらでディナーショウが行われる。私は、いっさい行く気がない。

語尾上げ言葉

2007-09-08 14:15:10 | Weblog
 語尾上げ言葉に遭遇したのは、10年ほど前、愛知県の女性においてだった。「それが?こうして?ああして?」と疑問型のようにいちいち語尾を上げるので、妙な話し方をする人だなぁと思った。

 その後、またたく間に語尾上げ言葉は広まって、いまや全国区ではないか?言葉にはうるさいはずの親友も、知らないうちに語尾上げ言葉を使ってしまう。

 言葉の変遷の速さを、この10年で思い知った。書き言葉でも、すでに戦前のものは分かりにくい。江戸時代の書き言葉になると、もっと分からない。このように言葉は生き物のように変わっていく宿命にあるようだ。

 実は私たちの話し言葉も父母世代とは違っている。祖父母世代だともっと違う。

 戦前に東大に留学していた台湾人の大先生がいる。その先生が来日して、親しくお話する機会があった。その先生の言葉に驚いた。日本語がぺらぺらであるのはもちろん、話すイントネーションや雰囲気が祖父母のものと同じなのである。

 大先生は祖父母の言葉を覚えて台湾に帰り、何十年ぶりに来日したので、ロビンソンクルーソーのように、当時の言葉をそのまま保存していたのだった。

 まさに生きた化石に出会ったような思いだった。

「全然」と「全く」

2007-09-07 11:44:30 | Weblog
 小学校で「全然」は否定のときにしか用いないと教わった。つまり、「全然おいしくない」などである。それが最近「全然おいしい」なぞと使用されるようになり、違和感を覚えると多くの人が言っている。

 私も違和感を覚える。それなら、ほとんど同じ意味の「全く」はどうだろうか?「全くおいしい」には違和感がない。

 「全くおいしくない」にも違和感がない。「全然」と「全く」は意味が同じなのに、違和感を感じたり感じなかったりするのはなぜだろうか?

 慣用というだけで済ませられるだろうか?それとも、なにか特別な意味があるのだろうか?漢語学者なら知っているかもしれない。

利をもって誘え

2007-09-06 11:53:29 | Weblog
 「利をもって誘え」というのは名コラムニスト故山本夏彦氏の言葉である。

 役所が予算を使い切る風習を止めさせたければ、予算を浮かせた分だけ役人にボーナスを出せと氏は言う。そうすれば、予算はまたたく間に減少するだろう。

 人間は利で動く。いや、ボランティアという存在があるという意見も出てこよう。しかし、ボランティアにも世の尊敬という利がある。

 およそ人は利で動く。利がなければ動かない。ホリエモンは金で買えないものはないと言って顰蹙を買ったけれども、真実を言っているのではないか?金で買えないものを探すほうがよほど難しい。異性の愛情さえ金で買えるのではなかろうか?

 「利をもって誘え」というのは、けだし名言である。

シュタイナー教育

2007-09-05 08:06:51 | Weblog
 シュタイナー教育はドイツで発祥して、現在、世界各地で行われている教育法である。

 シュタイナー教育は知育をしない。お遊戯(オイリュトミー)やお絵描きによって、子供の力を伸ばしていく方法である。

 タレントの黒柳徹子さんもシュタイナー教育で育った。ややハミ出した子供だった黒柳さんはシュタイナー教育で救われたと、ベストセラー『窓際のトットちゃん』にある。

 私の子供は、二人ともシュタイナー教育の保育園に行った。私がシュタイナー教育を求めていたわけでなく、たまたま入った保育園がシュタイナー教育を採用していただけである。

 娘は踊り(オイリュトミー)が好きで、シュタイナー教育に適応した。しかし、息子は私と同じで、オイリュトミーがどうしてもイヤで、真面目にやろうとしなかった。

 ドイツから来たシュタイナー教育の専門家に、この子(息子)はちょっと問題があると指摘された。

 なにをバカなことを。私を初め、踊り(オイリュトミー)なんて恥ずかしくてできないという子は一定の%で必ずいるのだ。それができないから問題だとは、シュタイナー教育も随分、狭量になったものだと思った。

 シュタイナー教育は、問題児をあぶり出さない技法ではなかったのか?

 でも、全体的に見てシュタイナー教育には見所がある。私の息子はシュタイナー教育でなければ、もっと問題児として強いレッテルを貼られていたかもしれない。

お歌、お遊戯

2007-09-04 13:49:50 | Weblog
 幼いころから私は人前で歌ったり踊ったりするのが苦手だった。

 恥ずかしいのを通り越して、自己嫌悪さえ感じたものだ。

 幼稚園のいわゆる「お遊戯」で、楽しそうに踊る女の子が不思議に見えた。小学校のときには、同級生の女の子がとても上手に歌を歌うので驚いた。音痴の私には途方もないことに見えた。私の通知表は音楽が2だった。

 長じてから、大人の付き合いとしてカラオケ程度は歌うようになった。でも、踊りは絶対にダメである。盆踊りでさえダメだ。

 やはり自己嫌悪に陥る。三つ子の魂百までとは、よく言ったものである。

「自分らしく」

2007-09-03 13:59:22 | Weblog
 「自分らしく」という言葉が嫌いである。

 よく考えると意味が分からない。その人が普通に生きていれば、それがすでに「自分らしい」のではあるまいか?

 何かよそに本当の自分があって、現在は仮の自分である・・というような意味合いを「自分らしく」という言葉には感じる。

 本当の自分なんて幻想である。今ある自分が自分なのであって、どこかよそに本当の自分があるわけではない。

 「自分らしく」は歌の歌詞にも出てくる。日常会話で使用する人もいる。

 そういう歌や人に出会うと、私はなんだかとても不愉快になる。

CM直前のシーンをCM後に再現するのは止めてほしい

2007-09-02 14:21:20 | Weblog
 TVのCMのあと、CM直前の放送を少しだけ重複して流す番組がよくある。

 なぜそんなことをするのだろうか?

 真剣に見ている者にとって、わずらわしいことおびただしい。

 現在はTV番組で同じ時間にCMを流すことはしない。各局、勝手な時間にCMを流している。

 昔は、どの放送局もCMの時間が同じだから、CM中にチャンネルを変えられることがよくあった。だから、CMの直前の映像を重複して流すことは、スジを分かりやすくするためには、意味があっただろう。

 でも、CMがまちまちの時間に流されるようになってからでも、CM直前の映像を1分ほど再現することに意味があるのだろうか?

 番組を二重に流すと、番組の製作コストが節約できるのだろうか?

 とにかく、真面目に視聴している者にとっては、わずらわしいだけなので、CM後の重複はやめてほしい。

本醸造と吟醸酒

2007-09-01 14:32:50 | Weblog
 私は酒ならお燗をつけたものが好きだ。真夏でもだ。吟醸酒はお燗に向かない。ワインにお燗をつけたみたいになってしまう。

 だから、呑むのはもっぱら本醸造である。本醸造には「醸造用アルコール混入」と書いてある場合がある。そのため、安く作るためにアルコールを混入するのだろうと考える人がいる。

 しかし、それは間違いで、アルコールを混ぜるのは酒にまろやかさをつけるための工夫であって、決してカサを増やすためではない。

 吟醸酒も呑まないわけではない。冷酒で呑む吟醸酒はフルーティーでおいしい。だが、値段が高い。そのようなわけで、私はどうしてもお燗をつけた本醸造を呑むことが多くなる。