ヌマンタの書斎

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改憲議論に思うこと

2013-07-08 11:59:00 | 社会・政治・一般
民主主義における決定機能は多数決という手段をとることだ。

これは最大多数意見をもって結論とすることであり、その判断基準は倫理的な正しさでもなければ、情緒的な心配りでもない。ただ、多数であることだけが決定原理である。一応言っておくと、少数意見を尊重することが民主主義ではない。少数意見を多数決原理をもって圧殺することが民主主義である。

では多数とは何をもって判断するのか?

これは相対的に意見を表明した者のなかで最大多数意見をもって良しとする。ただし、意見(投票権)を述べる権利を持つ者が半数以上参加していなければ、その判定は価値が低いと考えて再票決となる。

極端に言えば、投票率が50%を超えていれば、そのなかで最大多数の意見こそが正しいとされる。例を挙げれば、100人投票権を持つ者がいて49人が欠席しても、有効な投票だし、残り51のうちA案に賛成者が20人でも、他のB、C、D、E案の賛成者が各々8人未満ならA案をもって決定する。

100人のなかの20人の意見でも、条件さえ合えば結論とされる。これが民主主義における決定構造である。

もっとも投票率は三分の二以上だとする考えもあるし、最大多数ではなく過半数を超えることが要件だと拘束をかけることもある。そして三分の二以上の賛意をもってでなければ認めないという拘束もある。それが所謂憲法96条問題だ。

何度か書いている通り、私は改憲論者だ。その意志に変わりはないが、正直言えば、現段階での改憲は無理だと考えている。

理由は簡単で、日本には事なかれ平和主義が蔓延しているからだ。まともな常識と判断力を持っている人なら、自衛隊が憲法違反であり、また軍隊が平和に貢献することを否定したりはしない。

また少し真っ当な見識がある人なら、日本が戦後軍事力による政治力行使を実際にやってきた事実を認識しているはずだ。立派な憲法違反なのだが、さりとて改憲だの、自衛隊廃止などとは騒がない。

どうせ憲法なんて立派な額に入った銘文のようなもので、それが現実に即さなくても、また政府が守っていなくても、日常生活には支障はないと分かっているからだ。

また、近所には平和憲法という虚構にしがみついて騒ぎ立てるうるさ型がいるので、ことさら奴らと争う愚も避けたい。今は自分の平穏な生活こそが大切なのだ。どうせ守っても守らなくても変わりがない憲法に囚われる愚は避けたい。

おそらく少なからぬ日本人が、このような良識的で八方美人的で、なおかつ平穏な選択をすると思われる。

私自身はその選択を、愚昧で現実逃避で勇気のない敗者の言い訳ぐらいにしか評価していないが、アメリカ軍に平和を守ってもらっている今の平穏無事な日本の安泰を思うと、危機感のない愚かな判断を笑うことは出来ない。

なんとなれば、私自身がその愚かな平穏に安住している一市民に過ぎないからだ。

だが、それでも危機感はある。太平洋戦争の敗北を謝ればいいと誤魔化してきた卑怯者には理解できぬ(する気もない)だろうが、法令が現実に即していなかったことが、軍部の専横を招き、結果的に戦争を拡大させてしまった。

具体的には明治憲法の統帥権問題なのだが、その問題さえまともに考えることを避けてきた愚昧さが、今再び繰り返される可能性を危惧しないことこそ浮「。

21世紀において日本を侵略する輩がいるとしたら、それはシナかコリアであろう。前提条件として日米安保が機能しない場合となるが、その場合日本はなし崩し的に戦争への道を再び突き進む可能性は非常に高い。

なにしろ、こちらは侵略された側であり、今まで誹謗されてきた恨みも募って一気に好戦気分に火が付く。戦いは始めるよりも終わらせる方が難しい。戦時立法さえまともに整備していない日本は、憲法を無視してきたツケを一気に払わされる。

侵略者に対する怒りから軍を支持する大衆と、法令の縛りを無視して戦う軍を政府がコントロール出来ない可能性が非常に高いのだ。日本憲法は守られず、有事法制も未整備の日本政府は、なし崩し的に戦争に引きづり込まれる。

それは一世紀前に辿った同じ道のり。

戦争をやった日本が悪い、謝罪こそが反省だとしてきた愚かさのツケは、今の子供たちにこそ降鰍ゥる。

その頃には死んでいるか、老齢を迎えているはずの私は、痛い目に遭わなければ分からないバカって、たしかにいるなとボヤいているだろう。

もちろん、この予測、外れてくれたほうが嬉しいのですがね。
コメント
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