続きです。
注射器を見ただけで過呼吸となる。注射されると頭に血が上り朦朧とする。終いには気を失う。これってプチ自殺なのではないでしょうか。
心が注射の恐怖を受け付けない。注射の恐怖で心が軋む。限界に近づく。精神が崩壊する寸前になる。崩壊する寸前に心のリミッターが発動し、注射と言う現実をシャットダウンする為に気を失う。これは生物に具わった心の自己防衛本能と言えるのではないでしょうか。
山羊だか羊の仲間で敵に襲われるとショックで簡単に気を失う種類がいます。敵に食べられる為です。敵に食べられて仲間を逃がすのです。この本能はある意味自殺に近いのではないですかね。
自殺はいけないとする考えはキリスト教の教えが一因です。戦国時代に細川ガラシャ夫人が「自分はキリスト教徒だから自殺は出来ない」として家来の槍を受けで死亡しましたが、あれは自殺とどう違うのでしょうか。自分で命じて死んだ訳ですから自殺と私は思っています。
細川ガラシャ夫人が家来の槍で死んだ理由は、お家に迷惑を掛けたくないからです。人質として囚われ、お家の足枷になりたくなかった。自分の名誉を守りたかった。だから死を選んだ。これが罪ならば神様もあんまりだと私は思います。
それと毛利の清水宗治の場合はどうかのか。清水宗治は高松城城主ですがご存知の様に豊臣秀吉、黒田如水により水攻めに遭います。その間に織田信長が明智光秀の謀反で死去。秀吉らはどうしても和睦して帰らざる終えなくなり、清水宗治の切腹のみを戦終結の条件としました。
水攻めは「戦わずして勝つ」訳ですから平和的な戦とお思いでしょうが、さにあらずです。食糧不足が生じます。食料が無くなれば餓死します。城内の人間は馬を食べ最後には人間を食べるようになります。生き地獄です。その地獄を目にし清水宗治は和睦の条件を飲んだ訳です。
実は清水宗治は正式な切腹を初めてした人物です。これまでも腹を切って自殺する者はいましたが、清水宗治の場合は船の上でしたが切腹の前にひとさし舞い、清く腹を切り首を刎ねられた。これが敵味方から賞賛され切腹の正式な形式となったのです。
秀吉側は織田信長が討たれているのですから早く敵討ちの為に戻りたい。交渉を長引かせれば清水宗治の命も助かった可能性は高かった。それが残念でなりませんが、この清水宗治の切腹は自殺に入るのでしょうか。
「城内の者は飢餓に陥っている。死肉を食う者まで現れている。生き地獄である。それを早く終わらせたい。自分の命で城内の者が救われるのなら・・・」として切腹し、自殺と捉えられ非難出来るでしょうか。
私はその点にキリスト教の矛盾を感じます。
続く。