梅雨時の病院は好きではない。どうもいい思い出がない。
下の妹が通う幼稚園で、集団疫痢が起きたのは、私が小学校3年の時だったと思う。ちなみに疫痢って奴は、赤痢の軽い症状の奴で、法定伝染病である。
上の妹ともども、私も感染して、都立荏原病院に入院させられた。もっとも病気の症状が出たのは数日だけで、後は日がな一日病室でゴロゴロしているだけだった。
その病棟は伝染病患者専用の病棟であり、あの時は近所の子供たちが数十人入院していた。幼い子が多く、私と同学年の子はほとんどおらず、私が年長であったため、子供たちのボス的存在になっていた。
いや、正確に言えば、幼い子供たちの遊び相手であり、世話役のような立場であった。ボスといえば聞こえはいいが、実際は幼子たちの動く玩具扱いであった。仕方なくやっていたが、正直一人になりたいと切望することが少なくなかった。
しかし、伝染病専用病棟であるため、鍵がかけられた扉の向うには行けず、他の階はもっと重病の患者がいて、子供心にもその不気味さは分るので、行く気になれなかった。
もっとも子供って奴は、探検好きであり、大人しくしていろと言われたって、無理なものは無理。私は鍵がかかって空かないはずの窓の一つが、少しひねれば空いてしまうことを見つけてしまった。
小さい子供たちが付いてくると面倒なので、寝静まった頃を見計らって冒険に出かけた。予め窓のサッシに、食事の時に出てきたマーガリンを塗っておいたので、音をたてずに窓を開けることに成功した。
窓からベランダに抜け出して、四つん這いで窓の下を移動して、まんまと病棟の脇の非常階段にたどり着いた。本当は外の庭に出たかったが、あいにくそちらには別の扉がついていて降りれなかった。
仕方なく非常階段を登り、上の階を無視して屋上に這いずり上がってみた。その日は昼間の雨が止んで、梅雨の晴れ間のような星空が覗けた。月が眩しいほどに輝く星空に感激して、しばし乾いていた部分に寝転び、星を眺めていた。
やがて、星空にも飽きて、次の冒険に赴くことにした。屋上から出れる扉をみつけて、そっと開けると階段があり、私が知らない病棟につながっていることが分った。
そろそろと階段を下りてみたが、妙なことに人の気配がしなかった。カーテンのない窓から射す月明かりのおかげで、病室は空っぽであることが分った。静か過ぎる夜の病棟を、不思議な気持ちで歩き回った。
当然に医者や看護婦がいるはずの部屋も誰もいない。いや、機材もおいていないところからすると、使っていない病棟に入り込んでしまったらしい。時間が止まったかのような、空っぽの病棟はまるで異次元空間だ。
「坊や、どこから来たんだね」
いきなり声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。振り返ると、待合室らしきスペースの長いすに座っている、おじいさんに気がついた。
手元にキセルがあって、その火口から紫煙が昇っているところからして、どうやら一服しているらしい。私が病棟の名前を言うと、「伝染病病棟だね」と言い、そのあと、じっと私を見つめはじめた。
沈黙に耐え切れず、私がここに来たらいけないの?と訊ねると、「ああ、ここは来ちゃダメだよ。」と真面目腐って言うものだから、つい言い返した。じゃあ、お爺さんはイイの?
すると、そのお爺さんはニヤって笑って、「ここに来ないと、キセルが飲めないからねぇ」と煙を吹かしながら答えてくれた。その後、いくつか話をしたと思うが、じっとしているのが、もったいなくて私は探検に行くよと言い残して、その場を立ち去ろうとした。
すると、そのお爺さんが「坊やは、もうすぐ退院だから、もう来ちゃ駄目だよ」と声をかけてきた。私は振り返らずに、ありがとうと答えて、薄暗い廊下を早足で駆け抜けた。
下に下りる階段の手前で、やはり鍵付きの扉があって、ここで行き止まり。私はうろうろと、他の出口を探したが、結局見つからず、仕方なく戻ってきた。
お爺さんに、他の出口を訊こうと思ったが、その姿はなかった。不思議だったのは、キセルの紫煙の匂いが消えていたことだ。いや、そういえば、さっきも匂いはしなかった。
首をかしげながら、屋上に上がるが、やはり誰もいない。はて?あのお爺さんも非常階段から戻ったのかな。
その時は深く考えず、非常階段を素早く下り、ベランダを這って、件の窓から自分の病棟に戻った。冒険に満足して、すぐに眠ってしまい、あのお爺さんのことはすぐに忘れてしまった。
その数日後のことだ。医師の回診の際に退院を告げられた。すごく嬉しかったが、同時にあのお爺さんのことも思い出した。あのお爺さん、もしかしたら、この病院の医者なのかな。
退院の日、母が手続きをしている間、長く世話になった看護婦さんたちとお喋りをした際、あのお爺さんのことを訊いてみた。誰も知らなかった。どこで会ったのかと訊かれたので、私は得意げに病棟を窓から抜け出して、非常階段から屋上にあがった先の病棟だよと答えた。
そこは取り壊し予定の建物で、誰も入れないのよと、不思議そうに答えてくれた。私は大丈夫だい!屋上の鍵は開いているからねと自信満々に答えた。
その時は、そこで話は終わり、私たちは久々に家に帰った。ところが、まだ疫痢は治りきってなかったらしく、私は再び病院に戻る羽目になった。
その時には、あの窓は修理されていて、看護婦さんにもう出てはダメよと言われてしまった。余計なこと、言うのではなかったと後悔したのは言うまでもない。
悔しそうな私をみて、再びやらかすと危惧したのだろう。看護婦さんは、あなたが夜中にあったお爺さんは、もしかしたら昔あの病棟で死んだ幽霊かもしれないの。だから、絶対あの病棟に行ってはダメよと釘を刺された。
私は幽霊だなんて、毛ほども思っていなかったので、キョトンとした覚えがある。あれが幽霊?
そんなわきゃない。あれは看護婦さんが、悪戯好きの私を諌めるための作り話に違いない。絶対そうだ。
でも、今にして思い返すと、たしかにキセルの紫煙の匂いはなかったのも確か。いやいや、きっと私の勘違いだろう。まったく、大人って奴は、子供を騙すのが好きなんだから。
それにしても、このモヤモヤ感。嫌だね、だから梅雨は嫌いなんだ。でも、取り壊し前の病院には、入り込まないほうがいいと思いますよ。