平成26年2月21日 10:30~
高野山真言宗 金森山新善光寺の客殿にて、住職より弘法大師行状図画(掛軸 2副)に描かれている、お大師様のお生まれから遣唐使して中国で仏教修行を行い、高野山に開創されるまでの説明を受けました。
弘法大師・空海(774~835)
承和2年(835)3月21日、高野山で日本史上最大級の宗教家、空海が死去しました。
空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれました。父の名は佐伯直公善通、母の名は阿刀氏玉衣御前、幼名は真魚(まお)といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学びます。
しかしやがて大学で教えられる儒学では社会にあふれている矛盾を解決できないのではないかと悩みます。そして、その時一人の僧と出会った事から大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになりました。
正式に出家したのは20歳の時。はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗ります。
「空海」の名は、四国の室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとのことです。
彼は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なことも学んでいますが、22歳か25歳のころ経蔵の中で「大日経」を発見、内容に興奮します。
しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいませんでした。彼は中国へ渡ることを決意します。
25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていません。また渡航に必要な巨額な費用をどうやって調達したかも分かっていません。ともかく、空海は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でした。
遣唐使(630~894)までに約20回派遣
空海は804年(31歳)に遣唐使として参加し中国へ
最澄も短期留学の公学生として派遣された。
空海は20年間の留学を条件として中国へ行くが、2年間学んだだけで、806年に帰国する。
806年以降32年間遣唐使は派遣されなかったので、もし2年で帰国しなかったら真言宗はなかったかもしれない。
当時遣唐使は「よつのふね」とも呼ばれ、4艘の船で渡っていましたが、この時一行は嵐に遭い、第3船と第4船は沈没し、多くの留学生が命を落としました。空海はこの時第1船に乗っており、第2船には彼の生涯のライバルとなる最澄が乗っていました。最澄は空海と違って当時既にかなり名をなしており、身分も国費留学生でした。この時はまだ二人は出会っていません。
さて、中国についた空海はまず梵語を勉強します。それは仏教の聖典が多くはもともと梵語で書かれており、それをマスターしておくことは教えの深い部分を知るためには必須と思われたからです。彼はそのほかにも当時中国にあった種々の文化を修得しました。儒教や道教はもちろん、キリスト教・ゾロアスター教・マニ教なども勉強したといいます。その一方で彼は多大の資金を投入して、日本に持ち帰るための仏典の筆写をやらせ、多数の仏教の法具を購入しました。
中国についてから1年近くたった時、彼は満を持して青龍寺の恵果のもとを訪れました。恵果は密教の大きな二つの流れ「大日経」系と「金剛頂経」系を共に継承した、中国密教の頂点に立つ僧でした。その恵果も彼を待っていました。
空海が来るなり、恵果は他の弟子が驚くのを制止して自分の持っている全ての知識を彼に伝える作業を始めました。彼は空海が自分の持つ密教の法を嗣ぐことのできる才能を持つ逸材であることを知っていたからです。
この伝授は3ヶ月後の恵果の死によって終了しますが、その間に彼は10年かからなければ普通伝えられない程のものを恵果から学んだといいます。恵果の法嗣を受けたのはこの空海と中国僧の義明の2人だけでしたが、義明はその後若くして死んでしまい中国側の法灯は途絶えてしまいます。そのため、密教の正統はこの時、中国を離れて日本に渡ることになりました。
彼は恵果が亡くなると20年間の留学の予定を切り上げてただちに帰国します。これは遣唐使になった時の約束違反ですから、本来死罪ものです。しかし彼が学んできたものは十分それをひっくり返す価値のあるものでした。彼はそのことを書いた朝廷への報告書を提出しました。そして幸いなことにその彼の報告書を理解し、その重大性を天皇に進言できる人物が存在していました。
一緒に遣唐使として中国にわたり、一足先に帰国していた最澄です。最澄は留学の予定時間も短かった為、どうしても色々なものをつまみ食いするだけの留学になっていました。彼も一応密教は勉強してきたのですが、空海ほど深くは学んでいなかったのです。彼は空海の話を聞きたいと思いました。
最澄の言葉により嵯峨天皇は空海を新しい平安京に呼びました。天皇が空海に彼の密教はどんなものか尋ねると、彼は即身成仏の実際をお見せしましょう、と言い、その場で印を結んで何か真言を唱えました。するとその時嵯峨天皇の目には空海の体が真っ赤な炎に包まれ、その姿が大日如来に変身したように見えたのです。
こうして空海は遣唐使の任を途中で放棄した罪を許され、高雄山寺で真言宗の法灯をかかげることができました。彼の許には最澄も自分の弟子を連れて入門しました。(二人はその後理趣経の扱いで対立、袂を分かつ)
一方では彼は中国で学んだ知識を活かして各地の土木工事の指揮を取ったり、また庶民教育のための学校を設立するなど、非常に精力的な活動をしています。また、彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に彼は嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆と呼ばれることになりました。また絵画や彫刻の才能もあったということで、彼は宗教家としてのみでなく、社会事業家・芸術家としても精力的に活動をしたのです。
その空海にもやがて死の時が訪れます。先行きが短いことを知った空海は京を離れ、高野山に籠ります。高弟の一人の真雅を法嗣として指名(東寺を実慧,神護寺を真済,東大寺真言院を真雅に託した)、伝法灌頂を授け、最後の力を振り絞って衆生済度のために万灯万華会を行います。そして結局2年間の闘病生活を経て承和2年(835)3月21日死去しました。そして多くの伝説が生まれました。
空海の伝説は全国各地にありますが、しばしば温泉を見つけたり仏像を刻んだりまた各種の奇跡を起こしたことになっています。日本の温泉の3分の1くらいは、伝説で空海か役行者(えんのぎょうじゃ)が見つけたことになっているかも知れません。
天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈しました。そして、更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号を贈り、彼の遺徳を讃えました。