ぅわー!原千代海さんの訳のままやん!!
解釈の違いでこんなにも印象が変わるとは!
全く違う作品を観てる感覚だった!
いわゆる戯曲の第一幕は、私の記憶から完全に消されていて、
こんな会話のシーンあったけ???藤ケ谷君のために脚色されているんだ!と思って、家に帰って本を部分的に読み返したら、
千代海さんの訳のままだった!!
本を読み返して、改めて、
藤ケ谷君演じるグレーゲルスは、全然私がイメージする人物と異なっていた。
同じ台詞でも解釈の違いで全く印象が変わっていたことに驚いた。
私がイメージするグレーゲルスは、完全にサイコパス。感情を失った人物。
相手の気持ちを考えることが出来ないので、相手の迷惑も顧みず自分の意見や意思を押し付ける。ひたすらイライラさせる人物。
顔は笑っていても目は笑っていないようなイメージ。
だが、藤ケ谷君演じるグレーゲルスは、母親の死と父親の裏切りでPTSDになり情緒不安定さがあり、またマザコン要素もあり、それが原因で理解不能な言動をする人のイメージ。
確かにその通りなんだけど、私のイメージでは完全に自意識を失った印象。
藤ケ谷グレーゲルスにはまだ自意識もあるし、観客は彼の病気の原因が分かっているから彼の超不適切発言に対してまだ同情の余地を感じることができる。
ぶっちゃけ、果たしてそれでいいのか最後まで疑問だったし、原作を読み返しても疑問が残った。
正直、私は、グレーゲルスは同情の余地がないくらい最後までサイコパスでいてほしかった。
あ、決して藤ケ谷君の演技が悪かったと言いたいのではないことだけご理解頂きたい。
それ以外は、やはり、戯曲でも最大の魅力的シーンでもある、家の中の森をどう見せてくれるのかと期待したら、しっかり見せ場にしてくれたし、
藤ケ谷君と忍成君も、私のイメージと異なっていたことを除くと悪くはなかったけども、ぶっちゃけ、今回の舞台での大きな収穫は、ギーナ役の前田亜季さんとヘドヴィク役の八幡みゆきさんがめちゃくちゃ良かった!めちゃくちゃ感情移入できる役作りでした。
グレーゲルスとヤルマールは、気持ちは分かるけどな…な程度の同情しか持てなかった。どっちかというと、二人とも「人形の家」のトルヴァル(主人公のノーラの夫)に近い印象。
ということで、イプセン大先生の作品の中で私が1番の最高傑作だっと思っている、まだ全戯曲を読んではいないが…、
藤ケ谷君で上演すると決まってから何回も何回も東京公演も兵芸公演もチケット抽選に挑みましたが、その度に外れまくり、やはりファンクラブの壁は厚かった…。
もう望みなし…と思ったら兵芸で補助席の販売があることをTwitterで知り、10時販売開始のチケット争奪戦に挑み運良くチケットゲットすることが出来たので観てきました!
今まで定時チケット争奪戦に挑んできましたが、ネットに繋がった試しがなかったのに、今回は上手くいった。てっきり他の回のチケットも取れるのかなと思ったが、即完売だった。
これは、イプセン大先生のお導き!としか言いようがない。
少なくとも、今日の観客の中でイプセン作品目当てだったのは、私と数名だけだったと思うよ。藁
それくらい劇場内の観客層が若い!
さすが、今をトキメクKis-My-Ft2の藤ケ谷君だけある!
久々に来てはいけない所に来てしまったような場違い感を味わいました。藁
いやー、それにしても、本当に解釈の違いだけで全然違う作品だった。
最初に藤ケ谷グレーゲルスのイメージが私のイメージと異なっていたいたことを書きましたが、忍成君のヤルマールも私のイメージと異なっていた。
私のイメージでは、ヤルマールはひたすら気弱な印象。病的にカッとなることはない。
忍成君のヤルマールもまたPTSDを抱えていて、藤ケ谷君もそうだけどPTSDを強調している印象だった。忍成ヤルマールは、自意識がなさすぎてイライラしてしまった。
戯曲を読んでいた時は、グレーゲルスにイライラしてヤルマールに同情していたけど、舞台では、忍成ヤルマールにイライラして、逆に藤ケ谷グレーゲルスに同情していた。
家に帰って戯曲を読み返したら、やはりグレーゲルスにイライラしていた。
これは完全に解釈の違いやね。
何度も書きますが、藤ケ谷君も忍成君も演技が悪かったわけじゃないですからね!
