:荘子・追伸:
借り物のことばばかりで恥ずかしい限りなのだが、『推背図』というまんがにちょろっと「荘子」が出てくる。ご本人ではない。宋の時代、持つことを禁じられていた書物を所蔵していた道士が、ある日密告されて役人に本を押収されそうになる。ところが、道士は本を人間に化けさせて外に逃がしていたので事なきを得た…というあらすじなのだが、発禁となった書物の一冊に「荘子」が加わっていたのだった。頭をおだんごに結わえ、儒服のようなゆったりした着物をまとって、口と顎に飄々とひげを生やして、役人に尋問された時も両手を上げて口をあわあわさせていたりと、かわいげのあるおっさんである。
道士の弟子に引率されながら、他の本たちともおしゃべりに余念が無い。
「大昔、大椿という木があって、八千年の間葉を繁らせ、八千年の間落葉だった。
こういうのを長命と言うのだ」
「また荘さんの話は大げさでとりとめがない」
ツッコミを入れたのは『抱朴子』である。ふたこぶらくだのような頭に、袖が深くくつろげた仙人風の衣服をまとった、たれ目のおじさんだ。『荘子』からすれば、本気で仙人になりたい人のためのマニュアル本『抱朴子』の方がずっと「大げさ」なのかも知れないが、とてもほのぼのとしたやりとりだ。
最後に弟子が、道士に尋ねるときもやっぱり言われている。
「何千里もある鳥とか、やたら大きなことを言っていた人は?」
「『荘子』だ」
そうなのだ。『荘子』は、本人?も漫画の中で「わしは比喩で言っているのだ」と言うように、距離と時間がものすごくおおごとな話が目立っている。たとえば外篇の、「秋水篇」は、黄河の神と海の神の対話で出来ている。雑篇の「説剣篇」に出てくる、荘子の語る三つの剣のうち天子の剣はひとたび動けば天下が服従するすごい剣だ。中華そのものを剣にたとえることが、ここまで読み勧めてゆくとちょっと小さいかな、と思えるほど、壮大な流れが全体を貫き通している。
第二冊~四冊を占める外篇・雑篇は、後の世の人たちが書き足した部分も強く、内篇で大きく語られていた万物斉同の考え方はより身近なほうへとシフトされている。政治や、普段の生活の中で語られる教えというものがとても増えてくるのだ。自然のままに、ありのままを受け入れ、物に囚われない自在の立場を、外篇と雑篇では強く押してくるのだ。
でも「ありのままでいる」ことを推すことは、推しているその人が「ありのままでいる」ことに囚われている、ということも出来る。そうなると、これを読んで、あるいは手に取った人は、もう荘子と言う人の語った教えに括られてしまっている、と言うことになるのではないだろうか。そうも語っているし、またそうでないのかも知れない。誰のことばでもないことば。
借り物のことばばかりで恥ずかしい限りなのだが、『推背図』というまんがにちょろっと「荘子」が出てくる。ご本人ではない。宋の時代、持つことを禁じられていた書物を所蔵していた道士が、ある日密告されて役人に本を押収されそうになる。ところが、道士は本を人間に化けさせて外に逃がしていたので事なきを得た…というあらすじなのだが、発禁となった書物の一冊に「荘子」が加わっていたのだった。頭をおだんごに結わえ、儒服のようなゆったりした着物をまとって、口と顎に飄々とひげを生やして、役人に尋問された時も両手を上げて口をあわあわさせていたりと、かわいげのあるおっさんである。
道士の弟子に引率されながら、他の本たちともおしゃべりに余念が無い。
「大昔、大椿という木があって、八千年の間葉を繁らせ、八千年の間落葉だった。
こういうのを長命と言うのだ」
「また荘さんの話は大げさでとりとめがない」
ツッコミを入れたのは『抱朴子』である。ふたこぶらくだのような頭に、袖が深くくつろげた仙人風の衣服をまとった、たれ目のおじさんだ。『荘子』からすれば、本気で仙人になりたい人のためのマニュアル本『抱朴子』の方がずっと「大げさ」なのかも知れないが、とてもほのぼのとしたやりとりだ。
最後に弟子が、道士に尋ねるときもやっぱり言われている。
「何千里もある鳥とか、やたら大きなことを言っていた人は?」
「『荘子』だ」
そうなのだ。『荘子』は、本人?も漫画の中で「わしは比喩で言っているのだ」と言うように、距離と時間がものすごくおおごとな話が目立っている。たとえば外篇の、「秋水篇」は、黄河の神と海の神の対話で出来ている。雑篇の「説剣篇」に出てくる、荘子の語る三つの剣のうち天子の剣はひとたび動けば天下が服従するすごい剣だ。中華そのものを剣にたとえることが、ここまで読み勧めてゆくとちょっと小さいかな、と思えるほど、壮大な流れが全体を貫き通している。
第二冊~四冊を占める外篇・雑篇は、後の世の人たちが書き足した部分も強く、内篇で大きく語られていた万物斉同の考え方はより身近なほうへとシフトされている。政治や、普段の生活の中で語られる教えというものがとても増えてくるのだ。自然のままに、ありのままを受け入れ、物に囚われない自在の立場を、外篇と雑篇では強く押してくるのだ。
でも「ありのままでいる」ことを推すことは、推しているその人が「ありのままでいる」ことに囚われている、ということも出来る。そうなると、これを読んで、あるいは手に取った人は、もう荘子と言う人の語った教えに括られてしまっている、と言うことになるのではないだろうか。そうも語っているし、またそうでないのかも知れない。誰のことばでもないことば。