えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:『顔のない女』雑感

2011年01月18日 | 読書
※順番が逆だろうとお思いかも知れませんが、上の文章ありきでこれを書く都合上、レイアウトの順序として日付をずらします。ご容赦ください。

たぶん自分のべとべとした線から脱却するために、今のかすれたような黒や塗るところを決めて筆でしっかり塗ってしまう墨の使い方になったのではないかなあ、と想像していますが、ここしばらくはお話も技巧的に作っているのかなあとも思います。

この「顔のない女」で残念に思ったことは過去作「影男」「クレイジーピエロ」のパロディが露骨であったこと、そしてその過去作以上に本作品自体が面白いものとは思えなかったことです。オチのつけかた、人物の姿、不思議な力の描写、どれも過去作ほどにはそのキャラクターの怖さや残虐さを感じません。それは、二つの作品の魅力の核が「影男」は時間の推移、「クレイジーピエロ」はからだの動作にかかっているためで、時間をかけてゆるやかに浸食してゆく「影男」、身軽にはねまわり敵を斃しつづける「クレイジーピエロ」のある種の爽快さが一枚絵に閉じ込められてしまうことで、話はテンポ良く進むけれど肝心の敵役のすごさが伝わりにくい難点が大きくなってしまったように見えるのです。

昨今のこの人の作品のつくりかたに、「夜姫さま」のあとがきで言及されている「紙芝居」の一連『「動く」→「’決め’のポーズもしくは’見せ場’の静止画」→「動く」』の繰り返しが大きく影を落していることを感じます。
それは、以前の作品が映画のように小さめのコマで物事の推移を追いかけてゆくことに対して、絵に重きを与えて見せてゆくやり方です。そのため、大ゴマを使い描かれた絵には効果線がほとんどありません。
たとえば「鷹姫さま」のように、セリフがまったくなかったり、あるいは「姫さま」シリーズ全体のように動きが少なく、場面がいきなり切り替わることで何も損なわれなければ十分に面白いと思います。

ただ、本作のように、他の作家ならばもっと動きを交えて描くようなシーン、キャラクターがバタバタ動き回ることが想像できる話だと、あえてその手法で書く必要があったのか考える余地はあるのではないでしょうか。


そういう意味では動きの見せ方がどんどん鮮やかになってゆく諸星大二郎とは対照的な進化をしている漫画家なのかも知れません。

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