諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

自殺は本当にいけない事なのだろうか。その3

2015年09月16日 10時39分52秒 | 人生

途中、違った記事を書いてしまいましたが「自殺は本当にいけない事なのだろうか」を再開します。

えー、今回、こんな問題発言のお題で書いている理由ですが、仙台の中学一年生が虐めで自殺したのに、その中学の先生は自殺した生徒を転校したと説明し誤魔化した事に腹を立てたからです。

私、以前から言ってましたでしょ。仙台の先生は屑ばかりだって。人が一人死んでいるのに転校したってどの口が言っているのかと思いましたよ。こんなに酷いのですよ仙台の先生は。

教育者になりたくて先生になったのではないのです。宮城県では公務員で上位に位置するから先生になった。安定した仕事だから先生になっただけの事です。

自殺が発覚したら自分のキャリアにキズが付くと思ったのでしょう。だから虐めも自殺も無かった事にしたかったと言えます。本当に屑だと思います。こんな人達に教鞭を取る資格なんて無いです。私が鞭で引っ叩いてやりたいです。もう学校なんて存在しなくても良いのではないでしょうか。

ネットで授業も受けられるし、無駄な先生の大リストラを敢行して貰いたいです。こんな粗大ごみ教師に給与なんか払ってられません。人の命が守れず何が教育なんですか。こんな税金の無駄使い止めるべきです。学校なんていらない。試験で進級する教育システムを一日も早く構築して貰いたいですね。

怒りに任せて話が横道にずれましたが、この虐めで自殺した中学一年生を責められますか。

私、人生って不公平だと思うんです。産まれながらに貧富の差が有るし、才能やルックスにも差が有る。

私みたいに僅かな能力、気安すぎる顔で生きていくのはハンデだと何時も思ってました。例えば私が高倉健そのものルックスだったらどうか。やはり一目置かれる存在に成れたと思います。良い人生送れると思うんです。

自殺した仙台の中学一年生もそんな感じの子供だったと思います。私は新聞販売店の息子でしたから、刑務所上がりの人間を子供の頃から見ていました。新聞販売店は舐められたら続けられません。私の父親は小心者で商売には向いていませんでした。私の母親が勝気な性格だから続けられたのです。

私も凄い小心者です。でも小心者では生きていけない。戦わないと、立ち向わないとやられてしまう。それを新聞販売業と言う商売で学習しました。だから私は喧嘩をした。向かってくる奴と戦った。

私が通っていた中学・高校はプロテスタントの大学までエスカレーターで上がれる学校でしたが、教師は最低でした。

私、教師立会いの元、決闘したことがあります。相手は劣勢になって腕時計をメリケンサックのようにして立ち向ってきましたが、それを見ても先生は何とも言いません。ここの教師は教育者ではないのです。安定と地位を求めて教師になったサラリーマンです。だから生徒が苛められようが、暴力を受けようが見て見ぬふりをしてました。

大体、先生同士で虐めかありましたから、もう何を言わんかやです。キリスト教の教えなど糞の役にもなりません。

柔道六段の柔道教師が若い体育教師の手の甲にタバコを押し付け、体育教師が「あちぃ」と言うと、「お前でも熱いか」と言ったシーンを私の友人が見ています。

私は自習時間、礼拝堂で寝ていたら、牧師である副校長がヤクザ口調で学級崩壊を起こしていた公民の蝋人形みたいな先生を罵倒しているシーンを見ています。人間とはそう言う生き物です。虐めは集団で生きる生物の本能です。自己の立場を認識する為、自己の優越感を得る為の本能です。

人間、集団で生きるのであれば虐めは避けられません。キリスト教でも仏教でも虐めは存在します。神の教えなんて全然浸透していません。牧師だって坊主だって人間。ただの人間。何も偉くないです。人を導くなんておこがましいと私は思いますね。

話は大幅にずれましたが、苛められて自殺した人を責められるでしょうか。キリスト教は自殺はいけないと言いますが、何で世の中に差があるのでしょう。イエスキリストは「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」とか言ってますが、そんな考えでは生きて行けない。戦わなければ集団では生きて行けない。それが残念ながら人間界。この世の仕組みだと思います。

でも優しすぎて、小心者過ぎて、人とは違った個性で苛められる弱い人がいる。弱い人はこの世では辛い思いをする。それが耐えられず自殺する。それのどこが悪いのでしょうか。私、その事に付いてイエスキリストに聞いてみたいです。そして言ってやりたいです。「貴方の言葉は建前でしかない」と。

私が神なら自殺した者に対し労いをしたいです。施しをしたいです。せめてあの世では平穏に過ごさせてやりたい。勿論、天国で暮らせる様にします。現世で自殺するくらい辛い思いをしたのですから。

私のこの考えは神道、そして神道の仏教的解釈に近い考えだと思いますが、まだまだ考えが練り上がっておりません。今の所、そう考えている次第です。

この考えは子供の頃から有しておりましたが、50を超えた現在でも変わっていません。逆に反対意見を聞いてみたいです。

私の考えを否定して貰いたい。私も本当は「この世は地獄」とは私も思いたくないので。この世がもっと良くなって貰いたいので。

 

ではでは。

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする