上をみればきりが無い。だが、下には下がある。
格差社会との表現は好きではない。人類の歴史において、等しく貧しかったことはあったと思うが、豊かさを平等に享受したことはないと私は認識している。
当然だと思う。狩猟の腕前に差があるのは当然だし、果実を探す技術だって個体差が相当にあったと思う。田んぼや畑で植物を育てるのも、場所の差、雨量の差、そして育てる人の技量の差が出るのは必然だ。
それは近代の産業社会になっても同じこと。格差はあるのが当然であって、むしろ無いほうが不自然だ。結果の平等を求めれば、それは各人の努力を貶めることであり、怠惰を正当化することにつながる。
格差は、結果的に必然に生じるものだ。大切なのは、結果の平等ではなく、機会の平等であろう。誰にでも挑戦の機会を与えること、正当な努力に報いられる公正な社会であることだ。
ところで、新聞などによると、若者の失業率が1割に近づいているそうだ。
そのことを憂える気持ちは分らないでもない。就職氷河期と呼ばれる昨今の状況を思えば、若者たちが就職できないでいることを心配したくなるのは当然だとも思う。
しかし、だ。私には違和感がある。
どうも、最近の若者は社会に夢を見すぎている気がしてならないのだ。私は円高不況が声高に叫ばれている時代に就職活動に入った。円高不況が、実は好況の前触れであったせいか、就職は希望通りであった。
一応、一部上場の大手企業であったが、新興企業であり、都市銀行の関与が非常に強い会社であることは分っていた。でも入社してみて、社内は活気に溢れており、激務ではあったが満足のいくものであった。
ただ、私はそれほど会社に夢を託していたわけではない。まだ、あの頃は金を貯めてクライミング修行の長旅に出る夢を持っていた。いずれ辞めるつもりでいたが、仕事に手を抜く気は更々なく、上司との飲み会は断らず、雑用も嫌な顔せずにこなした。
その場、その場では全力投球のつもりでいた。不満がなかったわけではない。ただ、オイル・ショックの不況や、梼Y、夜逃げなどを割りと間近で見ていたので、会社なんてそんなものだと割り切っていた。
その後、身体を壊して長きに渡る病気療養に入ってしまうのだが、9年後30代に入ってからの再就職活動の際にも感じたことだ。
なんか、今どきの若者って過剰に夢を見すぎていないか?
私は再就職の時、希望する勤務先にほとんど夢なんか見なかった。仕事さえ与えられれば、全力を尽くすだけのこと。それが自分に向くか、向かないかはやってみなけりゃ分らない。向いてないなら、自分を変えればいいだけのこと。それに失敗したら、ほかを当たればいい。
とにかく、まずはやってみよう。そう思っていた。だから社員一万人を超える大企業から、銀座の裏通りの雑居ビルの小さな事務所への転職でも不満はなかった。
ところがだ、最近の若者は形から入る。世間に名の通る有名企業ばかり希望する。自分に合うか、合わないかの価値観を異様に大切にする。
つい先日も、妙な若者の相談を受けた。就職活動100件、全てダメだったとかで、ならば資格を取ろうと志したようだ。その就職活動を聞いて驚いた。すべて有名企業ばかりなのだ。
ちなみに、その若者の出身大学は無名といっていい新興大学で、私自身その名前を知らなかった。偏差値どれくらいなのと聞いたら、そんなことで差別しないでくださいと色めきたつ。
おいおい、そりゃ差別じゃないぞ。自分の高校までの勉強の成果が、大学受験につながっているのだろう。酷な言い様だが、ろくに勉強していなかったからこそ、無名の大学しか入れなかったのではないか。
有名大学に入ることだけが人生だとは言わない。無名の大学だって、有意義な学生生活を送ることは可能だろう。でも、社会の評価は冷徹だ。有名大学に入れるだけの努力をした学生と、それを怠った学生とを平等にはみない。
一時間ほど話しただけだが、私の見立てだと、この子は地道な努力をしてこなかったとしか思えない。とにかく、長続きした趣味なり、得意分野なりがない。いろんな経験をしたと誇らしげに語るが、私の目にはどれ一つ物になっていないことが明らかだった。
こんな時、私は冷たい。彼にいくつかの資格を提示して、この試験に合格したらもう一度来なさいと伝えて、話を終えた。多分、無理だろうと思う。無名大学しか受からなかった彼が、有名企業しか希望しなかったが故の過ちを繰り返すと思う。
この彼もまた、無職の若者としてカウントされるのだろう。私からみれば、十分健康であり、出来る仕事ならいくらでもありそうだ。でも、彼は社会的に有名な会社、知名度のある仕事しかやろうとしないことも分る。
金になる仕事は、人の嫌がることだと何故分らない。自分の未熟さを自覚して、変わる事を意識しなければ進歩はない。いったい、何時から20代の若者が一人前だと看做されるようになったのか。
こんな若者ばかりではないことは、分っているつもりだが、正直言って日本の未来を悲観したくなるね。誰だよ、あんな子供を育てたのは。誰のせいだ、あのような教育を授けたのはさ!
理想を体感できなかった大人が、出来もしない、ありもしない理想を子供に刷り込んだ結果が、このザマであるように思えてならない。もっと現実を直視しろと、声を大にして言いたいぞ。
格差社会との表現は好きではない。人類の歴史において、等しく貧しかったことはあったと思うが、豊かさを平等に享受したことはないと私は認識している。
当然だと思う。狩猟の腕前に差があるのは当然だし、果実を探す技術だって個体差が相当にあったと思う。田んぼや畑で植物を育てるのも、場所の差、雨量の差、そして育てる人の技量の差が出るのは必然だ。
それは近代の産業社会になっても同じこと。格差はあるのが当然であって、むしろ無いほうが不自然だ。結果の平等を求めれば、それは各人の努力を貶めることであり、怠惰を正当化することにつながる。
格差は、結果的に必然に生じるものだ。大切なのは、結果の平等ではなく、機会の平等であろう。誰にでも挑戦の機会を与えること、正当な努力に報いられる公正な社会であることだ。
ところで、新聞などによると、若者の失業率が1割に近づいているそうだ。
そのことを憂える気持ちは分らないでもない。就職氷河期と呼ばれる昨今の状況を思えば、若者たちが就職できないでいることを心配したくなるのは当然だとも思う。
しかし、だ。私には違和感がある。
どうも、最近の若者は社会に夢を見すぎている気がしてならないのだ。私は円高不況が声高に叫ばれている時代に就職活動に入った。円高不況が、実は好況の前触れであったせいか、就職は希望通りであった。
一応、一部上場の大手企業であったが、新興企業であり、都市銀行の関与が非常に強い会社であることは分っていた。でも入社してみて、社内は活気に溢れており、激務ではあったが満足のいくものであった。
ただ、私はそれほど会社に夢を託していたわけではない。まだ、あの頃は金を貯めてクライミング修行の長旅に出る夢を持っていた。いずれ辞めるつもりでいたが、仕事に手を抜く気は更々なく、上司との飲み会は断らず、雑用も嫌な顔せずにこなした。
その場、その場では全力投球のつもりでいた。不満がなかったわけではない。ただ、オイル・ショックの不況や、梼Y、夜逃げなどを割りと間近で見ていたので、会社なんてそんなものだと割り切っていた。
その後、身体を壊して長きに渡る病気療養に入ってしまうのだが、9年後30代に入ってからの再就職活動の際にも感じたことだ。
なんか、今どきの若者って過剰に夢を見すぎていないか?
私は再就職の時、希望する勤務先にほとんど夢なんか見なかった。仕事さえ与えられれば、全力を尽くすだけのこと。それが自分に向くか、向かないかはやってみなけりゃ分らない。向いてないなら、自分を変えればいいだけのこと。それに失敗したら、ほかを当たればいい。
とにかく、まずはやってみよう。そう思っていた。だから社員一万人を超える大企業から、銀座の裏通りの雑居ビルの小さな事務所への転職でも不満はなかった。
ところがだ、最近の若者は形から入る。世間に名の通る有名企業ばかり希望する。自分に合うか、合わないかの価値観を異様に大切にする。
つい先日も、妙な若者の相談を受けた。就職活動100件、全てダメだったとかで、ならば資格を取ろうと志したようだ。その就職活動を聞いて驚いた。すべて有名企業ばかりなのだ。
ちなみに、その若者の出身大学は無名といっていい新興大学で、私自身その名前を知らなかった。偏差値どれくらいなのと聞いたら、そんなことで差別しないでくださいと色めきたつ。
おいおい、そりゃ差別じゃないぞ。自分の高校までの勉強の成果が、大学受験につながっているのだろう。酷な言い様だが、ろくに勉強していなかったからこそ、無名の大学しか入れなかったのではないか。
有名大学に入ることだけが人生だとは言わない。無名の大学だって、有意義な学生生活を送ることは可能だろう。でも、社会の評価は冷徹だ。有名大学に入れるだけの努力をした学生と、それを怠った学生とを平等にはみない。
一時間ほど話しただけだが、私の見立てだと、この子は地道な努力をしてこなかったとしか思えない。とにかく、長続きした趣味なり、得意分野なりがない。いろんな経験をしたと誇らしげに語るが、私の目にはどれ一つ物になっていないことが明らかだった。
こんな時、私は冷たい。彼にいくつかの資格を提示して、この試験に合格したらもう一度来なさいと伝えて、話を終えた。多分、無理だろうと思う。無名大学しか受からなかった彼が、有名企業しか希望しなかったが故の過ちを繰り返すと思う。
この彼もまた、無職の若者としてカウントされるのだろう。私からみれば、十分健康であり、出来る仕事ならいくらでもありそうだ。でも、彼は社会的に有名な会社、知名度のある仕事しかやろうとしないことも分る。
金になる仕事は、人の嫌がることだと何故分らない。自分の未熟さを自覚して、変わる事を意識しなければ進歩はない。いったい、何時から20代の若者が一人前だと看做されるようになったのか。
こんな若者ばかりではないことは、分っているつもりだが、正直言って日本の未来を悲観したくなるね。誰だよ、あんな子供を育てたのは。誰のせいだ、あのような教育を授けたのはさ!
理想を体感できなかった大人が、出来もしない、ありもしない理想を子供に刷り込んだ結果が、このザマであるように思えてならない。もっと現実を直視しろと、声を大にして言いたいぞ。