えんの会が終わってから、えんの会の歌の一つにあった
「ポー川のひかり」を観にいくことにした。



「ポー川のひかり」オフィシャルサイト
「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ監督作品。
2006年。イタリア映画。
岩波ホール。
しみじみとしたいい映画だった。
ボローニャ大学歴史図書館のクラシックな建物。
イタリア北部を流れるポー川のみずみずしい自然。
美しい映像と、いい音楽を聴いた、と思った。
そしてきっぱりとした主張を受け取った、と思った。
それらは渾然一体となって、心地よい波となって私たちを包む。
原題は「百本の釘(Cento Chiodi)」というのだ。
作品の抒情性にポイントを当てると「ポー川のひかり」、
思想性にポイントを当てると「百本の釘」ということになろうか。
パンフレットに歌人岡井隆が『もう一度観たい 「ポー川のひかり」』
とする文章を寄せている。
「・・ボローニャ大学の図書館のおびただしい古書の上に
一本一本ささった大きな黒い釘。釘というよりよりあれは鏨(たがね)
というやつではないか。『百本の・・』というのは、たくさんの(無数の)
という意味だろう。たしかにあの釘は、
十字架の上のイエスの手足に打たれた釘をしのばせた。・・」
その磔刑を演出した哲学教授は大学から忽然と姿を消し、
ポー川河畔の廃屋に住み着き、村の人々と素朴な交流をするのだ。
その風貌から「キリストさん」と呼ばれて。
やがて彼は村を去ることになるのだが、
作品最後、司教と教授の討論が圧巻だ。
教授の言葉を拾う。
「あなたは人間より書物を愛しておられる。」
「”世の英知”は欺瞞です」
「神は本など書かない。書物はどんな支配者にも、神にも仕える」
「神が! 神こそこの世の虐殺者だ。息子さえ救わなかった。」
「審判の日には、神こそこの世の苦痛について釈明すべきです。」
ここに「百本の釘」の主張がこめられているのだと思う。
西洋の思想については、わからない、難しい、という意識が先に立ち、
ことにキリスト教となるとお手上げであるが、
人が幸せに生きていくとはどういうことか、という視点なら
私にも参加できる考えだと思った。
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岩波ホールには、職場のかつての同僚が勤めていて、
久しぶりの再会を果たした。
よい映画をありがとう。