むしろ、病的にカッとなる演技がいかにもPTSD症状だったので上手かったです。ただ、そのPTSDの演技は必要だったのかいささか疑問が残るだけではありますが…。
お芝居に関しては、前田亜季さんと八幡めぐみさんが同情の余地ありまくりの素晴らしい演技でした。お二人とも役の捉え方と見せ方が上手かった。しかも自然。
ギーナはいかにも訳ありな奥さんやん。明確な過去は分からないけども、でも今の家庭を大切にしたい気持ちには嘘がないので、前田ギーナはその匙加減が絶妙でした。ヤルマールを想う気持ちが本当に上手かった。
八幡ヘドヴィクは、パパの忍成ヤルマールと血が繋がっていないかもしれないと思いながらも、忍成パパを愛している演技がめちゃ引き込まれる。
ギーナもヘドヴィクも、ぶっちゃけ戯曲のイメージと変わらなかったのが私の中では救いでした。
あと、浅野さんのエグダル老人も、いつもの浅野さんなら個性やキャラを際立てる印象がありますが、今回の浅野さんの演技は、めちゃくちゃナチュラル。エグダル老人も闇を抱えて生きているけども、グレーゲルスやヤルマールみたいにPTSDを強調していない。
闇があるんだろうな〜という闇のオーラが漂っていて、付け足していく足し算の演技ではなく、削ぎ落としていく引き算の演技が素晴らしかった。前田さんも引き算の演技でした。
逆に八幡さんは、八幡さん自身が年齢不詳なところがあり、10代なのか20 代なのか分からない。いずれにせよ、実年齢より若い役を演じていると思うので必然的に足し算の演技になってしまうが、表現が上手かった。
こう書いてしまうと、藤ケ谷君と忍成君の演技は…になってしまうが、こればかりは役のイメージが異なるだけなので悪しからず…。
だが、やはりPTSD表現は蛇足だったように感じる。
本来の趣旨は主題の野鴨だから。野鴨に直接関係する人物にスポットライトが当たるべきなのに、関節的に関わるグレーゲルスを主人公に持ってくると、本筋がズレると思うんよねー。と戯曲を読み返して改めて思った。
確かに、傷付けられた野鴨という点では、グレーゲルスにも当てはまるが…。
ぶっちゃけ、舞台を観ているときは、イプセンの最高傑作じゃないな〜と思って観ていましたが、改めて戯曲を読み返して、戯曲のト書き通りに演出されていたと思うし、グレーゲルスとヤルマールは私のイメージではなかったけども、戯曲の中のグレーゲルスとヤルマールはやはり魅力的だった。
この戯曲の最大の魅力は家の中の森と野鴨の存在なんですよね。
イプセンは、環境問題も取り上げた戯曲もあるので、この戯曲もまたある意味環境問題を取り上げていると言っても過言ではない。
また、生と死もイプセン作品では最大のテーマでもあるので、ウーマンリブも含め個人の生き方が重要になってくる。そこには男も女も関係ない。一人一人がちゃんと意志を持って生きることが大事。
この戯曲は、空想と現実の狭間で生きている登場人物たちが、同じように空想と現実の狭間で生きている(自覚なしの)ほぼ他人に人生をめちゃくちゃにされる。
理想が全て嘘とは言い切れないが、理想は生きる糧になる。
真実を知ることだけが生きる真理ではない。
知らぬが仏。嘘を信じることで救われる命もある。
誰もが病人で、誰もが誰かを傷付け、また傷付けられて生きている。
やられたらやり返すのではなく、自分の痛みが分かったら、次は相手の痛みも分かろうとする努力こそ生きる真理だと思う。
思い遣りという精神こそ愛。「野鴨」にはしっかりその愛が描かれているので、
改めて最高傑作だと思った!
ぶっちゃけ、舞台を観て理解が難しいと思われた方は、戯曲を読んでほしい。
少なくとも舞台と同じ解釈にはならないと思うから。
ま、私だけか…。
追記:
鶴瓶さん来られてたんや!?さすがに客席舐め回す勇気なかったから、さっさと退出したっちゅうねん(笑)